〈1日目〉②

 必死に走って逃げてから振り返ると、さっきの猫の姿は見えなくなっていた。ふと、腕の付け根の辺りを見ると、そこには少しだけ赤い血が流れだしていた。確かに痛みを感じる。思わずそこに座って、その傷口を舐めてみた。ビリっとする感覚が広がるが、しばらく舐め続けると痛みが消えていくような気がした。


(夢じゃないのか?)


 夢の中で痛みの感覚などあるのだろうか。それに血が流れるというのも余りにリアルに思えた。空を見上げると、ちょうど太陽が真上に近い場所にあるように見える。もしかすると、日差しが強くてもほとんどその暑さを感じないのは、暑さに強いとされている猫の体のせいなのかもしれない。


(まさか、この世界は……)


 ふと、さっき見た結羽と清太の姿を思い出す。人間の結羽と、剣道部のジャージを着た清太自身。彼らは間違いなく存在していた。


(いや、そんなことはない……。これは、ただの夢なんだ)


 そう思って、目を閉じて大きく深呼吸する。蝉の声がうるさく聞こえる中で、しばらく目を閉じていると、少しだけ気持ちが落ち着いた気がした。そうだ。これは夢に違いない。しかし、夢の中で夢を見ていると思うのも不思議だ。ただ、そんなことはどうでも良い。所詮、夢なのだから。


 そこで改めて辺りを見回した。周りには細い道沿いに何軒かの家が立ち並んでいる。その風景を確認すると、記憶を辿りながら少し走って、1軒の家の庭に入った。


 そこは、結羽の自宅だった。母親である晴代に墓地で会い、この家の仏壇に参らせてもらったのは、つい昨日のことだからよく覚えている。何気なくその家に近づいていく。彼女の家の庭には車も無く、静まり返っている。さっき結羽は墓地にいたが、家には誰もいないのだろう。蝉の声だけが響く中で、ゆっくりと家の周りを歩いてみると、大きな窓がある部屋があった。そこは、昨日、晴代と話をしていた居間のような気がした。中には、テーブルが置かれているのが見える。


(やっぱり、昨日の記憶がまだ残ってるのかな)


 冷静にそう思って改めて部屋の中を見回してみると、壁沿いに茶色のサイドボードのようなものがあり、中に瓶やグラスのようなものも入っているのに気づいた。それに、よく見るとそこにあるテーブルもこの前見た時より大きいような気もする。昨日とは違う部屋なのかと思ったその時、ふと、正面の壁に飾られたものが視界に入った。


(20XX年7月……?)


 それは、農業機械メーカーのロゴが入ったカレンダーだった。畑を走るトラクターのような写真の下には、「20XX年7月」の文字と1か月分のカレンダーが表示されている。頭の中でその年を計算する。


 それは8年前のカレンダー。その年は、結羽が亡くなった年。そしてその月だ。彼女が亡くなったのは、その年の7月20日なのだ。


 全身に鳥肌が立つ気がした。ついさっき結羽を見たばかりだ。彼女はまだ生きている。すると今は、少なくとも7月20日よりは前だということになる。


(夢じゃない!)


 急に落ち着きを失っていくのがはっきりと分かった。どうすればよいかしばらく悩んでから、ふと思い立ってさっき来た道を戻っていく。すると、坂の下の方から緑色のバイクが上がってきた。清太のバイクだと思ったが、そのバイクはそのまま山の方に向かって走り去って行く。その姿が見えなくなり、振り返ると、結羽がこちらに向かって歩いてきていた。


「結羽っ!」


 彼女に向かって走っていく。そして、その足元で立ち止まり、彼女を見上げた。


「あれ? さっきの三毛猫?」


 結羽も気づいて体を屈め、その手で頭を撫でてきた。


「結羽! お前、本当に結羽なのか?」


 そう言ってみたが、彼女は三毛猫の頭と体を撫でてから、その手を離して歩き始めた。やはり声は聞こえないのか。慌ててその姿を追う。


「何か困っていることがあるなら、俺に……いや、人間の俺でいいから、言ってくれ」


 歩いて彼女を追いながらそう話しかける。すると、彼女は立ち止まって再び座り込んだ。


「どうしたの?」


 彼女がそう言う声が聞こえたかと思うと、体がフワッと浮き上がるような気がした。そして次の瞬間、彼女の顔が目の前に現れる。


「君は大人しいね。毛並みもいいし、もしかして最近捨てられた猫なのかな。……私についてくるってことは、ご飯でも欲しいの?」


 抱き上げた彼女が言った。彼女の大きな瞳が眩しい。すると、今度は彼女はその三毛猫の清太の体をその胸に抱え直した。結羽のTシャツの向こうから、彼女の胸の膨らみと体温がはっきりと感じられて、ドキッとする。


「ゆ、結羽。お前……」


 恥ずかしさに声を出せないまま、彼女の顔を見上げる。しかし彼女はそのまま歩いていく。そして、しばらくして結羽の自宅の庭まで来ると、三毛猫の体を地面に下ろした。


「もう少し待ってね。昼ご飯作ってから、何かご飯をあげるから」


 それだけ言うと、彼女はもうこちらに顔を向けずに歩いていき、その家の中に入ってしまった。猫である自分の声は彼女には届かない。何を言っても伝わらないのだというその事実が重くのしかかる。そのまましばらく呆然とそこに座っていたが、ハッと気づいた。


(そうだ。俺だ)


 結羽に必要なのはその話を聞いてくれる存在だ。それはさっきまでそこにいたはずの人間の清太自身しかいないのだ。思い返してみると、結羽が亡くなる直前の頃、はっきり言って清太は彼女の方を向いていなかった。彼女としっかりと話ができなかったことを、清太は一番後悔していたのだ。今ならまだ間に合う。何とかして清太を動かして、1年生の時のようにもっと結羽の近くにいてもらう。それができれば、最悪の事態は防げるような気がした。


 そう思い至ると、すぐに道路に出て山の方に向かった。しばらく進んでいくと、広い道路に出る。そこにある看板に「広域農道」と書かれているのを確認する。車通りはほとんどないが、辺りには桃やブドウの畑が広がっている。


(この道を行けば家に……)


 その道は昨日も車で通ったばかりだ。猫の足でどのくらい時間がかかるのか分からないが、これが夢ではないならば、いずれ実家に着くだろう。そこに戻れば、さっきまでいた人間の清太に会える。そして、何とかして清太の気持ちを結羽に向かせる。それを頭の中で整理しながら、道路の端の方を全力で駆け出した。

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