〈3日目/裏〉
結羽の家を出て、どこに行くかという話になり、白猫は組合の本所に行こうと三毛猫に言った。「働いているお父さんの姿を見たい」というのが表向きの理由だったが、やはり昨日のことが気になっていた。
(何なんだろう?)
それは彩菜と一緒にいたあの松上という男のことだった。父の書斎で見つけた連絡網には、父の部下として彼の名前が書いてあった。そして、そこに書かれた彼の住所は、彩菜の家の住所にも近いような気もした。彩菜とは、中学時代はお互いの家を行き来するほどの友人関係だったので、もしかするとその時に彼を見かけたのかもしれない。それにしても、不適な笑顔の彼に見下ろされているあの光景は、いま思い出しても身震いする。
それに、父が書斎で何かの資料を見ていた光景のことも気になっていた。ちょうど今年の正月が過ぎた頃から、父は土日の休日でも家を不在にすることが多くなっていた。さらに、「書斎には大事な仕事の書類があるから入るな」とも言っていた。父は以前より家族とも話さなくなり、顔色も悪くなった気もする。何か自分たちに隠しているような気がしてならない。それでさっき久々に書斎にも入ってみたが、特に気になるようなことは無かった。
(とりあえず、お父さんとあの男の様子を見てみよう)
組合の本所に行けば、父もあの男の様子も分かるだろう。それを見てどうにかなるものでもないだろうが、普段の様子を見ることもないので、とりあえずそこに行ってみようと思ったのだった。
三毛猫の後ろから飛ぶように駆けていく。自宅からは山を下っていくので、来る時よりももっと楽に駆け下りていく感じだ。
組合の本所の広い駐車場には、何台も車が停められているが、まだまだ空いている。三毛猫とともに、建物の入口に近い木の影に隠れて中の様子を窺った。
「お父さん、あそこにいるね」
三毛猫の視線をたどっていくと、奥の方の席に父が座っているのが見えた。手前の窓口には何人かの職員が顧客対応をしているが、そのずっと奥の方の席に座って机の上の書類を見ている。時折、職員が近寄って何か話をしたり、書類を置いていくほかは、ずっとそこに座っているようだ。
「金融部長だから、きっと窓口の方には来ないだろうね」
「何か、ずっと座っている感じね」
「金融機関って、融資とか保険とか、ノルマも結構あるんだろうし、大変だろうね」
「そう……なのかな。清太、何だかよく分かってるみたいね」
「友達が……いや、従兄が銀行に勤めていて、そういう話を聞いたことがあるから」
三毛猫は早口でそう答えた。それにしても、父はしばらく座ったままだったが、やがて立ち上がって奥の方に姿を消した。
「タバコかも。お父さん、結構タバコ好きだから」
そう言うと、三毛猫も頷いて建物に沿って裏の方に行ってみた。コンクリートの建物の裏手には、鉄製の重そうなドアがあったが、ちょうどそれがギイと音を立てて開いた。姿を見せたのは父だった。父は胸ポケットからタバコを取り出してくわえ、ライターで火をつける。
「フウ——」
建物と駐輪場の間に張られたビニールシートの下に作られた日陰に立って、父は白い煙を吐いた。すると、再びドアが開き、父より年上そうな恰幅の良い男が出てきた。
「暑い、暑い!」
男は言いながらポケットからタバコを出して火をつける。
「専務。今日は外回りに行かないんですか?」
「今日くらい休んでもいいだろう。昨日だってイベントで日曜日が潰れてるんだ。全く、理事長が代わってから大変になるばかりだよ。今思うと、君のポジションにいた頃が一番良かった」
「しかし……ここはここで大変で」
「何を言ってるんだい。組合でも君の所が一番の稼ぎ頭なんだぞ」
専務と呼ばれた男がそこまで言った時、再びドアが開いた。
(あれは……)
あの松上という男だった。彼は黒いカバンを持って専務に軽く頭を下げる。
「松上くん。今日も頑張ってきてくれよ」
専務がそう言うと、松上は専務の方に「はい」と言ってから、駐車場の方に歩いて行った。
「なかなか彼は頑張っているじゃないか。保険や投資信託の成績も良い」
「はあ……。しかし、彼は組合員への融資には消極的で、少し困ってます」
「融資なんてどうでもいいじゃないか。農家に融資して回収できなかったら丸損だよ。それより、金融商品を買ってもらった方がウチにはメリットが大きいんだ」
「しかし、理事長は融資こそ組合の一番大事な仕事だと」
「……フン。まあいい。しかし、君の評価は金融部の成績、つまりどれだけ利益を上げたかによるんだからな。そんな綺麗事だけでは評価できんぞ」
そう言い捨てると、専務はタバコの火を消してドアの中に姿を消した。
(何よ! 偉そうに)
そう思った白猫は、父の足元に駆け寄って彼を見上げた。
「お父さん! あんな奴、気にすることないわよ」
すると、父は不思議そうにこちらを見下ろしていたが、タバコを消してから、座り込んだ。
「昨日もいた猫だな。可愛いな」
父はそう言って私の頭を撫でる。その瞬間だった。机の上にあるたくさんの書類が脳裏に浮かぶ。その時、その書類の上の方に書かれた文字がはっきりと見えた。
『担当者 松上寛』
何枚も同じ名前が続いていく。そして、その光景は急に見えなくなった。
「待って!」
思わず叫んだが、父は既に立ち上がり、ドアを開けて中に入ったところだった。ガチャンと扉が重そうに閉まる音が聞こえた。
「どうしたの?」
後ろから三毛猫が声を掛けながら近づいてきた。慌てて首を振る。
「あっ……。な、何でもない。その……お父さんが嫌味を言われていたから悔しくて」
「そう……。ならいいけど」
それからしばらく、組合の本所の様子を窺っていたが、父は度々タバコの休憩に出てきたものの、自分の席との往復をするばかりだった。さすがに三毛猫も退屈に感じてきた様子で、少し雨が降ってきたのを見上げてからこちらを向いた。
「帰る?」
「そうね……。あっ、今日は清太くんの家に行かない?」
「ウチに?」
「清太くんの部屋にも入らせてもらおうかな、って」
フフッと笑ってそう言うと、建物の裏手にある畑の方に向かって先に駆け出した。「待って」と三毛猫の声がしたが、少し走った所にあるトウモロコシの葉の下で立ち止まって振り返った。三毛猫が追いついてくると、今度は先に立っていくので、その後ろを駆け始めた。
小雨の中、トウモロコシ畑を抜け、車が通らない場所を選んで進んでいく。走っているためなのか、毛が雨に濡れても、寒いとは感じなかった。
途中で雨が本降りになってきた。急いで走ったが、清太の家の納屋に着いた時には全身が濡れてしまっていた。体をブルブルと振って水分を払うが、体毛が濡れると急に寒さを感じてくる。三毛猫もそう思ったのか、こちらを向いて言う。
「ちょっと寒いね」
それに頷いて応える。すると、三毛猫は「そうだ」と声を出して、納屋の奥の方に向かった。その後を追ってみると、彼は薄汚れたタオルのようなものを口で引き出していた。それを私の体に掛けていく。
「ごめん。ちょっと汚れてるけど、少しはマシになるだろうから」
「ありがとう……。清太くん」
うん、と三毛猫も頷いてから、急にくしゃみをした。彼はもう一度、体をブルブルと振って体毛から水を吹き飛ばす。
「ねえ……。一緒に入ろうよ」
思わず言うと、三毛猫は「えっ」と声を出してこちらを向いたが、すぐに顔を横に向けて「大丈夫」と答えてそこに座った。そこで、白猫は腰を上げ、背中のタオルとともに彼の隣にぴったりと体を寄せて座り直す。
「はい。温かいでしょう」
体を寄せると、三毛猫の体がビクッと震えた気がした。雨で濡れた体よりも、三毛猫の体温をしっかりと感じる。それはきっと、彼も同じかもしれない。胸の鼓動が早くなる気がした。
「そういえばね」
「うん」
「前に、市山の花火大会に一緒に行った時のこと。中2の時だったかな? あの年はなぜかすごい人が多くて、屋台に並んだらかなり時間かかっちゃったんだよね。戻るのも大変なくらいだったから、少し様子を見ようって、ちょっと離れた田んぼの
「そう言えば……そうだったかも」
「高い所まで打ち上げられた花火はそこからでも綺麗に見えたんだけど、少ししたら急に雨が降ってきてね。どうしようって思ったら、清太がリュックサックから折りたたみ傘を出して差してくれた」
「ああ……。でも、結構小さい傘だったから、かなり濡れた気がするけど」
「うん。でも、今みたいに体を寄せ合ってたなあ、って」
隣で三毛猫がこちらを振り向くのが視界に入ったが、白猫は真っすぐに前を見ていた。自分と清太は、隣町同士であったが、親同士もよく知っている関係だったから、幼い頃からお互いに知っていて、言わば幼馴染だ。ただ、その「知っている関係」が一段上がったのは、その時だったのかもしれない。
それは、結羽の初恋だった。
清太の方がどうだったのかは分からない。ただ、彼のTシャツの先の腕を、結羽は浴衣の袖から伸びた手でそっと触れていて、ずっと胸がドキドキしていた。その温かな感触は、今でもしっかりと記憶に残っている。
「ねえ、清太くん」
「うん」
「今年も花火大会に行くの?」
思い切って尋ねてみた。ずっと気になっていたことだ。去年は結羽も含めてクラスの何人かで行ったのだが、結羽には今年は声は掛かっていない。しかしこの前、清太は教室で隠れるようにチケットを受け取っていたはずだ。すると、三毛猫はじっとこちらを見つめた。
「俺……行かないよ」
「えっ? でも、この前、三田くんからチケットを買ったんじゃ……」
「いや……そのことなんだけど」
三毛猫はそこで少し黙ってから口を開く。
「あのさ、花火大会に行きたい?」
「えっ――」
彼はそこで黙ったまま、ただこちらを見つめていた。それは、自分と行きたいということなのだろうか。そう思うと、その視線を眩しく感じてきたが、慌てて顔をそむけてから明るく答えた。
「残念だけど今年はダメなの」
「えっ?」
「私、今年は家族と花火大会に行く予定にしていたの。お父さんが良い席のチケットを買ったみたいでね」
それは嘘だった。いや、花火の好きな父のことだから、チケットは本当に買っているかもしれないが、家族で行くことにはなっていない。
「でも……俺は」
「ううん。美弥ちゃんと楽しんできて」
彼の方に背中を向けて、サラッとそう言ってしまった。猫の姿であるためなのか、ストレートにそう言うことができた。
清太に頼りたい。しかし、彼を頼ってはいけない。彼は美弥の近くにいるべきなのだ。そうしなければ、自分の方に彼を巻き込んでしまうことになる。その葛藤の末に、本心とは逆の言葉を放ってしまった。
三毛猫はそこで黙ってしまった。彼とのことはもう終わらせないといけない。彼が近くにいる限り、絶対に頼ってしまう。自分が彼から離れることが、自分にとっても、彼にとっても最良の選択なのだ。
(これでいいの——)
そう思っていた時だった。白猫の首元に何か温かなものが触れた。
「バカ……。俺は、結羽のことが好きなんだ」
すぐ耳元からその声が聞こえた。驚いて振り返った白猫の首元に、三毛猫はまだ濡れている体毛で顔を擦り付けてくる。冷たい体毛だが、その奥の温かな体温がはっきりと伝わってくる。
「何も分かっていなかったのは俺の方なんだ。結羽がずっと近くにいたのに、自分の本当の気持ちに気づいていなかった。だけど、今ははっきりと分かる。お前のこと、好きなんだって」
「な、何を言い出すのよ。違うわ。そんなこと……」
「違わない。本当なんだ……。本当は、こんな姿じゃなくて、ちゃんと伝えたかった。だけど、俺のこの気持ちは本当なんだ。だから結羽、頼む。俺と一緒にいてくれ」
三毛猫はそう言って、温かな顔を白猫の顔に擦り付けてきた。もう濡れている体毛は気にならない。白猫は三毛猫の温かな体に顔を埋めていく。
「清太——」
******
気づくと、納屋の中も薄暗くなっていた。少し眠ってしまったらしい。隣を見ると、まだ三毛猫は眠っている。白猫は彼を起こさないよう、そっと起き上がった。
納屋の外では雨も上がり、やや涼しい風が吹いてきている。息をすると、その風が体の隅々まで伝わっていくようで心地良い。
清太の家の庭は半分ほどがコンクリートで覆われている。大雨が降ると山からの雨が流れてきやすいのと、地面が水たまりだらけになるのでそうしているのだと、前に聞いたことがある。残った半分のうち、端の方の更に半分ほどが太い角材で囲まれた花壇になっていて、そこに草花が植えられているのだ。何気なくその花壇の端の方に歩いていく。
(綺麗——)
そこには黄色い女郎花が咲いていた。それは以前からこの場所に咲いている。猫の目から見ても、その鮮やかさは不思議なほど綺麗だ。細い茎の先についた黄色い鮮やかな花。それは大好きな花だ。去年の夏に、清太にここで撮ってもらった写真は、今でも机の上に飾っている。
その時、玄関の引き戸が開く音が聞こえた。
「あら?」
振り向くと、そこには清太の母が立っていた。
「ハク……」
彼女はそっとこちらに近づいて来た。そして、私の側に座り込んで背中を撫でた。
「違う……ハクじゃないわね。分かってる。でも、可愛い子だね。……そうだ。後で何かご飯を持ってきてあげる」
そう言って彼女はしばらく白猫の背中を撫でてから、立ち上がって家の中に戻っていった。
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