〈2日目/表〉
その日、まだ薄暗い時間帯から車が動く音が聞こえた。顔を上げて見ると、祖父母が使っていた軽トラックと、青いトラックが続けて庭から出て行くところだった。まだ朝早過ぎると思ってもう一度目を閉じると、今度は「ねえ、起きて」という声で目が覚めた。目を開けると、辺りはかなり明るくなっていて、白猫がこちらを見下ろしている。
「さっき、清太たちが車で出かけたわよ。私たちもイベント会場に行ってみようよ。人間の自分の姿を見てみたいの」
白猫はそう言った。確かに、まだ白猫は人間の結羽の姿を見ていない。それに、この場所にいたところで、ただ無闇に時間が過ぎるだけだ。少なくとも、もっと結羽か清太の傍にいて様子を窺った方が良い。
白猫とともに、屋根を降りて庭から道路に出た。端の方を歩きながら県道に出ると、まだ車通りは少ないが、時折通る車やバイクのスピードと大きさに改めて驚く。やはり猫の視点から見ると車の存在は相当に大きいし、危険に思える。
「道を渡って、畑の中から行こうか」
そう呼びかけると、車通りが止んだ時に一気に横断した。その先の細い道を走っていき、緑色の植物が植えられている広い畑に入り込んで、そこから県道に沿って畑の中を駆けていく。本当は県道を真っすぐに進めば、イベント会場となる組合の本店まですぐに着くのだろうが、やはり畑の中を通った方が安全だ。
「何だか走るのって気持ちがいいね。まるで風に乗って飛んでるみたい」
畑の中を少し走ったところで立ち止まると、後ろから来た白猫が楽しそうに言った。
「そうそう。ランニングよりずっと気持ちいいんだ。猫って走るとこんな感じなのかな」
そう答えると、白猫は笑って頷く。そのまましばらく走って行くと、組合本店の建物が見えてきた。その広い駐車場の一角を使って、何棟もの白いテントが張られていて、準備の人々が行き交っているのが見える。駐車場の端の方に立っている時計は、8時半頃を示していた。
本店建物の影の方から会場を覗いてみると、それぞれのテント内には商品が並べられ、販売の準備はほとんどできているようだ。様子を見ながら近寄っていくと、会場の端の方に人間の清太と母の姿が見えた。テントの中に置かれたテーブルの上には販売用の桃の箱が置かれている。
少し移動して、組合の建物に沿って植えてある木の影に隠れながら様子を窺っていた。時間が経つにつれて会場には人が溢れてきて、清太のテントにも行列ができていた。気づくと母の姿もなく、一人で大変そうな様子だ。すると、その清太の隣に誰かがやって来た。
「私だ……」
隣にいた白猫も同じ場所を見ていたらしく、そっと呟いた。茶色のエプロンを着た結羽は、清太の隣で接客をして次々に販売していく。二人とも、客が途切れると笑顔で何か話しているようだ。
「楽しそうね」
白猫が再び呟いてから、「あれ?」と声を上げた。
「どうしたの?」
「あそこ……。彩菜がいる」
彼女の視線を辿って行くと、そこに渡辺彩菜の姿が見えた。ジーンズに白っぽいTシャツを着た姿で立っていた彼女は、どこかを見ている様子だ。その視線の先を見てハッとする。そこはちょうど、清太と結羽が桃を売っているテントの方だ。
「誰だろう? あの男の人は」
白猫が再び言う声を聞いて再び彩菜の方に視線を戻すと、彼女の隣に背の高い男が立っていた。その男は組合の作業着を着ており、彩菜は時々彼の方を見て何か喋っているようだ。
「ちょっと俺、行ってみる」
彼女が何を話しているのか気になった。彩菜は結羽と同じ中学の出身で、2年生の時は1組にいたが、結羽に対してあまり良い感情を持っていなかった。彼女が清太と結羽の方を見て、コソコソと話をしているのなら、それはきっと何か良くない話に違いない。
「私も行く」
後ろから白猫もついてきた。彼女も気になったのだろう。良い話では無さそうなので、「俺だけで行く」と言ったが、彼女もどうしてもついて来るというので、それ以上断ることができなかった。テントの裏をすり抜けていくと、ちょうど彩菜が立っているすぐ後ろまで来ることができた。
「それにしても、彼らすごい楽しそうだね」
「美弥と清太くんは付き合ってるのよ。なのに、どうして清太くんは結羽なんかと楽しそうにしてるのよ」
「ふうん。じゃあ、写真でも撮っておいたら」
「なるほど……そうね」
彩菜は不敵な笑いを浮かべると、少し場所を移動してスマホを構えた。そして何枚か撮って再び戻って来る。
「フフッ。美弥も怒るだろうな。こんな写真見たら。ありがとう、ヒロちゃん」
そう言って男の方に笑いかける彩菜の姿を見て、急に怒りが込み上げてきた。思わず彼女の足元に走り、そのジーンズの太ももの辺りに飛び跳ねて爪を立てた。
「キャア! な、何なの!?」
彼女が声を上げたので周りでどよめきが起きる。彩菜が足を振ったので、手を放して地面に立って彼女を睨む。
「やめろ! お前には関係ないだろ」
三毛猫はそう叫んで睨むが、彼女はじっとこちらを見下ろしているだけだ。
「何なの、この猫。気持ちワルぅ」
彼女が言いながら睨み返す。やはりこちらの声は聞こえないらしい。すると、その隣にいた男が一歩前に近づいてきた。
「何だ。野良猫だろ。ほらほら、あっちに行けよ」
男はシッシッと追い払うように足を蹴り出してきた。今度はその足に向かって飛び跳ねて爪を立てる。
「イテッ! 何しやがる」
慌てたように足を振られ、体が地面に振り落とされる。立ち上がって、もう一度、男の方を見上げる。その時、男が首に掛けたホルダーの名前が見えた。
(松上――?)
確かにそう見えた気がした。その名前には聞き覚えがあった。智治と逃げたあの事件のもう一人の容疑者。改めてその男の顔を見上げると、目つきの悪い細い目でこちらを睨んでいる。すると、男の足がこちらを追い払うようにこちらに近づいてきた。
「やめて!」
突然、白猫が目の前に飛び出した。男の足が白猫の体に当たり、その体とともに体が浮き上がったと思うと、地面に背中から落ちたような気がした。
「キャアッ!」
白猫が叫んだ。反射的に白猫の体を守ったはずだった。隣に倒れた白猫に声を掛ける。
「結羽っ!」
しかし、白猫はうう、と呻きながら目を閉じている。その体に手を置いて揺らしてみるが、動きはない。騒ぎを聞いて、周りからも「何?」「どうした」という声が聞こえて来る。
「ちょっと、向こう行こうよ」
彩菜の声に振り返ると、その男はチッと舌を鳴らした。そして彩菜と男はその場を去っていく。
「うう……清太」
後ろから白猫の掠れたような声が聞こえた。少しだけ目を開けた白猫は、まだそこに横になっている。目が充血し、苦しそうだ。
「大丈夫か?」
そう声を掛けた時だった。
「どうしましたか?」
男の声が聞こえた。その方を見上げると、組合の作業着を着た人間がそこに立っていた。それは、結羽の父の望月智治だった。
「この野良猫がさっき暴れていたんだよ。でも1匹、蹴られたみたいになって」
周りにいた客の一人が彼に伝えた。すると、智治はこちらの方をじっと見つめる。
「ほう、野良猫か……。大丈夫かな?」
智治が呼びかける。そして彼は、白猫の傍に座り込んでその様子を見た。
「怪我は無さそうだが、ちょっと向こうに連れていきますね」
そう言って彼は、倒れている白猫の体をそっと抱き上げた。そして、三毛猫の方を見下ろす。
「お前もこの子の連れ合いかな。一緒にこっちに来なさい。……さあ、もう大丈夫ですから、皆さんどうぞお楽しみください」
智治が言うと、周りにいた客はそれぞれ離れていく。そして彼は、そのまま会場の端の方に歩いていく。その後をついていくと、組合の建物の裏手の方に回って、白猫を地面に降ろした。すると、白猫はそのに座って智治の方を見上げた。
「お父さん——」
白猫が言うと、智治はニコリとしてその手で白猫の頭を撫でた。
「大丈夫みたいだな。さあ、せっかくのイベントなんだから、お前たちもおとなしくしてくれよ」
智治はそれだけ言って、すぐに会場の方に戻っていく。その姿をじっと見つめていた白猫に声を掛けた。
「大丈夫? 怪我はない?」
「うん……大丈夫」
隣に座った白猫は、それだけ言って、じっと智治の姿を目で追っていた。
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