(5)

 車で実家まで戻ると、庭に青色の2tトラックが停まっていた。その近くで、作業着姿で帽子を被った小柄の女性が、荷台に黄色のコンテナを乗せている。車を降りると彼女がこちらに声をかけてきた。


「おかえり。遅かったね」


 母の篤子は帽子を脱いで、それをパタパタと振って顔に風を当てた。今年50歳になり、やや小太りだが、この辺りでは明るく元気の良い農家のおばさんで通っている。


「先に墓参りしてきたから」


 そう答えると、母は表情を一瞬にして曇らせ、すぐに清太に近づいて小声で言った。


「お父さん、今、家にいる」


 それを聞いてハッとした。するとすぐに、ガラガラと玄関の戸が開いた。


「おお、清太」


 父の清勝は首にタオルを掛けながら言った。今年55歳。農業大学校を出てから、祖父母とともに桃の栽培一筋でやってきたベテランだ。身長は清太よりも低く、色黒の腕はまだ太く見えるものの、全体的に身体は昔よりもかなり痩せている。


「どうだ? 大学の様子は?」


「大学?」


「お父さん。清太はもう去年卒業して、働いているんじゃないですか」


 母が答えると、父は少し首を傾げてから、「ああ」と言って頷いた。


「ハハ、そうだったな……。暑くて少しボケてるみたいだ」


 父は言いながらトラックの助手席に乗り込む。母も慌てて運転席に乗り込もうとして、清太の方を振り向いた。


「悪いけど、ご飯を3合くらい炊いておいて」


 それだけ言うと、バタンと車のドアが閉まり、トラックは庭で転回して出て行った。


 家の玄関を入ると、すぐに清太は台所に立った。大きな米袋から3合分をカップで計って炊飯器に入れて米を研ぎ、夕方5時頃に予約をセットする。両親ともまだしばらくは帰って来ないだろうが、母は帰宅すれば手早く何か作り始めるに違いない。普段からご飯くらいは炊くが、料理を自炊することがほとんどない清太は、それ以上に料理を作ることは諦めて、自分の部屋に戻った。


 窓を開けたままの部屋は、ムッとした空気がやや消えていた。急いで窓を閉めてエアコンの電源を入れる。おそらく久々に稼働したと思われるエアコンからは、多少かび臭い風が流れてきたが、あまり気にせずにその冷気に触れていると、ようやく一段落した感じになった。心地良さでそのままベッドに横になっていると、ウトウトと眠りについてしまった。



******



 目が覚めると、既に外は暗くなっていた。1階からは物音が聞こえる。両親とも帰ってきたのだろう。ゆっくりとベッドから起き上がり、エアコンを止めて階段を降りていく。居間に入る引き戸を開けると、中では父と母が夕飯を食べていた。父は焼酎の水割りを飲んでいるようで、赤くなった顔でテレビを見ている。母がこちらに声をかけてきた。


「ご飯炊いてくれて、ありがとう」


「ごめん。それくらいしかやってない」


「いや、十分だよ。でも、明日は畑の手伝いを頼むわ。……あっ、今からご飯出すからね」


 母は言いながら、立ち上がった。自分でやる、と一応申し出るが、「まあ座って」と母が言うので、「ありがとう」とだけ答えた。こういう時に母は世話を焼きたいタイプなので、待っていた方が本人も満足する。そこで、居間の畳の上に置かれた背の低い四角いテーブルの脇に座って、父とともにテレビを見ていた。


 しばらくすると、母がご飯と味噌汁、それにトンカツを皿に乗せて目の前に置いた。母の料理は、早い、上手いをモットーにしているらしく、昔からいつも手早く何かを作っているイメージがある。ご飯を食べ始めると、しばらくして父が立ち上がって、トイレにでも行くのか居間を出て行った。それを見て、母がそっと小声で言う。


「清太。そういえば、ガスライターを持って行った?」


「そうだ。忘れてた。後で戻しておくから」


 わかった、とだけ言った母は、まだ何か言いたそうではあったが、父が戻ってきたのを見ると、それ以上それには触れず、「そういえば」と切り出した。


「最近、仕事は忙しいの?」


「いや、そうでもないよ。メリハリ付けて働いてる感じかな」


「そう。なら良かった。この前もお婆ちゃんの一周忌で帰って貰ったし、無理させたかなあって少し思っていたから」


 祖母は昨年の6月に亡くなっていた。それ以降、祖父は痴呆の進行が急激に進み、今年の春頃から施設に入居している。だからこの家には今は父と母の2人しか住んでいない。2つ下に妹の安那がいるが、去年、就職したのを機に甲府市内のアパートに引っ越している。


 父はコップに入れた焼酎の水割りを飲みながら、黙ってテレビの方を見ていた。清太もご飯を食べ始めて、しばらくした頃だった。

 

『それでは、望月アナウンサー。現場の様子を教えてください』


 テレビからニュース番組の声が聞こえてきた。その瞬間、母は瞬く間にリモコンを手にしてチャンネルを変えた。テレビからはお笑い芸人が何か喋っている映像が流れ、それに笑い声が聞こえてきた。


「それで清太。東京の方は合コンとかないの?」


 母が急に話を振ってきた。まだ口の中に食べ物が入っていたので、「うん」としか答えられないでいると、「おい」と隣から父の声が聞こえた。


「さっきのニュースにチャンネルを戻せ」


 完全に目が据わった様子で、父がテレビの方に顔を向けていた。しかし、母はそれを無視するかのように、リモコンを持ったままテレビの方を見た。


「ホホ……この番組、見たかったの忘れてたわ」


「智治だ。アイツが俺の頭を……」


 父はコップの焼酎を一気に飲み干した。そして、ドンと音を立ててコップをテーブルに手を置いた。母は慌てた様子で父に声を掛ける。


「飲みすぎよ。そろそろ止めてください」


「俺は許さない。アイツも、アイツの家族もだ! それなのに、どうして安那まで分かってくれないんだ!」


 そこまで言うと、父は急にうう、と呻き始め、頭を抱えた。母が隣に寄って父の背中を撫でる。


「疲れているんですよ。もう、今日は休んだ方がいいわ。さあ、行きましょう」


 母が促すと、父もゆっくりと席を立ち、母に手を取られながら居間を出て行く。その後ろ姿を黙って見送っていたが、しばらくして母が戻ってきた。


「大丈夫。すぐに眠ったわ」


 母はそう言って座ると、大きくため息をついた。


「最近、お父さんの頭痛が酷くなってるの。病院の先生も、あの時の後遺症だって言うけど、少しずつ奥の方まで駄目になっているみたいでね。もう、手術でも無理だろうって言われてる」


「そんな……」


「農作業も長時間は無理ね。昔から体に染みついている経験で、指示することはできても、長時間になると手が思うように動かせないって。それにこの暑さだから、人手も集まらないしさ。来年はもっと畑を減らさないとダメかも」


 母は疲れたように再びため息をついた。どう声をかけて良いか分からない中で、テレビ番組から流れる笑い声だけが無駄に室内に響いていく。すると母は、「ごめん」と謝ってからこちらに顔を向けた。


「それで……お墓参りには行ってきたんだろう?」


 母が小声で言う。母がずっと聞きたかったのはそれだろう。


「行ってきたよ。それから、初めて家の仏壇に線香を上げさせてもらった。お墓でおばさんに会って……」


 そう、と母が頷く。


「私ももう長いこと晴代さんには会ってないからねえ。お前も会ったのは、久しぶりだろう?」


「うん……通夜のとき以来だと思う」


「元気そうだった?」


「うん……たぶん」


 彼女は昔の記憶と比べて明らかに老けて、表情にも疲れが見えていたが、その事には触れずに曖昧に答えておく。


「そう——」


 母はそれだけ言って黙ってしまう。普段から饒舌な母にしては不思議だった。どうやら何か言いたいことがありそうな感じだ。


「何か、あった?」


 母は一度首を振ってから、しばらくして言った。


「あの家……今度、処分されるかもしれない」


 えっ、と母の顔を見つめる。母はテレビの画面を見つめながら続けた。


「あの事件で……いよいよあの家も処分するしかなくなったみたい。家具とかお金になりそうなものはほとんど処分して、あの家の貯金もほとんどを事件の被害のために回したみたいだけど、それだけじゃ被害額に全然足りなくって。組合が家の処分の最終的な準備をしているって噂が流れてる。お父さんは知ってる筈なのに、何も言ってこないけどね」


「あの家を奪われる、ってこと?」


 そう尋ねたのに黙って母は黙って頷く。その家の綺麗に片付けられた居間の姿を思い出す。彼女も家を出る準備をしていたのかもしれない。そう思いながらしばらく黙っていると、母は静かに言った。


「もう、全部無かった事にして欲しい」


 えっ、と声を上げたが、母はテレビの方を見つめたまま、表情一つ変えない。母の言う「全部」という短い言葉が、どこか底知れぬ深さを感じさせて背筋が凍る気がした。すると母はすぐに立ち上がって、「じゃ、おやすみ」とだけ言って、居間から出て行ってしまった。


(あの事件で、家まで失うのか……)

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