(3)
その家は、そこから歩いて数分の場所にあった。清太の実家よりは新しそうな2階建ての家で、その隣には、木材を組み立てただけの車庫のような簡単な建物があり、そこに1台の白い軽自動車が停められている。庭にはよく手入れされた花壇があり、そこにホウセンカの赤い花がいくつも綺麗に咲いていた。女性は家の玄関の引き戸をガラガラと開ける。
「さあ、どうぞ。上がって」
家の中は静まり返っている。彼女の案内で、玄関を上がってすぐ隣の部屋に入ると、和室の真ん中に足の低い四角いテーブルが置かれ、一方の端にテレビ、その逆の端に仏壇があるのが見えた。
「ここにある線香を使ってね。私は冷たいお茶でも持ってくるから」
女性はそう案内してから、エアコンを付けてその部屋からいなくなった。
エアコンの動き出す音だけが静かに響くその部屋の中で、清太は仏壇の前に進み、そこに置かれた薄い座布団の上に座った。仏壇の中には、1枚の写真が置かれている。そっと笑った顔でこちらを向く、まだ若い少女の写真。
「結羽——」
思わずその名前を呼んだ。見覚えのある緑色のリボンの付いた制服姿の彼女の写真を見ていると、何かが頬を伝う感覚があった。慌てて手の甲で目頭を拭う。しばらくすると、入口の戸が開けられ、先ほどの女性が麦茶とお茶菓子を乗せたお盆を持って入ってきた。その姿を見てようやく我に返り、線香に火を付け仏壇の前に立ててから、そっと手を合わせた。
「どうぞ、そこに座って。何もないけど、ごめんね」
いつの間にか女性がテーブルにコップを置いていた。彼女が案内するとおり、その真向かいの薄い座布団が敷かれた場所に座る。
「ありがとう。結羽も喜んでいると思うわ」
女性が頭を下げるので、思わずこちらも頭を下げた。改めて正面の女性の姿を見てみると、清太の記憶にある彼女とはまるで別人のように見えた。髪には白髪が目立ち、頬もげっそりと痩せこけている。半袖のTシャツから伸びる腕もかなり細い。その姿を見ていると、喉がカラカラに乾いてくる気がして、慌てて目の前の麦茶を一口飲み込む。その冷たさが一気に体内にしみわたり、ようやく少しだけ落ち着いた。
「この前も、秋山さんが来てくれたの。あの子、東京の方で働いているらしいんだけど、帰省したら必ずお墓参りに来てくれているみたいでね。清太くんは、今はどうしてるの?」
「僕も東京の方で働いています。ちょうど今日から休みが取れたので帰省したところです」
「そう……。みんな、忙しくしているのね」
女性はそっと仏壇の方を見た。ショートヘアに白髪の目立つ彼女の姿を見ていたが、まるで時間が停止してしまったかのように、彼女はそのまま動かなくなってしまった。静まり返った部屋の中で、時計がカチカチと音を立てている。どう声をかけて良いか分からず黙っていると、女性もその静寂に気づいたのか、少し慌てたようにこちらを向いた。
「ごめんなさい。篤子さん……お母さんも元気にしてる?」
「ええ。さっき帰った時も畑に行っているみたいで、まだ会っていないんですけど」
「そうよね。忙しい時期よね」
女性も自分の目の前のコップを持って、その中身を一口飲む。そして、小さくため息をついてから口を開いた。
「それで……お父さんは、どう?」
「えっ、ええ。元気……みたいです」
そう、と静かに女性が答える。清太の胸の鼓動が急に激しくなった。思わずコップの麦茶を口にする。彼女に会った時から、その質問だけを恐れていた清太は、その一言を答えるのが精一杯だった。
「本当に……ごめんなさい」
女性が深く頭を下げる。
「あ……あの、もういいんです。その事は」
慌ててそれだけ言うが、ようやく女性が頭を上げた時の表情が、瞬時にやつれてしまったように思えた。彼女は虚ろな視線でテーブルの一点を見つめていたが、ハッとしたようにテーブルの端に置かれたクーラーポットを持って、清太のコップに注いでいく。コップに入れられた氷がカランと音を立てるのが部屋の中に響きわたるような気がする。再び正座した女性は、仏壇の方に目をやった。
「あれから、もう8年も経つのよね」
清太に言うというのでもなく、女性が口を開いた。そうだ。清太がこの家に来たのも、そして、彼女に会ったのもその時が最後だ。
「母とは、会ったりするんですか」
そう尋ねると、黙って女性は首を振った。
「近所の目もあるし、今でも会うのは無理。でも、篤子さんからの電話はたまにあるわ。それに、安那ちゃんは今でもちょくちょく来てくれてね」
こちらの方を向いて少しだけ笑顔になりそれだけ答えると、女性は再びテーブルの一点を見つめて黙ってしまった。再び時計の音がカチカチと聞こえてくる。コップに口を付けながら改めてその部屋の中を見回すと、そこはおそらく居間であるとは思うが、テレビと仏壇、低いテーブルの他には何の家具もない。カレンダーすら見当たらず、まるで生活感が無い感じだ。その怖いほど整然と片付けられた部屋と、彼女の異様な老け方とのギャップが、清太に何とも言えない息苦しさを感じさせてくる。
(1人で全部、受け止めているんだ——)
それに気が付くと、清太はその場にいるだけで息苦しく感じてきた。沈黙にも耐えられなくなり、帰るきっかけを作ろうと思って、麦茶の入ったコップを持ち、ゴクッと一気に飲み干す。
「じゃあ、そろそろ失礼します」
「あっ……もう少しゆっくりしていって」
「ありがとうございます。でも、そろそろ帰らないと」
立ち上がろうとして、仏壇の方をもう一度見つめた。その時、ふと仏壇の隣にある窓から、庭の花壇の前に座っている1匹の白い猫が見えた。
「あっ……猫」
そう呟くと、女性もその方を見た。その白猫は、ホウセンカの花の前に座り、こちらの方を見つめている。
「ああ、あれは最近、この家に住み着いている猫なの。さっき庭で少しだけご飯をあげようとしたら、急にお墓の方に走り出してね。ご飯が目の前にあるのに、そんなこと珍しいから、何だか気になって私もお墓に行ったのよ」
「そう、ですか——」
黙ったまま、清太はじっとその猫の姿を見つめる。猫の方も、花の前に座ってこちらを見つめ続けている。
(花と、白猫……)
花壇の前にちょこんと座っている白猫。その姿をじっと見つめているうちに、清太の中に同じような風景が蘇ってきた。女郎花の黄色い花を背景に、白い猫を膝に抱えてそこに座る少女。そして、そこにスマホのカメラを向けた自分の方に、彼女は笑顔を向ける。それは……。
「清太くん……?」
女性の言葉にハッとした。すると、目の前の女性は黙って後ろの棚の上に手を伸ばす。彼女は、そこにあった青いティッシュボックスをテーブルの上にそっと置いた。
「すみません――」
清太はそれだけ言うのが精一杯で、夢中でティッシュペーパーを手にして目を覆う。いつの間にか頬を涙が伝い、その雫がテーブルに落ちてしまっていた。俯いたままそれを拭き上げてから、静かに鼻をすすると、その音が部屋の中に響いた。
「ごめんなさい……。ちょっと結羽のことで思い出したことがありまして」
もう一度、「すみません」と言い、大きく深呼吸をして、再び涙を拭き取ってから顔を上げた。すると、女性は少しだけ頷いて言った。
「ウチでもね。昔、三毛猫を飼っていたの。結羽が可愛がっていてね。だから、何となくあの白猫も
女性は呟くようにそう言ってから、後ろを振り返った。
「清太くんに、渡したいものがあるの」
女性は言いながら、定型の小さな茶色の封筒をテーブルの中央に置いた。そこには、小さな字で「S.Sくんへ」という文字と、その下の方に、「お母さんへ。この手紙を彼に渡してください」と書かれている。
「結羽が亡くなってから、あの子の部屋を片付けていた時に、机の引き出しの中から見つけたの。それで、そのままずっと持っていたんだけど、あの子が何かを伝えようとするとしたら……清太くん。やっぱりあなたしかいないと思って」
女性はその封筒の上に手を置いて、清太の方に近づけた。その封筒をじっと見つめる。
「私はこれをずっとあなたに渡したかった。でも、もうあなたの家に行くことは出来ない。郵送も考えたけど、それじゃあなたに絶対に伝わるか分からない。だからずっと、私が持っていたの。それに……」
女性はそこで口ごもった。黙ってその様子を見ていると、彼女は少しだけ頷いてから再びこちらを見つめた。
「あんな事になったとはいえ、結羽が何かを伝えたいくらいの人間なら、どんな事情があったとしても、きっとあなたは結羽のお墓に来てくれる。そして、あなたがまだ結羽のことを気にしてくれているのを直接確認したうえで、私はこれを渡そうと思っていた。いくら結羽の想いがあったとしても、今を生きる人間の邪魔をするようなことはしたくないから」
「おばさん——」
「偉そうな事を言ってごめんなさい……。でも、清太くん。あなたはまだ、結羽のことを忘れてはいないみたいね」
そこで初めて女性は笑った。その瞳から、透明な雫が痩せた頬を流れていく。女性は慌てた様子で「ごめんなさい」と言って、テーブルの上のティッシュペーパーで目頭を拭いた。
「私にはその中身を知る権利はない。私はただ、何かあの子が伝えたいことがあったとしたら、親としてそれを伝えてあげたいと思っているだけ。それに、もしかしたら、宛先はあなたじゃないのかもしれない。もし、中身を見てもらって、違うなら違うと言ってもらえればいいの」
お願いします、と女性は再び頭を下げた。
正座したまま、その茶色の小さな封筒に書かれた字を見つめる。彼女がどのような字を書いていたのか、記憶は定かではない。ただ、何となく、その字体が懐かしく感じられたのは確かだ。その小さな定型の封筒には、あまり厚みはない。何か便せんのようなものが入っているのだろうか。清太はそっと手を伸ばして、封筒を手に取ると、顔を上げて女性を見つめた。
「もし、宛先が違っていたらすみません」
「大丈夫。封を切って中身を見てね。私は何か冷たいフルーツでも持ってくるから」
それだけ言って女性は立ち上がると、逃げるようにその部屋から姿を消した。彼女が言ったとおり、その封筒の中に、娘のどんな想いがあったとしても、今となっては、もはや親としてできることは、彼女が望んだ相手にこの封筒を渡すことだけなのだ。その中身を知ったところで、彼女の心が癒されることは絶対にない。
茶色の封筒は糊で封をされている。清太はその上部を指でビリビリと切って、その中のものを取り出した。そこには、1枚の写真と便せんが入っていた。写真には、彼女が好きだった女郎花をバックに、白い猫を膝に抱えた彼女が笑顔で写っている。それは、間違いなく清太が撮った写真だ。
茶色の便せんの方を広げると、手書きの文字が横書きで書かれていた。清太はその冒頭に書かれた文字を見つめる。
『斎木清太くんへ』
その文字をもう一度読み返してから、大きく深呼吸する。そして、清太はその内容に目を通していった。
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