(4)

 斎木清太くんへ


 

 突然のお手紙ですみません。


 封筒には宛先を正確に書いておかなかったので、誰か違う人が読んでいるのかと思うと恥ずかしくなります。でも、お母さんならきっと清太くんに渡してくれたと思います。


 でも、正直なところ、あなたにこの手紙を読んでもらうことが、あなたにとって望ましいことなのか分かりません。あなたが辛い思いをするくらいなら、読んで欲しくない。だから、宛先を曖昧にしておきました。それでもあなたが私の事を知りたいと思うのならば、この先を読んでください。


 目を閉じると、今もあなたとの思い出が鮮やかに蘇ってきます。中学まで隣町に住みながら、たまに会った時のあなたとの記憶。そして、高校に入ってからの同じクラスでの記憶。私の光り輝く記憶は、全てあなたとの思い出です。そしてそれは、この前の3月までの思い出。


 あなたが今の私のクラスの状況をどのくらい知っていたのか、それは分かりません。ただ、私に心から優しく接してくれていたのは、男子では清太くんだけ。それは間違いありません。あなたと話す時、あなたの側にいる時、あなたの姿を見ることができただけでも、私の心はいつも癒されました。


 嬉しかった。本当に、あなたと一緒にいる時間がずっと続いて欲しかった。


 だけど、もう私にはその権利は無い。そう……絶対に、ありません。


 私は疲れ果てました。だからせめて、清太くんとの輝く思い出だけを胸に、ひっそりと姿を消したい。でもその前に、私の想いだけはあなたに伝えたいと思って、手紙にしました。


 本当に自分勝手でごめんなさい。でも、あなたがこの手紙を読んでくれただけで、私はもう十分です。


 だから、私が言うまでも無いことですが、清太くんは自分自身の人生を生きてください。もちろん、きっとそうだと願っています。


 でも、もしこの手紙を読んでいる清太くんが、心のどこかでまだ私の事を気にしているのなら、この手紙を読んだのを最後に、私のことは忘れてください。そして、同封しておいた大好きなこの写真も燃やしてください。そうしたらきっと、私のところに届くでしょう。私は空の上から、あなたが元気に生きていく姿だけを見ていたい。愛する人と家族を作り、幸せに生きるあなたの姿を。


 本当に、ありがとう。


 さようなら。清太くん。


                                  望月結羽



 ******



 薄暗くなった自分の部屋の机の上で、マナーモードになっているスマホがブルブルと振動した。椅子に座ったままぼんやりと窓の外を見ていた清太は、片手でスマホを持ち、内容を確認する。さっきから電話がもう10回以上掛かってきていて、メッセージも様々な先から数えきれないほど送られてきている。今さっき送られてきたメッセージに目を通していく。


『どうしたんだ? もう終わりそうだぞ。早く来い』


 送られてきているのは、どれも同じようなメッセージだ。既に甲府盆地の西側の山の向こうに陽が沈み、辺りも急に薄暗くなっている。開け放った窓からは、昼間よりもややひんやりとした風が入ってきた。


「ただいま」


 玄関の引き戸を開ける音とともに、母の声が聞こえた。そして、静かに階段を上がって来る足音が聞こえて、部屋のドアが開けられる。 


「清太——」


 その声の方は振り向かなかった。ただ、窓の外の薄暗くなった風景を見つめていたが、後ろから母が一歩ずつ近づいてくるのが分かった。


「私と安那はもう行ってきたよ。お前、まだだろう?」


「ああ……」


 静かに呟く。すると、「ちょっと、こっち向きなさい」と母の声が聞こえた。それで少しだけ振り向いたその瞬間だった。


 パン——!


 何が起こったのか分からなかった。母は清太のすぐ目の前に立っている。その一瞬後に、頬に痛みを感じた。


「行きなさい!」


 自分の頬に手を当てながら、清太は椅子に座ったまま母を見上げた。清太よりもずっと背の低いはずの母の姿が、壁のように大きく感じられる。母は、赤く充血させたままの目で、こちらの方を睨んでいた。しばらく無言が続いてから、やがて母は背中を向けて黙って部屋を出て行った。


 一人になり、無意識にハンガーにかけた夏服の制服に着替えていく。そして、階段を降りると、玄関に数珠が一つ置いてあった。キッチンの方で、妹の安那が嗚咽しながら何か喋っている声が聞こえている。


 ポケットに数珠を入れて、無言のまま玄関の引き戸を開けて外に出ると、隣の納屋の中に停めてある原付バイクに跨った。ヘルメットを被り、エンジンを掛け、すぐにアクセルのスロットルを回す。庭を出て坂を上がり、まるで逃げるようにスピードを上げていく。


(何なんだよ——)


 誰かに無性に腹が立っていた。その相手は、母なのか、連絡してきた誰かなのか、それとも自分自身なのか。全く分からないまま、その胸の中のイライラを全て吐き出すようにただスピードを上げて走っていく。バイクのヘッドライトが闇を切り裂き、気が付くと目的の場所に近づいていた。道路脇の暗闇に、バイクを停めてヘルメットを脱ぐ。


 そこから歩いて行くと、辺りを照らすような明るいライトが見えてきた。そのライトを背中から受けた黒い人影が、何かヒソヒソと話しながら向こうから歩いてくる。


「まだ旦那さん見つからないんでしょう?」


「やっぱり、そのせいなのかしら。あの子は物静かな感じだったし、悩んじゃったのかもね。子供には罪はないのに、本当に可哀想だよ」


 人影とすれ違い、次第にライトに照らされたその家に近づいて来た。家の縁側の方が開け放たれているが、もう人の姿はほとんど無くなっているようだ。その時、暗闇の方から声が聞こえてきた。


「なるほどねえ……」


 大人の男の声が聞こえた。その方に顔を向けると、マスコミ風のカメラを持った大人の男と、清太と同じ夏服の制服を着た男子と女子の姿が見えた。


「望月さんは、前はもっと元気だったんです。でも、2年生になってからほとんど話をしなくなって……」


 女子が嗚咽しながらそう答えると、隣の男子がそれに続けた。


「そうなんです。そんな中で、昨日の事件でお父さんがあんなことになって。俺も彼女から望月さんのお父さんだと聞いてびっくりしたんですけどね。だけど、まさかこんなことになるなんて……」


「なるほど。すると、もしかして彼女は何かお父さんのやってた事に気づいていたのかな。頭もすごい良かったみたいだし、それで悩んじゃって。その上、これだけの事件が起きてしまって、将来を悲観した、ってことも」


「それは……そうかもしれませんね」


 その男子が答えた瞬間だった。気が付くと、清太はその男子のシャツの胸倉を強く掴み、彼の後ろのブロック塀に押し付けていた。


「いい加減にしろよ!」


「ど、どうした?! せ……清太。やめろ……」


「やめて! 清太くん」


 隣の女子も叫んだ。思わずその女子の方を強く睨む。


「お前たちに……お前たちなんかに、結羽の何が分かるんだ!」


 強く叫ぶと、周りにいた何人かの大人が「落ち着いて」と言いながら清太の腕を掴んで、男子から引き離す。するとその男子の方も叫んできた。


「馬鹿じゃねえの。お前だって、何が分かるんだよ。結局、何もできなかったじゃねえか!」


 すると、隣からパシャっというシャッター音が聞こえた。そちらを見ると、先ほどのマスコミ風の男がカメラを構えている。


「ちょっと、あんたも止めなさい」


 大人の一人が注意すると、マスコミ風の男はニヤッとした。


「すみません。私も容疑者が現れるかと思って待っていたのですが……流石に昨日の今日では、娘の通夜でも現れないようですね。お巡りさん」


 その男はニヤニヤしながら暗闇に去って行く。清太の腕を掴んでいた男は、チッと舌打ちして腕を放した。


「君たちも、お通夜なんだから、仏様に失礼だよ。静かにしなさい」


 その男は、清太とその男子学生を睨みながらそう注意すると、男子学生は清太を軽く睨んでから側にいた女子学生とともに暗闇に消えた。清太もその男に「すみません」と頭を下げてから、ライトに照らされた家の庭に入って行く。


 家の縁側には焼香台が置かれ、その奥の方に白い菊だけでなく黄色やオレンジ色の花がたくさん飾られていた。それらに囲まれて白い棺が横たわっていて、その脇には真っ黒な喪服姿の女性とセーラー服姿の少女がこちらに背を向けて立っている。二人とも、その棺の方を見ている。


 辺りには既に人の姿は無くなっていた。清太は大きく深呼吸してから、「あの」と声を掛ける。


「清太くん——」


 振り向いた喪服の女性が静かに答えた。目は真っ赤に充血していて、顔にも生気がない。しかし、ハンカチでその目を拭ってから、縁側に出てきて、そこに正座した。


「ありがとう。来てくれて」


 その声を聞きながら、すぐ目の前にいる彼女を直視できなかった。ただ少しだけ頷いてから、ポケットから数珠を取り出して、黙って焼香していく。両手を合わせて深く頭を下げると、頬を伝う涙が地面に落ちたのが分かった。


「ありがとう」


 俯いたままの頭の上の方から、女性の声が聞こえた。


「どうして……」


 えっ、と女性が尋ねる声が聞こえた。


「どうして……死んだんだ。どうして!」


 それだけ言うと、清太は振り返って、逃げるように走り出した。ライトの光で自分の顔を照らされたくなかった。早く暗闇に逃げたかった。


 おそらく、何人もの同級生が、この場所に来て泣いたのだろう。しかし、彼ら、彼女らは、結羽が死んだことが悲しくて泣いているとは思えなかった。ただ単に同級生を、それもまだ高校生であった同級生を亡くした、自分自身を憐れんでいるようにしか思えない。だから、自分は彼らとは違うのだと思っていた。


 しかし、清太自身も一体何が違うと言うのだろう。彼女が何の助けも求めなかったという意味では、彼らと何も変わらない。そのことが悲しいというより、ただ情けなかった。彼女の近くにいたつもりだったのだが、それはただの幻想でしかなかった。


(どうしてなんだよ……)


 歯を食いしばりながら、ただ真っすぐに前を向いてそのまま走り続け、誰もいない暗闇の中に置いてあるバイクの所まで戻った。急いでヘルメットを被ってバイクに跨り、エンジンを掛けてアクセルのスロットルを回す。


 スピードを上げて暗闇を走り出した。バイクのエンジン音の中で、ふと一週間ほど前の記憶が蘇る。


「じゃ、これがチケット」


 お金と引き換えに、友人が清太に渡してきたのは、鮮やかな花火が描かれたチケットだった。それを受け取った教室から出ようとした時、結羽と視線が真っ直ぐに合った。


 彼女は知っていたのだ。そのチケットで清太達が何をしようとしているかを。しかし、それについて彼女は何も言わなかった。


(あの時、俺が断っていれば……)


 まだ、あの時は引き返せた。そのチケットを受け取らない選択もできた。なぜなら、自分の中で迷いがあったことも事実だったからだ。


 もし、清太がその迷いの理由を結羽にはっきりと伝えたら。そして、「花火大会に行こう」と彼女を誘ったら。そうすれば、彼女は「花火大会に行きたい」ときっと答えたはずだ。その予定さえあれば、彼女が死ぬことは無かったのではないか。たくさんの仮定が頭の中をよぎって行く。


 いずれにしても、彼女が生きる道を選ぶためには、清太がその道を作り出すしか方法が無かったことだけは確かだ。


(俺は……好きだったから。結羽のこと)


 そう思うと、視界が急に滲んできた。もう運転は限界だ。真っ暗な路肩の脇に急いでバイクを停めると、そこで大声を上げて泣いた。



 ******



「清太くん——」


 声にハッとする。気が付くと、目の前には結羽の母親が座っていた。テーブルの上にはみずみずしい桃を乗せた皿が置いてあり、コップにもいつの間にか氷が追加され、そこに麦茶が注がれている。


「読んだ?」


「ええ……。やはり、僕に宛てたものでした。ありがとうございました」


 そう言って頭を下げる。彼女はそれに頷くと、大きなため息をついた。


「良かった。本当にありがとう。これでようやく、私も肩の荷が下りたわ。その手紙と写真は持って行ってね。結羽のためにも」

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