7月17日 ②

 必死に走って、気づくと武道場にいた。そこにはまだ1年生しか来ていなかった。スマホの画面を見ても、結羽からメッセージの返信はない。そこで1年生の一人に、「今日は急用で部活を休む」と藤山に伝えるように言って、駐輪場に走りバイクのエンジンを掛けた。


(一体、どうしたんだよ。こんなことで、まさか……)


 小雨の中、合羽を着てすぐにバイクで走り出す。大通りに出て、アクセルのスロットルを最大まで回してスピードを上げた。


 まさかこんな事で結羽が死ぬはずはない。1組の中で彼女がどんな状態だったのかよく分からないが、少なくとも彼女が仲間外れにされていたこと、それが彼女に精神的な圧力を掛けていたのは確かだ。もし、そういう冷たい記憶の一つ一つが積み重なっていたとしたら、今回の事でそれが最後の引き金にならないだろうか。あの夢の中では、彼女の父が関係する事件が最後の引き金だと思われたが、それはあくまで夢の世界の話だ。そもそも、そんな事件があろうが無かろうが、彼女が万一自殺を考えるならば、彼女自身に関する事実の方が大きく影響するだろう。


 自信は無かった。しかし、彼女が行くとすればあの場所だという不思議な確信があった。大通りを過ぎ、県道から広域農道に入っていく。そして、まだ記憶に新しいその場所を目指す。トンネルを抜けた辺りで、雨が急に強くなり、合羽を着た袖の先からシャツの中にまで水滴が入り込んで来る気がした。それでも気にせずにバイクを走らせ、ようやく目的の場所に着いた。


 濡れた地面にヘルメットを乱暴に脱ぎ捨てて、思わず叫ぶ。


「結羽!」


 駐車場には黒いスクーターが停められている。辺りを見回すと、雨が降り続く共同墓地の中に、合羽を着て立っている誰かの姿が見えた。そこに向かって夢中で走っていく。すると、その人間は、こちらに背中を向けて逃げ始めた。しかし清太はその後ろから走って追いつき、すぐにその手を掴む。


「放して!」


 結羽はそう叫んで、清太の手を振り払おうとした。その意外な力の強さに、思わず手を放したが、彼女は立ち止まって振り返り、清太の方を睨むように見つめる。合羽の中で、その目がまだ赤く充血しているのが見えた。


「大丈夫か」


 清太が静かに話しかける。すると、彼女は横を向いた。


「どうしてここに……?」


「分からない……分からないけど、結羽が帰ったって秋山さんから聞いて」


「何なの? 私のこと、笑いに来たの」


 自分を嘲笑うかのように彼女が言う。


「違う。結羽のことが心配で、俺は……」


「ほっといてよ!」


 結羽が叫んだ。普段、冷静な彼女が感情をむき出しにしたことにドキッとする。そして、結羽は清太の方を睨むように見つめた。


「私はただ、運動神経が悪いからボールに当たっただけ。もう、全然痛くないし」


「そんなこと……」


「一体何なの。こんなところまで来て、どういうつもりなの? 本当に……余計なお世話」


 彼女は冷たく言い放って、清太に背中を向けた。合羽に当たる雨の音がパチパチと響く。半透明の合羽を着た結羽の背中をしばらく見つめていると、結羽は口を開いた。


「私は一人でいるのが好きなの。一人で本を読んで、一人で勉強して。毎日誰とも話さなくてもいい。だから私、1組の中でも毎日全然寂しくない。私はそういう人間なの」


「違う。だって、去年まで俺と隣の席で、よく話していたじゃないか。どうしてそんな事を……」


「やめて!」


 結羽が叫ぶ。そして、ゆっくりと首を振った。


「もうやめて。一人にさせて。……お願い」


 彼女が背中を向けたまま、呟くように言う。


「結羽――」


 清太は結羽の背中を見つめながら、その足を一歩踏み出した。


「……ごめん」


 そう言いながら彼女の両肩に後ろからそっと触れた。


「清太くん——」


「ほっとけないんだ。だって俺……結羽のことが、好きだから」


 彼女がビクッと体を震わせる。清太はそして、結羽の後ろからその細い体をそっと抱きしめた。体は冷え切っているが、内側の奥深くから温かなものがこみあげてくる。


「俺は馬鹿だった。結羽とクラスが分かれてから、初めてその存在の大きさに気づいたんだ。普段から何気ない話をするだけで楽しかった。いや、結羽が近くにいてくれるだけで良かった。それなのに、毎日一緒のクラスにいる時には、それが分からなかった。全然別の方を向いてしまっていたんだ」


 話していると、少しずつ落ち着きを取り戻していくような気がした。すると結羽が呟く。


「嘘……違う。違うわ」


「嘘じゃない。美弥とは付き合っていないし、昨日、彼女にはっきりと断った」


「そんな……だって……どうして、私なんかを……」


 その声に首を振る。


「俺はただ、ずっと君の側にいたいだけなんだ。だから、花火も結羽と一緒に行きたい。だから……一人がいいとか言わないでくれ。頼む」


 そう言って後ろから彼女の体を抱きしめていると、結羽が突然こちらを振り向いた。そして、清太の胸に顔を埋めて嗚咽し始めた。清太は合羽越しにその頭を黙ってそっと撫でていく。


「バカ……。でも……嬉しい」


「結羽——」


 そう呟きながら、彼女の体をしっかりと胸に抱き寄せる。もう雨に濡れた体のことは気にならない。ただ、目の前にいる彼女の存在だけをはっきりと感じていた。



*****



 家に帰ってバイクを納屋に置いてから、玄関に向かおうとした時だった。


 ニャア——。


 軒下のコンクリート敷の上に、白猫が座ってこちらを見上げていた。雨の中を走っていたのか、まだ体が濡れているようだ。


(おまえ——)


 こちらをじっと見上げているその猫は、もう一度「ニャア」と鳴いた。その猫の前に座って、こちらもその顔を見つめる。


「もう、怖がることは無いんだ」


 結羽が死んでしまうという夢。その夢の中に出てきた白猫と同じようなその姿に、どこか不吉な感じがして近寄ることができなかった。しかし、その夢で結羽が死んでしまったのは、清太が彼女を支えられなかったからなのだ。自分はさっき、結羽に想いを伝えた。そして彼女もそれを受け入れた。だから、清太は間違いなく彼女の支えになっている。どんなことがあっても、あの夢のように、彼女が死ぬようなことは絶対に無い。その夢を恐れることはないのだ。


 大きく深呼吸してから、そっとその白猫の背中に手を伸ばす。その白い毛並みはまだ濡れているが、柔らかい感じがした。白猫は一瞬、ビクッと体を震わせたが、そのまま大きな瞳で清太をじっと見つめていた。


「可愛いな、お前」


 しばらくその猫を撫でていると、青いトラックが庭に入ってきた。父と母が帰宅したようだ。制服はまだ濡れたままだが、片づけを手伝おうと思って、そこで立ち上がった。

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