〈5日目/裏〉

 夜になり、雨が上がって雲間から三日月が姿を現していた。一日中雨が降っていたためなのか、気温もこの時期にしてはかなり涼しく感じる。


 白猫は三毛猫を誘って屋根の上に来ていた。そこから見える甲府盆地の夜景を眺めながら、何から話せばよいのか迷っていた。


「どうしたの?」


 隣で三毛猫が静かに尋ねる。


「たぶん……なんだけど」


「うん」


「人間の清太が、人間の私に告白したみたい」


「ええっ!?」


 三毛猫は驚いて言った。


「俺が……人間の俺が、そう言ったってこと?」


 そう尋ねる三毛猫に、白猫は一度頷いたが、すぐに首を振った。


「私ね……。いえ、この猫の体なんだと思うんだけど、不思議な力があるみたいなの」


「不思議な力?」


「何ていうか……その人の記憶や想いを読み取る……みたいな」


「想いを……読み取る?」


 三毛猫はそう言って黙ってしまったが、白猫はそれに黙って頷いた。


「誰でもっていう訳じゃないの。だけど、人間の清太の想いは読み取れた。清太が私……人間の結羽に告白したこと、そして、結羽も清太の想いを受け入れたって分かったの」


 呆気にとられたような顔でこちらを見つめる三毛猫は、ようやく口を開いた。


「ほ……本当に、そんな事が」


「結羽は今日、体育の時に、美弥にバスケットボールをぶつけられた。そして一人でお墓で泣いていた時に、清太が追いかけてきて告白したみたい」


「俺が……」


 うん、と三毛猫の方に頷いた。白猫はそこで甲府盆地の方に顔を向けた。空はまだ雲が残っている。そして、盆地には数えきれないほどの明かりが、まるで地上に降りた星たちのように輝いている。そこにいる一人ひとりの姿は見えないが、そこには自分たちの知らないたくさんの人間たちが間違いなく存在する。


「それと……もう一つ、清太の想いから分かったことがあるの」


「もう一つ?」


 尋ねる三毛猫の方にゆっくりと顔を向ける。


「私が、死んだ後のこと」


 そう伝えると、三毛猫は大きく目を見張った。


「ど、どういう事……」


「3日後の7月20日に私は死ぬ。たぶん、自殺するの。……そして、お父さんは横領事件と清太のお父さんへの傷害事件の容疑者に、真羽は家出、そしてお母さんは……」


 そこで言葉を続けられなくなってしまった。再び涙が溢れてくる。猫でもこんなに泣けるのだと思って自分でも驚いてしまう。すると、三毛猫はそっと顔を寄せてきた。


「どうして……」


 彼が呟く。その体温を感じながら、白猫はしばらくそこで嗚咽していた。三毛猫の柔らかい体毛が、まるで涙を吸い取っていくように感じる。もう何も怖がることはない。それは何かの間違いであってほしい。しかしそう思うことはもはや不可能だ。清太から読み取ったその悲劇の記憶は、頭の中に刻まれてしまったようにはっきりと残っている。涙が後から後から流れてくる。


「そんな……どうして昔の俺が……」


 三毛猫が言う。白猫はハッとして彼の方を振り向く。


「昔の……?」


「あっ……だから……」


 三毛猫も顔を背けた。彼はそこでしばらく黙っていたが、やがて白猫の方を向いた。


「ごめん……。実は俺も、結羽に秘密にしていたことがあるんだ」


「秘密?」


「俺は……この世界の清太じゃない。今から8年後の世界を生きていた俺なんだ。気づいたらこの猫の姿になってこの世界にいたんだけど」


「まさか……」


 白猫はそこで息を呑んだ。山からの風が顔に吹き付ける。三毛猫は続けた。


「だから、結羽が死んでしまうことも、結羽の家族のことも、ウチの父さんのことも知っている。それは……事実なんだ。俺は、結羽の墓参りの帰りにお母さんに会って、そこで結羽が死ぬ前に書いたっていう手紙を受け取った。そして、その次の日に、お母さんは家に火をつけて……」


「嘘……でしょう?」


「俺が結羽を支えられなかったから、そして、君のお父さんが横領と傷害の容疑者になったから、多分、結羽は死んだ。でも、お父さんはずっと行方不明だったんだ。だから真相は全く分からなかった。……だから、俺は、せめて結羽のお父さんの事を調べようと思った。お父さんが犯人な訳がない。きっと、何かの理由があって事件に巻き込まれただけなんだ」


「そんな……」


「黙っていてごめん。でも、結羽にそんな未来を伝える気にはとてもなれなかった。だから、何も知らせずに、お父さんの事をどうにかして調べようとしていた」


 三毛猫はそう言って、白猫の顔にその顔を擦り付けてきた。彼の顔から体温がしっかりと伝わってくる。


「でも今のところ何も分からない。だからたぶん、明後日には事件は起きてしまう。でも、俺は事件現場がウチだと知っている。だから、もし結羽のお父さんがウチに来て、本当にウチの父さんを傷つけようとしたら、その時には絶対に止める。そうすれば、きっと真実が明らかになる」


「――」


「それに、結羽が言う通りなら、この世界の人間の俺は結羽に告白した。俺の記憶とは違っているけど、人間の俺がきっと結羽の支えにもなるはず。だから、少なくとも結羽が死ぬ事はないはずなんだ!」


 三毛猫がそこまで言った時、黙って彼の言うのを聞いていた白猫は、そっと彼から顔を離した。そして、彼の目をじっと見つめる。


「もう一つ」


「えっ?」


「たぶん……もう一つ、別の事件があるの。誰も知らない、私だけの事件」


 山から急に冷たい風が吹き下ろしてきた。白猫は視界に広がる夜景をぼんやりと眺める。周りが暗い分、ここからの夜景は最高に美しい。その光の輝きがまるで心の奥まで灯してくれるような感じがした。


「事件って……どういうこと?」


「私……たぶん、拉致されるの」


 三毛猫が息を呑んだのが分かった。白猫は彼の首元に顔を寄せる。彼の体温が白猫の体を温めていくのをしっかりと感じた。


「いいえ……たぶん、それだけじゃない。私は、その拉致した男たちに……」


 そこまで言うと、再び涙が溢れてきた。彼に顔を擦り付けていく。


「どうして……どうして、そんなこと……」


 三毛猫の声が耳元で聞こえたが、白猫はしばらく嗚咽していた。ただ彼は黙ったまま、白猫の顔を覆うように、その顔を擦り付けてくる。彼の温かな体温で、ようやく気持ちが落ち着いたのは、かなり時間が経ってからだった。


「ねえ……私はどこからやって来たんだと思う?」


「えっ?」


「この世界には、間違いなく人間の私と清太がいる。そして、あなたは、8年後の世界からやって来た。じゃあ、私は?」


 そう言って、再び三毛猫から顔を離した。彼の顔が目の前にある。


「私もたぶん、未来の世界からやって来た。……そう。未来の、死後の世界から」


「まさか――」


 三毛猫はハッとしたようにそれだけ呟いて、絶句してしまった。白猫は頷いてから続ける。


「昨日、私が気絶していた時、私は、辺り一面に女郎花の花が咲いている場所にいた。そこには銀色の髪をした女性が一人立っていたの。たぶん、あれは神様だと思う。そうしたら彼女が言うの。『あなたの為すべきことは、あなたの記憶を取り戻すことではない』って」


「記憶って……どういうこと?」


「私が倒れていたあの家は、お父さんの部下で、彩菜と一緒にいた松上という男の家なの。私、中学生の頃に彩菜の家に遊びに来た時、あの家の夫婦に誘われて何度かバーベキューをしたことがあって、その時にあの松上って男も見たことがあった」


「じゃあ、あの男を知っていたの?」


「ほとんど忘れていたんだけどね。でも、この前のイベントで松上の足元に触れた時、彼に上から覗き込まれているような風景が見えた。それが気になってあの家に一人で行ったんだけど、そうしたらもう一人知らない男がやってきた。それで二人が何か話している時、野良猫に追いかけられて彼らの足元をすり抜けてから倒れ込んだと思うんだけど、その足元に触れた瞬間、今度はその男からも覗き込まれているような風景が見えた」


「そ、それは……」


「うん。たぶん私の生前の記憶。体が動かせないと思ったから、たぶん縛られていたんだと思う。だけどそれ以上は分からなかった。神様はその記憶を絶対に取り戻すなって言っていたから。だけどそれは、彼らにされたことが、私が死ぬ原因の一つにもなっているという裏返しじゃないかと思う」


「じゃあ……もしかして……君は、俺が救えなかった結羽なのか……」


 それにそっと頷くと、三毛猫は再び体を寄せてきた。今度は彼が嗚咽して体を震わせていく。


「ごめん……。ごめん。俺は、昔から本当に結羽の事が好きだったんだ。でも、それを伝えられなかったし、何にもできなかった。それから8年間、ずっと君を救えなかったことだけを後悔していたんだ」


「ううん。私が死んでからも、清太は8年間も、私のことを気にしてくれていた。それだけで私、本当にすごい嬉しいの」


 そう答えると、彼は私の顔を覆うように顔を寄せてきた。その首元の柔らかい体毛に私の体が埋もれていくような優しい感覚だ。ようやく彼の嗚咽が収まると、彼が口を開いた。


「大丈夫だよ」


「えっ?」


「まだ何も事件は起こっていない。それに、この世界では俺たちの記憶とは違って、人間の俺が結羽を支えてくれている。しかも俺たちは、事件が起こることも知っている。そして結羽の事件の犯人がおそらくあの男たちだってことも分かってるんだ。だから、何かできることをやってみようよ。そうすれば、きっと結羽を、そして皆を助けられる。俺と君と、そして人間の清太だって力になる。絶対にどうにかできるよ」


「清太……」


「きっと、俺たちが猫の姿になったのは、神様が結羽たちを救えって言っているんだよ。そうしたら、俺たちも人間に戻れるんだ。うん、きっとそうだ!」


 私の顔のすぐ上にあった彼は明るい声で言った。そうだ。この時間がずっと続いて欲しい。いつでも前向きで、明るくて、優しくて、何より私のことを大好きでいてくれる清太に抱きしめられている時間。


(7日間――)


 あの神様の言葉を思い出した。私にはその説明を受けた記憶はない。いや、神様のいた世界で過ごしたことさえ記憶にないのだ。しかし、もしそれが本当ならば、7日間などあっという間だ。私がこの世界にやって来たのは、先週の13日の土曜日。もし、その日から丸7日とするならば、残された時間は、明後日19日の金曜日までしかない。事件が起こるのはその19日。仮に、この世界の人間の結羽やその父、それに清太の父を救うことができたとしても、8年後の世界で生きていた清太はともかく、既に死んでしまった自分は、一体どうなってしまうのだろう。


(清太……)


 不安な心を隠すように、私は彼の体に一層身を寄せていく。ただ、その柔らかな体毛の感触と彼の温かさだけが頼りだった。

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