7月15日 ①

 翌日、清太はいつもより少し早めに登校した。普段、教室に着く時刻は、1時限目が始まる10分ほど前の8時30分頃だが、その時にはいつも秋山は来ている。彼女は読書が好きなので、早めに登校して自分の席で本を読んでいるのだ。その日、教室にはまだ秋山と数人の生徒しか来ていなかった。清太が彼女に近づき、「秋山さん」と声をかけると、黒い縁の眼鏡を掛けた彼女が顔を上げた。


「ちょっと聞きたいんだけど」


「何?」


「結羽のこと」


「結羽?」


 眼鏡の奥の彼女の細い目がこちらを見つめる。しかし、そこで何と尋ねればよいのか分からなくなってしまった。黙っていると、彼女が口を開いた。


「斎木くんは、どうしたいの?」


「どうしたい……って?」


「結羽の味方になるのか、それとも敵になるのか。あるいは、どちらでもなく、ただ静観するのか。一体、何がしたいの?」


 真っすぐに清太を見つめる彼女の視線に、思わず視線をそらす。


「俺は——」


 少し下を向いてから、彼女の顔を見て答えた。


「俺はただ、結羽と普通に話をしたい」


 じっと見つめてくる秋山の視線に、清太も真っすぐに見つめ返していると、彼女はため息をついて本をパタンと閉じた。


「じゃあ、体育の時に話してあげて」


 彼女がそれだけ言った時、隣の席の生徒がやってきた。清太は慌ててその場から自分の席に戻った時、教室に彩菜が入ってきた。一瞬、清太と視線が合ったが、彼女は軽く頭を下げただけですぐに顔を背けて、自分の席に座った。清太は授業の準備をしながら秋山の方を再び見たが、彼女は窓の外の方に顔を向けていた。



 ******



 その日の5時限目が体育だった。午後から雨が降ってきたので、生徒達は体育館に集合していた。


 体育教師の武井先生は、バドミントンをするので4人ほどのグループを作るように言った。ザワザワする中で生徒達はグループを作っていく。


「中田。一緒にやろうか」


 端の方に立っていた眼鏡を掛けた男子に声を掛ける。彼は去年のクラスメイトで今は1組だ。かなりの戦国時代マニアで、ゲームや漫画にも詳しいが、運動は苦手だ。


「僕? バドミントンなんてほとんどできないよ」


「いいよ別に。俺だって苦手だからちょうどいいし」


 それだけ答えて、辺りを見回した。すると、女子たちの端の方に秋山と望月が二人で立っているのを見つけた。そちらの方に向かおうとすると、後ろから「清太」と声を掛けられた。


「一緒にやろうぜ」


 振り向くと、そこには友人の三田賢斗が立っていた。


「なあ、せっかくだからアイツらとやろうぜ。昨日行った店の話もしたいから」


 彼は近寄ってきて小声でそう言う。ドキッとして彼の視線を追うと、そこに美弥と、その隣に太田南波おおたななみの姿があった。南波は9組の女子だが、去年同じクラスだった頃から美弥と仲が良い。賢斗はその南波が去年からお気に入りで、2年生になってから付き合っている。


「ああ……いや、ちょっと、今日は中田を……」


 そう言って秋山のいる方に顔を向ける。隣で中田が「えっ」と声を出した。すると、賢斗はその方を見てニヤッとする。


「ふうん……そうか。じゃあ仕方ねえな。中田、頑張れよ」


 賢人は去年同じクラスだった時から、ややマニアックな中田のことをからかうことが多く、中田の方もそれを真に受けて、ほとんど二人は話すことがない。清太は、何か言いたそうな中田の腕を引いて、すぐに賢斗の前から離れていく。


「清太。一体どういう……」


「ごめん。ちょっと訳があって。悪いけど付き合ってくれ。頼む」


 歩きながら、中田の方をチラッと向いて小声で言う。そして、女子たちの端にいた結羽と秋山に声を掛けた。


「一緒にやろうよ」


 呼びかけると、結羽は少し驚いたようにこちらを見たが、そっと頷く。秋山も中田の方をチラッと見てからそっと頷いたが、隣で中田はただ俯いていた。


 清太は、中田とともにネットを張り、その間に結羽と秋山がラケットとシャトルを持ってきた。準備ができると、清太と結羽が先にコートに立った。清太はどちらかというと道具を使った運動は得意ではない。しかし、そんな清太から見ても、結羽の動きはかなり悪い。シャトルがラケットに当たる気配もなく空振りを繰り返したが、出来る限り彼女の近くにシャトルを狙って打つと、ようやく少しだけラケットに当たるようになってきた。


 彼女の息が上がってきた様子を見て、中田と秋山に交替する。コートの外に座って、彼らの様子を眺めていると、二人ともコートに立ってはいるが、シャトルの空振りを続けている。ラリーどころか、まず相手のコートに届く事すら簡単では無さそうだ。お互いに「ごめん」と繰り返しながらも、二人には笑顔が見えてきていた。


「何か、楽しそうね。清太くんが誘ってくれたの?」


 結羽が小声で尋ねてきたのでそっと頷く。中田が秋山の事を気になっているのは、去年のクラスの時から知れ渡っていた。しかし、中田も秋山も自分から動くような性格でもないので、なかなかそれ以上状況は進まなかった。そして2年生になってクラスが別れてからは、彼らは話すことさえ無くなってしまっていた。


「傍に中田がいて、秋山さんと結羽の姿も見えたから、どうせなら一緒にやればいいかなって」


 そう言って結羽の方に顔を向ける。彼女の額にも汗が見えていた。


「でも、私も運動苦手だから、清太くんは楽しくないよね」


「いや。全然そんなことないよ。俺もバドミントンなんて苦手だし、どうせ部活もあるからそんなに動きたくないんだ」


「そう……。ならいいけど」


 そこで少し黙ってしまった。すると、どこかから生徒たちの楽しそうな歓声が聞こえてくる。その声の方を見ると、「賢斗くん、それ卑怯よ」と非難する美弥の声と、賢斗がそれに笑いながら何か喋っている様子が見えた。


「ねえ——」


 結羽の声が聞こえて、ハッとして彼女の方に顔を向ける。


「この前の事なんだけど……」


 彼女はそれだけ言って俯いてしまった。その様子に胸が高鳴ってくる。「この前」という不明確な言葉だったが、彼女が尋ねようとする内容がはっきりと分かる気がした。しかし、彼女はそれ以上黙っているので、思わずこちらから声を掛ける。


「あ、あのさ——」


 一瞬、「最近、1組のクラスで何かあった?」と尋ねようと思ってその言葉を飲み込んだ。それを尋ねて一体どうなるというのか。彼女はきっと、「何もないよ」と答えるだけだ。何か別の話題を振ろうとして、ふと思い出した事があった。


「ええと……そうそう。昨日のイベントの事なんだけど」


「えっ?」


「実は、母さんから、バイト代貰ったんだ。6千円だけなんだけどね。まあ、結構売れたはずだし、せっかくの日曜日が潰れたにしては安いけど、貰えないよりはマシ」


「ああ……そうなの」


「それでさ。結羽にもかなり手伝ってもらったから、半分は渡そうかなって」


 そう言うと、彼女は驚いたように首を振った。

 

「いいよ。そんなの。清太くんが貰ったものなんだから。私はちょっと手伝っただけ」


「いや。でも本当に助かったんだ。あんなところで一人だけで店番するなんて、たぶん俺には無理だったし、結羽が手伝ってくれたから本当に助かったんだ。あっ、それに母さんからもいくらか渡すように言われていて」


「でも……」


 彼女は困ったように俯いた。


「じゃあさ。せめて、3千円くらいで何か欲しいものとかない?」


 そう言うと、彼女はコートの方に顔を向けたまま、しばらく黙っていたが、やがて、静かに口を開いた。


「去年の夏の組合のイベントの時なんだけど」


「うん」


「イベントが終わって、お母さんの車で清太くんを家まで送って行った時、清太くんの家で飼っていた白い猫がいたでしょう?」


「ああ。ハクのこと」


「そうそう。ハクって名前だった。その子を抱いて、清太くんに写真を撮ってもらったんだけど、覚えてる?」


「写真――」


「うん。その写真の後ろには花壇があって、細い茎に黄色い可愛い花が咲いていて綺麗なの。だから、私、あれからずっと部屋に飾っているんだけど」


 汗が噴き出るほど暑いはずなのに、体の芯から鳥肌が立ってくるような気がした。彼女の話を聞きながら、その印刷された写真を見た記憶が次第に蘇ってくる。花と白猫と彼女の写真。そして、彼女にとって大切なその写真を、燃やしてほしいと伝えてきた手紙。


 カラカラになった口で、恐る恐る「それで……」と先を促すと、彼女は静かに答えた。


「私、あの女郎花おみなえしの花が欲しい、かな」


 真面目な表情で真っすぐにこちらを向く結羽の前で、清太は言葉を失ってしまった。ちょうどその時だった。


「清太。そろそろ交替してくれない?」


 中田が額に汗をびっしょりとかいて、疲れた表情で声を掛けてきた。

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