〈2日目/裏〉
白猫は、三毛猫とともに組合の裏手でしばらく休んでいた。さっきの男には蹴られた訳ではないと思うのだが、何か電気に触れたようなバチっとした感じがあり、気づくと父の腕に抱かれていた。しかし、歩くと少しふらつくようだったので、端の方の日陰で寝転んで休んでいた。三毛猫も心配してずっと隣にいてくれたのだが、ウトウトとしてから目覚めると、スッキリと回復していた。
それから、三毛猫とともにイベント会場である組合本店の周りを遠巻きにうろついていた。午後になって客数も落ち着いてきた頃、桃の販売イベントが終わったのか、人間の清太と結羽が二人で一緒に会場を歩いているのを見かけた。すでに彩菜の姿は消えていたので安心したが、傍から見ればまるでデートしているように見えるだろう。隣にいた三毛猫の方をチラッと見ると、彼も同じ方を向いていたようだった。おそらく同じことを考えていたのだろう。
それからしばらくして、イベント会場の片付けが始まり、気づくと人間の清太と結羽もいつの間にか姿を消していた。
「これから、どうしようか」
三毛猫が尋ねてきた。
「そうね……。一度、私の家に行ってみたいんだけど。ここからなら近いから」
「そうだね。行ってみよう」
三毛猫の後ろについて、再び畑の中の道を駆け始める。人間の時には、結羽は運動が苦手で部活もしていなかったため、普段、体育で校庭を走るだけでもすぐに息が上がってしまっていた。しかし、この猫の体は、全然息が上がるという感じがしない。体も軽く、「走る」というより「飛ぶ」という感じで、本当に心地良い。
再び県道を渡り、そこから山の方に上がっていく。母校の中学校の脇を通り、果樹園や畑の中を駆け上がると、見慣れた集落に着いた。
そこは20戸ほどが集まった小さな集落だ。高齢化が進み、高校生以下の子供がいる家は数軒しか残っていないが、高齢者たちはまだ元気に農業を続けている人も多い。父が地元の農家組合に勤めていることもあって、その意味でもお互いによく知っている人ばかりだ。
自宅の庭に入ってその姿を見上げた。猫の低い視線から見ると、二階建ての家屋自体も大きく見えるが、それは間違いなく結羽の自宅だ。一つだけ灯りがついている2階の部屋は、妹の真羽の部屋。部活も終わり、部屋で漫画本でも読んでいるに違いない。
ブロロロ——。
後ろから音が聞こえ、三毛猫とともに慌てて木の陰に隠れた。すぐに庭に軽自動車が入ってくる。停められたその車からは、母と人間の結羽が降りてきて、家の中に入っていく。
「私……なんだよね」
そう呟くと、隣で三毛猫も「そうだね」と言った。人間の結羽という存在。そして白猫になった結羽という自分の存在。同じ人間であったはずなのに、別の存在として同じ世界に実在するという事実は、やはり理解しがたい。しかしそれは、三毛猫とて同じだ。とりあえず、考えるのは止めた方がよい。
少しずつ盆地の西側の山に日が暮れていく。その間に、家の周りも歩いてみたが、やはり記憶にある自宅に間違いない。二階の端にある自分の部屋には明かりがついているが、カーテンが閉められているため中の様子は分からない。おそらく、本でも読んでいるのだろう。「屋根の方で休まない?」と三毛猫が言うので、二階の屋根に上がり、その端の方に座って様子を見ていたが、やがて車の近づく音が聞こえ、車のライトが庭を照らした。どうやら父が帰宅したようだ。
しばらくして、何かの香ばしい匂いがしてきた。もう夕飯なのだろう。白猫は何気なく呟いた。
「そういえば、お腹が空かないね」
「あっ、確かに。喉も渇かないし」
「これって、何かの呪い……みたいなものなのかな。バチが当たるような悪いことはしていないと思うんだけど」
白猫は冗談のつもりでそう言ってみたが、三毛猫は少し頷いただけで黙っていた。どこからかスズムシのような音が聞こえてくる。甲府盆地は内陸型の気候のため、昼間の気温は高いが、朝晩は少しだけ涼しくなる。山から下りてきた風がヒゲを揺らすのを感じた。
屋根の上からは甲府盆地が一望できるが、少しずつそこに灯りが目立ってきていた。猫の視界のせいで、まるで白夜のような薄明るい視界の中、夜景も不思議な輝きとして見えている。そこに輝いている光の中で、一体どのくらいの人々が暮らしているのだろう。それにしても、その闇の中で輝く夜景の姿は、この猫の目から見ても言葉にならないほど綺麗だ。
しばらく黙ってその夜景を見ていたが、玄関のドアが開いた音が聞こえた。
「もしもし。こんばんは、篤子さん」
母の声が聞こえた。相手は清太の母のようだ。清太の家の桃をもらったらしく、そのお礼を言っているようだ。
「それで、篤子さん。……ちょっと、相談なんだけど」
母が声を落として言った。
「最近、ちょっとあの子、元気がないのよ」
その声にハッとした。
「ええ……。そうでしょう? でも、何を聞いても『何でもない』って言うだけで。それでね。クラスは違うから難しいかもしれないんだけど、清太くんからも、学校の様子を聞かせてほしいのよ」
白猫はじっとその声の方に耳をすませていた。母はしばらくして電話を終えて、再びドアが開いた音が聞こえた。家の中に戻ったのだろう。
「あのさ——」
隣にいた三毛猫から声が聞こえたが、白猫は振り向かずにじっと前を見つめていた。
「1組の方って、正直、最近どんな感じなんだ?」
三毛猫の言葉に白猫は少しだけ頷いたが、まだ盆地の夜景の方に顔を向けていた。
「俺さ……2年生になってクラスが分かれてから、1組の中で結羽がどんな感じだったのか、正直言って分からない。だけど……何か結羽に対して冷たくないか」
「そんな事ないよ。……大丈夫」
「いや……本当に、何か気になることがあるなら、何でも俺に言ってくれよ」
三毛猫は心配そうに言う。白猫は顔に吹き付ける風を受けながら黙っていたが、そのままそこに横になった。
「うん。ありがとう……。ちょっと疲れちゃった。もう、寝るね」
やや投げやりにそう言って目を閉じた。耳元には静かにスズムシの声が響いてくる。三毛猫はそれ以上、何も言わなかった。
清太は優しい。しかし、その優しさが今回は逆効果であることも事実なのだ。なぜなら、その理由の一つは彼にあるのだから。
美弥が清太を好きだということは、1年生の頃から知られていた。去年、同じクラスだった三田の提案で、清太は結羽と美弥も含めた10人くらいで花火大会に行ったのだが、美弥はそれ以上は動かなかった。それは、清太の傍に自分がいたからだと思う。
それを裏付けるかのように、2年生になり清太が別のクラスに行ってしまうと、美弥の態度は明らかに変わった。美弥は結羽のことをはっきりと「敵」と見なして、冷たく当たるようになったのだ。そしてその雰囲気は、次第に周りの女子たち、そしてクラス内で女子より人数の少ない男子にも広がっていく。だから、1組の中では、清太が自分に優しくしてくれるだけ、更に
清太はこの前、三田から花火大会のチケットを買っていたようだった。去年と同じく、美弥たちと花火大会に行くのだろう。今年は自分には声が掛かっていないし、清太からもそのことについて何も話はない。いや、そもそも彼が誰と花火大会に行こうが、それは自由なのだ。自分には彼の行動を制限する権利はない。それに、美弥は清太と付き合い始めたという噂も聞いている。それが真実であれば、なおさら自分は清太から離れなければならない。
もうその事を考えるのはやめようと思った時、ふと1人の男のことが頭に浮かんだ。
(あの男……)
それは今日、彩奈と一緒にいた男のことだ。確か、首に下げられたホルダーには「松上」と書かれていた。白猫は彼と面識はないはずなのだが、彼の足元に触れた瞬間、稲妻のように脳裏に浮かんだ光景があった。
それは、自分を見下ろすあの男の姿。しかも自分の体は全く動かない。それを見てニヤッと笑ったのはあの男だった。
どうしてその光景が見えたのか分からない。しかし、すぐに見えなくなったその光景が、まるで現実のものであるかのように感じてしまい、今思い出しても身震いする。
さらに、不思議なことに、その後に父に抱き上げられた時にも同じような事が起こった。目の前にたくさんの書類がある。それは数字がたくさん入ったもので、何なのか分からない。ただ、その場所は間違いなく、この家の2階にある父の書斎だ。
(あの資料は……)
父の書斎には普段から入らないように言われている。それは仕事上の書類を保管しているからだという。しかし、少し前にモバイルパソコンを使いたくて書斎にあったそれを借りた時、偶然、父が開いていたファイルを見てしまったことがあった。同じように、数字が羅列したもので何のことかわからなかったが、私が書斎からパソコンを持っていったことに後で気づいた父は、「しばらくこのパソコンは使うな」と珍しく怒りを露わにした。
その時に見たような数字の羅列が、父に体を抱き上げられた時にも、まるで何かの画面を見ているかのように目の前に浮かんだのだったが、詳しいことは全く分からなかった。
(一体、何なの……?)
漠然とした不安を感じながらも、白猫は目を閉じたまま、眠りについた。
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