7月18日

 次の日、結羽は普段通り登校した。昨日あんな事があった後だったので、休んでも良いのではないかとメッセージを送っていたが、「行かないと進まないから」と彼女は言い張っていた。休み時間中にスマホを見ると、彼女からのメッセージで「美弥ちゃんから謝られたよ。私は大丈夫」と書かれていた。美弥の投げたボールがぶつかったことは多くの生徒が知っており、おそらく美弥自身もそれなりに気にしていたと思うので、表向きはこれでこの件は終わったことになるのだろう。


 ただ、1組のメンバーがこれから彼女にどう接していくのかはまだ分からない。清太と結羽が付き合い始めたことはまだ知られていないだろうが、少なくとも、清太が美弥を選ばず、結羽に好意を持っていることだけは、美弥の口からすぐに知れ渡っていくだろう。そうなれば、清太はともかく、同じクラスにいる結羽に一層厳しい視線が注がれるかもしれない。それがやや心配だった。


(様子を見に行こうか)


 どうしても気になってしまい、昼休み中に弁当を急いで食べてから、1組の方に走って行った。自分が行って何が解決するのかは全く分からなかったが、とにかくじっとしていられなかった。


 3階の長い廊下には、昼休みとあって、楽しそうに話したり、行き交ったりしている生徒達が多い。ようやく1組が見えてきた。


 教室の引き戸は閉められていた。その窓から中を覗くと、女子達がいくつかのグループを作って弁当を食べながら楽しそうに話している。久々に1組の様子を見たが、やはり圧倒的に女子が多い。しかし、美弥と結羽の姿はそこにはなかった。


「どうした?」


 後ろから急に声を掛けられて、驚いて振り向く。そこには賢斗が立っていた。


「誰か探しているのか?」


「い、いや……」


 慌ててその窓から離れる。


「ごめん。昨日は悪かった」


 頭を下げると、賢斗は「ちょっと来いよ」と言うので、彼とともに1組の教室から少し離れた廊下の窓側に並んで立った。校舎の裏手の住宅街がそこから見下ろせるが、狭い路地の周りに住宅がびっしりと並んでいる。


「お前も早く言ってくれよ。まあ、俺もお前の気持ちをちゃんと聞いておけばよかったんだけどな。あっ、でも花火のチケットは買い戻さないからな」


「うん……。こっちこそ、ごめん」


「謝ることはねえよ。……それにしても、何か面白くねえんだよな」


 彼がため息をついて言った。


「美弥ちゃんだって謝ったけどさ。それで何か変わったと思うか?」


「それは……」


 答えに窮してそこで黙ると、賢斗はため息をついた。


「俺が言うのもなんだけど、俺は他の奴に比べれば望月さんにも普通に接してたぜ。だけどさ。女子が全体の6割以上いるクラスで、一度女子たちからハブられたのを変えるのは相当大変だからな。それに、悪いけどこれからお前も、1組の女子から相当睨まれるぞ。9組だって南波がいるからな。南波との関係もあるから、俺も表向きはお前の味方にはなれねえよ」


「分かってるよ」


 そう答えたが、彼にそう言われると急にそれが現実味を帯びてくる。


「たぶん、こういうのって、本人の問題もあるんじゃねえか。もっと自分から相手に近寄ろうとするような気持ちだよな。もちろん、望月さんも、美弥ちゃんもどっちもだ。でも、もしそれが無理だとしたら、女子達が望月さんを一気に認めざるを得ないような何かのきっかけがないと、結局何も変わらないぜ。逆に何かの悪いきっかけがあれば、彼女がもっとクラスの中で孤立していく可能性だってある」


 その時、チャイムが鳴った。「じゃ」と言って賢斗は教室に戻っていく。清太も慌てて廊下を走って9組の教室に向かった。



******



 部活を終えて家に帰ると、居間で安那が一人でご飯を食べていた。


「あれ? 父さん達は?」


「今日は母さんも一緒に無尽むじんだって」


 無尽というのは、この辺りでは普通の事だと思っていたが、高校に他県から来た転校生から、「無尽って何?」と聞かれて、改めて考えてみるとあまり知らないことに気づいた。それで父に尋ねてみると、「要するに気の合う人間で楽しく飲んで食べることだ」とあっさりと答えられた。同じ職場や昔からの友人同士で集まることもあるが、無尽だけの付き合いのグループもあるらしく、中には今日のように夫婦揃って行くこともたまにあった。


 一旦、部屋に戻ってシャワーを浴びてから居間に戻ると、安那はテレビを見ていた。テーブルの上には、素麺が大盛りに置いてあり、玉ねぎなどの野菜の天ぷらも脇に置いてある。


「今日って結羽が来る日だったよな?」


「うん。15分くらい前までいたよ。食べていったらって誘ったけど、帰るって」


 ふうん、と言いながら麺つゆを椀に入れて、素麺を浸していく。素麺を入れた皿に氷を入れてくれていたので、ひんやりとした感じが口いっぱいに広がっていく。


「あっ、そうだ! 忘れないうちに」


 安那がテーブルの端の方から、小さな茶色の横書きの封筒を差し出した。


「これ。結羽さんから。お兄ちゃんに渡してって」


 ドキッとして安那の顔を見つめる。しかし慌ててその視線を封筒に移した。封筒の表面には何も書かれていない。


「ああ……。ありがとう」


 それだけ言うとその封筒をテーブルの端の方にそっと置き直した。安那はそれについて特に尋ねることはなく、しばらくして「ごちそうさま」と言って席を立った。


 清太は中身が気になったが、安那が戻って来るかもしれないので後で確認することにして、急いでご飯を食べていく。階段を上がり、自分の部屋に戻ると、すぐにその封筒の中を覗いた。


 中には、折りたたまれた薄い黄色の便せんが入っていた。その文字に目を通していく。



 ——清太くんへ


 部活お疲れさま。今日は、大事なことを伝えたかったので、敢えて手紙にしました。

 

 昨日の事がまだ夢のようです。でも、これは夢じゃない。清太くんが私のことを好きでいてくれる。あなたが傍にいなくても、そのことをしっかりと感じます。


 2年生になってからのこの3か月間は、正直ほとんど記憶にありません。私の存在は、クラスの中でまるでいないものと同然のような感じでした。しかし、今となってはそのことに触れる必要はないと思います。


 ただ、私は一つだけ謝らないといけない。それは、あなたを私の側に引き込んでしまったことです。


 たぶん、1組のメンバーの一人一人は決して悪くはないのです。ただ、色々な小さな積み重ねが、少しずつ少しずつ、私という存在に刃を向けてきただけ。そして、それがまるでウイルスが伝染するようにクラス内に広がっていった。だから、特定の誰かだけが原因ということじゃなく、今となってはどうして私に冷たく当たるのか、誰も分からないんだと思うんです。


 今日、美弥ちゃんは私に謝ってくれました。それに私も大丈夫だと答えました。しかし、それは昨日の事がリセットされただけ。その証拠に、彼女はそれ以降、いえ、その他のクラスメイトの誰も、私には声を掛けてきませんでした。


 清太くんも、1組のメンバーから、いや9組もそうかもしれないけど、私と同じような扱いを受けるかもしれません。でも、私は負けません。私が倒れなければ、クラスのみんなも、きっといつか、自分の行動を恥じ、改める日が来ます。だからそれまで、私と一緒にいてくれますか。


 スマホの返信は要りません。ただ、清太くんの存在をいつも感じていたいです。


 大好きな清太くん。


    望月結羽——




 何度もその文面を読み返す。その文章を読んでいくほど、結羽の姿がはっきりと見えてくるような気がした。彼女は冷静に分析していた。確かに、美弥にボールをぶつけられたのは、彼女に向けられた直接的な刃の一つでしかない。それよりも、いくつもの大小様々な刃が、この3か月間、彼女に向けられていたのだろう。


 考えてみれば、1年生の時に、その刃がクラスに広がらなかったのは、結羽としばらく席が隣同士だった清太自身の存在なのかもしれない。彼女の近くにいて、彼女と普通に話し、そして絶対に彼女を傷つけるようなことはしないし、誰にもそうさせない。そういう存在が同じクラスに一人でもいたからこそ、少なくとも表面上は平穏な毎日が続いていたのだろう。


(そうだ。これからが、始まりなんだ) 


 彼女が1組の中で平穏な生活を取り戻す戦いの始まりなのだ。彼女の言う通り、クラスメイトはいつか自分達の誤りに気づく。その時まで清太は、彼女に向けられる刃を防ぐ壁になるのはもちろん、彼女と一緒に過ごす時間の中で、楽しい思い出をたくさん作っていけばいい。その一つ一つがきっと彼女の支えになる。


 そう思い至ると、心の底から安心できた気がした。大きく背伸びをしてから、その便せんを折りたたんで机の上に置き、ベッドに横たわる。すると、少し疲れていたのか、急激に瞼が重くなってきた。



 ******



 気が付くと部屋の中が真っ暗だった。明かりをつけたままウトウトしてしまっていたはずだが、いつの間にか、誰かが部屋の明かりを消してくれたらしい。


(今、何時だろう?)


 カーテンの向こうが真っ暗のようなので、まだ夜中の筈だが、急に目が覚めたような感じがしてベッドから起き上がった。ベッドの脇に置いてあるルームライトを付けると、ぼんやりとした明かりが部屋の中を照らし出す。スマホで時間を確認しようとしたが、机の上に置いたはずのそれが見当たらない。

 

 その時ふと、机の上にある茶色の便せんが目についた。折りたたんだ便せん。その脇にある茶色の封筒。そして、その隣には1枚の写真が置かれている。それを見て、ハッとした。それは、彼女が白い猫を抱えて笑顔を向けるその後ろに、女郎花の黄色い花が咲いている写真だった。


(この写真は……?)


 急に胸が高鳴っていくのを感じながら、もう一度その封筒をよく見た。すると、茶色の封筒の表に何かが書かれているようだった。目をこすり、その封筒を手にする。


『S.Sくんへ』


 まるで、息が止まってしまうような気がした。さっきの封筒には何も書かれていなかった。ただ、彼女の書いた便せんだけが中に……。


(どういうことだ——)


 急いでその折りたたんだ便せんを手にして、震える手でそれを広げていく。そして、そこに書かれている内容を読み始めた。



『清太くんへ



 私の大好きな清太くん。


 この手紙は、あなたに読んで欲しくなかった。だから宛先を正確に書きませんでした。


 だけど、大好きなあなたには、この想いを伝えておきたい。そういう矛盾した気持ちを抱えながら、この手紙を書きました。


 私、清太くんのことが本当に大好きです。そして、清太くんも私のことを大好きだと言ってくれた。あなたに抱きしめられて、本当に私は嬉しかった。


 でも、私にはもう、あなたのことを好きでいる資格はありません。私は心も体もボロボロになりました。


 清太くん。今でも私の事が好きでいられますか? いいえきっと、言葉ではそう言ってくれるでしょう。でも、私にはその優しさを受け入れられる自信が正直ありません。まして、1組のメンバーは尚更です。彼ら、彼女らは、私の事をどれだけ蔑むことでしょう。


 そう思うだけで、私はもう耐えられなくなりました。


 今となっては、1組のみんなの事も何とも思いません。それよりも、清太くんと過ごした短い時間、あなたの言葉、あなたの姿、あなたの温かい気持ちだけが、心の奥で優しく響いています。だからこそ、その美しい思い出だけを胸に、私は静かに消えるつもりです。


 清太くんを悲しませるとしたら、本当にごめんなさい。でも、私の事は、この手紙を読んだのを最後に、もう忘れてください。そして、封筒に入れている、大好きだったこの写真も燃やしてください。そうしたらきっと、私のところに届くでしょう。私はただ、空の向こうのどこかの世界で、あなたが誰かと楽しく生きていく姿だけを見守っていきたいから。


 ありがとう。そして、さようなら。


                                望月結羽』



 便せんを持つ手が震えていた。もう一度初めからその文面を読み直す。しかし、何度読んでも書かれている内容は同じだ。彼女の優しい文字で書かれているその内容は、信じがたい程に冷酷だ。それはまるで、完全に遺書のような文面だった。


「待てよ……?」


 ふと、どこかで同じような手紙を読んだことがあるような気がした。確か、誰かからそれを渡されたように思うが、それは誰だっただろう。確かにこの手紙のような絶望感で一杯の手紙だったのだが、どういう訳か全くそのことが思い出せない。いや、その手紙だけではない。結羽のことで、何かもっと大事な記憶があったような気がする。そもそも、彼女はどうしてこんな手紙を……。


 そう思いながら、もう一度、持っていた手紙に視線を落とす。そこで清太は目を見張った。


「これは——」


 さっきまでその便箋に書かれていた文字が綺麗に消えていた。裏返しても何も書かれていない。そして、一緒にあったはずの写真も消えていた。どれだけ周りを見回しても見つからない。


「違う……。これは夢だ!」


 清太は胸の奥に沈んでいた冷たい記憶を全て吐き捨てるように、大声で叫んだ。

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