(2)

 インターチェンジで高速道路を降りると、車は信号機のある交差点で久々に停まった。強い陽射しが車内に差し込んでくる。ちょうど、午後2時を過ぎて一番暑い時間帯だろう。車載の温度計は、外気が35度であることを示している。エアコンを効かせた車内は快適だが、とても窓は開けられない。


 しばらく走っていくと、辺りは桃や葡萄の果樹園が広がる風景に変わっていく。暑い中、農作業をしている姿も見える。ちょうどお盆前の桃の収穫の最盛期なのだろう。


(今日はウチもまだ忙しいだろうな)


 そう思いながら甲府盆地から山の方に上がっていく県道に入り、坂道を走り抜けていく。車通りは多くない。10分ほど走って、大きな柿の木の下から細い道に曲がり、少し上がった先が実家だ。


 この辺りは、昔から果樹の栽培が盛んな農業地域であり、果樹園の近くに点在している家の庭はどこも広い。清太の実家も、家屋自体は古くなりつつあるが、周りの家と同じように広い庭があり、車が4台は楽に停められる。家の隣には倉庫代わりに使っている木造の納屋もあり、そこに農業機械と、ダンボールやコンテナの箱が雑多に置かれていた。


 車を庭に停めて、後部座席に積んでいた青いスポーツバッグを持って車を降りた。玄関の引き戸を横にガラガラと開け、「ただいま」と言ったものの返事はない。帰省することを伝えていたので鍵は開けてくれていたようだが、やはり農作業に出ているのだろう。


 清太は玄関から、階段を上がって、自分の部屋のドアを開けた。見慣れたベッドと勉強机が残っているその部屋には、普段から誰も入らないためなのか、エアコンが効いていないためなのか、ムッとした不快な空気が漂っている。


(暑いな……)


 持ってきたバッグをドサッとそこに置き、すぐに窓を開けて網戸だけにする。ミンミンとうるさく鳴く蝉の鳴き声とともに、僅かに風が入ってきた。


 一息ついて、1階の居間に降りた。その部屋の端には、黒色の仏壇が置いてある。祖母の写真が飾ってあるその仏壇の前に正座すると、ガスライターで蝋燭に火を灯した。緑色の線香に火をつけ、線香立ての灰の上に置いて手を合わせる。線香の香りが漂い始める中、清太はそこにあった線香の何本かをティッシュペーパーにそっと包み、新聞紙とガスライターを持って外に出た。


 庭の端の方の日当たりの良い場所に、角材で囲まれた花壇が作られている。昔は母がよく手入れしていて、時期に応じた花を植えていたのだが、今では雑草がかなり目立っている。それでもそこにはまだ、秋桜こすもすと、その端の方に、一際目立つ黄色い女郎花おみなえしが元気に咲いていた。清太は納屋の中からハサミを持ってきて、その黄色い花を少しだけ摘んで、持ってきた新聞紙に包んだ。


 再び車に乗り込み、今度はさっき来た道とは逆に坂道を登る方にハンドルを切った。その先には、山の尾根を横断するように作られた広域農道がある。元々はその辺りの果樹園や畑の農作業のために作られたのだろうが、普段からあまり車通りは多くない。その道に出ると、アクセルを踏んでスピードを上げた。


 道路はカーブしながら山を登り、その先の短いトンネルを抜けると隣町に入る。その辺りでも、果樹園地帯の中を横切る風景は変わらず、農作業中の人の姿がチラホラと視界に入ってきた。しばらく進んだ先でスピードを落として、細い道にハンドルを切る。


 そこからは、真っすぐに山から下りていくような坂道になった。道沿いの小さな集落を抜けると、視界が一気に広がり、甲府盆地の風景が一望できる。その先の三差路を曲がり、砂利の駐車場に入って車を停めた。車を降りると、一斉に蝉の鳴き声が耳に響いてくる。実家の辺りよりも大音量に思えて、余計に暑さを感じてきた。


 そこは寺に隣接した、この辺りの集落の共同墓地だ。清太は、持って来た荷物を抱え、入口の辺りに置かれているバケツに水道の蛇口から水を汲み、柄杓をその中に浸した。それを持って、記憶をたどりながら墓地の中を歩いていく。良く晴れて気温も高い時間帯であるためか、辺りに人の姿は全く見当たらない。墓石に刻まれた家名を確認しながら、ようやく目指す場所にたどり着いた。


『望月家』


 そう書かれた墓石の前に座り、その脇に設置されている墓誌の文字を見つめた。そこには、「平成XX年7月20日没 俗名 望月結羽ゆう」と書かれている。


 その墓誌の前で線香をまとめて握り、ガスライターで火を付けた。ムッとした暑さの中、火を付ける短い時間だけでも額から次々と汗が滴り落ちてくる。煙の湧き上がる線香を墓石の前にそっと置いて、ひとまず目を閉じて手を合わせた。


 その時、さあっと風が吹いた。その意外な冷たさにドキッとして目を開ける。


(誰かの……声?)


 なぜかそう感じて、立ち上がって周りを見回した。しかし、そこには誰の姿も見えない。ただ、静かに墓石が並んでいるだけだ。


 気のせいだと思って、改めて目の前の墓石に顔を向けた。その両端に2つ並んだ花瓶にはまだ活き活きとした花が入っている。その中から枯れた数本だけを取り除き、持ってきた女郎花をそこに入れると、小さな花だと思ったが、その黄色が目立って明るく見えた気がした。バケツから柄杓で花瓶に水を加え、墓石の下の方にも水をそっとかけていく。最後に、清太はもう一度座って手を合わせた。


 持ってきたガスライターと新聞紙を丸めて立ち上がり、来た道を戻り、バケツと柄杓を元あった場所に返した時だった。駐車場の入口の辺りから、麦わら帽子を被った誰かがこちらに歩いてくるのが見えた。帽子の影で表情はよく見えないが、ショートヘアの細身の女性のようだ。彼女は少し急いで来たのか息を上げながら、清太の方に近づいてきて立ち止まる。


「あの——」


 女性が声を掛けてきた。清太は彼女の顔をじっと見てハッとなった。


「清太くん……よね?」


「ええ……あの、ご無沙汰しています」


 小声でそう答えると、女性は首を振った。


「ううん、こちらこそ。久しぶりねえ。何だか見違えたわ。何年振りかしら」


「そうですね……」


「ありがとう。来てくれて」


 清太はその言葉にドキッとした。同じ言葉をどこかで聞いたような気がする。思わず女性から顔を背けて、無意識に先ほどまでいたお墓の方に顔を向けた。すると、急にその記憶が頭の中に蘇ってくる。慌てて、大きく広がった空を見上げた。


「今日は……良く晴れて、暑いですね」


 女性の方には顔を向けられなかった。真っ青な空の色を見ていないと、閉じ込められたたくさんの記憶が、濁流のように一気に蘇ってきそうな気がしていた。山から吹き降ろす風が顔を撫でていく。


「あの……」


 しばらくして、女性の声が背中の方から聞こえ、その方に少しだけ振り返った。


「良かったら、ウチに来てもらえないかしら。仏壇にも線香をもらえたら、あの子も喜ぶと思うんだけど。……お願いできるかな?」


 女性がそう言うのを視界の端の方で捉えながら、清太は「ええ」とだけ答えて、再び空を見上げた。

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