7月15日 ②

 その日は久々に平野先生が武道場に姿を現した。やはり先生が来ると皆の緊張感が高まるのがはっきりと分かる。しかし、その日、先生は防具を付けず、ジャージ姿のまま、ただ黙って椅子に座り、稽古の様子を見つめていた。


 稽古が終わると、平野先生の前に皆が整列して正座した。締めくくりには、先生から大体一言コメントがある。その日の良かった点や悪かった点のほか、それ以外に気になっている事などを話してくれるのだ。


 その日の話は、先週末の先生自身の話だった。先生は、東京の方の警察官のグループとの合同稽古に参加していたらしい。その時に、剣道七段の人と稽古をしたという。


「その人は、動きは決して早くはないし、俺よりもやせ型で体が大きい訳でもない。しかし、掛かってくる時は、もの凄く真っすぐに面を打つ。そして、打たれるとズシンと重いんだ。後で話してみると、その人は警察署長だった。しかし、偉ぶるようなこともなく、俺のような若造でも普通に接してくれた。他の人にも聞いてみると、厳しい現場を数多くこなして出世された、警察内でも人格者として有名な方らしい」


 そこで一度話を止めて、座っている部員達を見回す。


「お前達は、それなりに実力を持っているとは思う。頭も悪くない。若いなりに体力もある。しかし、それだけでは絶対に不十分だ。残念ながら、今日の稽古を見て、お前達にそれが足りないことがよく分かった。何だか分かるか」


 先生は再び言葉を切ってしばらく黙った。じっと皆が先生の顔を見つめる。


「それは、心技体だ。これがしっかりと一体となることが剣士としての本当の強さだ。このうち一番大事なのは心。『気持ち』と言ってもいい。どんなに技を磨いても、どんなに体を鍛えても、心が伴わなければ、一時的には力を発揮しても、真に強い剣士にはなれない。しかし、心が強いと実力以上の強さを発揮できることがある。ただ、心を鍛えることは容易ではない。多くの人間は心が弱い。嫌なこと、辛いことから逃げようとする。それに、年上とか、強いと思った相手には怯んでしまうし、逆に年下とか、強くなさそうな相手を見くびることもある。俺だって必ずしも他人事じゃない。だが、お前達との違いは、俺は俺なりに、自分のその弱さを認めて、それに負けないように行動し、改めるべきことはすぐに改めようとすることだ。日々の稽古は大事だが、お前達もたまにはこういう事を考えてみたらどうだろうか」


 先生が「以上だ」と締めくくると、部長の号令で皆が「ありがとうございました」と礼をした。



******



 部活が終わって家に着いた時には、辺りは暗くなってきていた。バイクを納屋に停める時、ふとその奥の方の暗がりに何か白いものが見えた。


(何だろう?)


 そっと近づくと、そこには薄汚れたタオルのようなものがあったのだが、よく見るとその下には丸くなっている白い猫がいた。思わずドキッとする。背中が小さく上下しているので、死んでいるのではなく眠っているだけのようだ。


(この前の白猫か——)


 少しホッとして周りをよく見ると、その隣には三毛猫が同じように丸くなって眠っている。清太はそのまましばらくその猫たちを見下ろしていたが、2匹ともよく眠っているようで全く起きる気配がない。白い猫は、ウチで飼っていた「ハク」よりももっと若そうな感じであり、それに半年くらい経った今、急に姿を現したにしては余りにも綺麗過ぎる。やはり、どこかの飼い猫か、それとも最近捨てられた猫なのかもしれない。


 その時、玄関の引き戸がガラガラと開いた。振り返ると、母が出てきたところだった。


「あれ? 帰って来たのかい」


「ああ……。あのさ。ここに、ハクみたいな白い猫が寝てるんだけど」


「ああ、その猫ね。ハクじゃないよ。でも、すごい毛並みが良さそうだから、最近捨てられた猫かもね。私が帰って来た時、花壇の方に座っていたわよ」


「花壇?」


 母がこちらに近づいて来て、花壇の方に顔を向けた。


「ほら、ちょうど、女郎花の咲いている辺り」


 その方を向いてドキッとした。暗闇の中でも鮮やかな黄色い花を付けているその花。そこに白い猫が座っている姿を想像する。すると、もう一つの記憶が蘇る。


女郎花おみなえしの花って、綺麗だよね。私、大好き』


 去年、組合の夏のイベントが終わってウチに帰ってきた時だった。一緒にいた結羽がそう言い、写真を撮ってほしいというので、清太がスマホで撮影したのだった。思わず、スマホの写真データから去年の7月頃の写真を探すと、すぐにその写真が見つかった。その女郎花の黄色い花の前で、ハクを抱いてこちらに笑顔を向けている結羽の姿。


『私、その写真を部屋に飾ってる』


 今日、結羽が言った言葉が頭を過っていく。


(まさか……)


 背筋がゾクッとした。あの写真を撮ったことは覚えているが、それを結羽が部屋に飾っていたことは彼女から今日初めて聞いた話だ。しかし、清太は数日前に見たあの夢の中で、すでにその事を知っていたし、今スマホの画面に表示されている画像と同じものを印刷した写真を見たことも、はっきりと脳裏に浮かぶ。いや、そもそも未来の世界に関するあの恐ろしい夢のことを、数日経った今でも忘れられないということ自体が、何かを暗示しているような気がしてならない。その時、「清太」と母の声が聞こえた。


「どうしたんだい? 早く中に入りなよ。蚊に刺されるよ」


 母の声に「ああ」と答えると、清太は慌ててその後ろから家の中に入った。



 ******



 ダイニングテーブルでは、ちょうど安那が夕飯を食べていた。少し前まで結羽が来ていたらしい。母が清太のご飯を用意しながら彼女に尋ねる。


「どうだった? 結羽ちゃん先生は?」


「うん。何て言うか、私のレベルで分かりやすく教えてもらった感じ。先生なんかよりずっとよく分かった。さすが、結羽さんだわ」


「良かったわねえ。これはバイト代をしっかり払わないといけないかもね」


 母も笑ってそう言うと、「後片付けお願いね」と言って部屋を出て行った。自分で茶碗にご飯を盛り、味噌汁も持って安那と向かいのテーブルにつく。「いただきます」と言って、鶏肉の照り焼きを一口食べた。


「ねえ。お兄ちゃん」


 何、とご飯を口に入れながら答える。


「結羽さん、最近、何かあった?」


 ハッとして安那の顔を見つめる。口の中のものを呑み込んでから尋ねた。


「どうって……どういうことだよ」


「だって、久々に会ったらすごい痩せちゃってたから。顔色も良くない気がするし、お兄ちゃん、何か聞いてないの?」


「いや、別に……」


 それだけ言って再び鶏肉を口に入れたが、安那の言葉が頭の中に響くような感じがして、味がよく分からなくなった。すると、安那も少し黙ってから口を開いた。


「そう言えば、今日、体育で一緒にバドミントンしたんでしょう?」


 その言葉を聞いてドキッとする。


「えっ、ああ……そう」


「何か楽しそうに話してくれたよ。お兄ちゃんがバドミントンが上手だとは思えないけど」


 安那が言うのに軽く頷きながら、味噌汁を口にする。その時、ポケットのスマホが音を立てた。見ると、結羽からのメッセージだった。手元でそっと内容に目を通していく。


『さっきまで家にお邪魔してました。安那ちゃんは理解も早いし、たぶんすぐに点数も上がるよ。来年はきっと香南高校に入学できると思うわ。次は明後日に行くね』


(来年、か)


 やはり安那は香南高校を目指していたのだ。確かにこの辺りに高校は無く、どうせ少し時間をかけて通学するなら、それなりに進学校として実績があるその高校を目指すのが普通かもしれない。来年になれば清太も結羽も3年生になる。2年生で既に理系と文系に分かれたので、3年生で彼女と一緒のクラスになることはないだろうが、もし安那が1年生として入学するならば、その時に自分と結羽は、どうなっているのだろう。


 そう考えながらスマホの画面を見ていると、安那は「ごちそうさま」と言ってダイニングを出て行った。

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