第13話 毒母の言い分
ああ、つまらない。私はリモコンをテレビに投げつけてやった。
テレビはヒュウという音をさせて、映らなくなった。
なぜいつも、私が見ているテレビはこんなにも、つまらなくなるのだろうか・・・。
私はただ、やれることは全部怠けないでやろうと思っただけだった。
なにも娘の柔らかくて美味い肉を食いちぎって、骨と皮だけにしてしまって、自分だけがぶくぶくと、栄養満点になってやろうと思っていたわけじゃない。
だけど、今、そんな風になってしまった。
今日、私の大事な娘は、拒食症と診断された。
『お母さん、少し、過干渉ではありませんでしたか』
心療内科の医師は、ぺろっと舌でも出すみたいに聞いた。責めるようではなく、わかるわかる、そんなのよくあること、みたいな顔をしてくれた。
ドジやっちゃったね、ドンマイ、ドンマイ。
そんな顔だ。
『私はただ、娘のために、できることは何でもしようと、怠けずに、やってきました』
とても陳腐な言葉を言った。
幼稚園児みたいだと思った。
『お母さんのその、なんでもしてあげたい、という頑張りの先には、何があると思う?』
医師は、目を細め、私を試すような顔で聞いた。
『優秀な子を育てることは、間接的な社会貢献だと私は考えています』
私が言うと、医師と娘はデュエットのように同時にため息をついた。
なによ・・・。
心療内科だなんて、一族の恥・・・。
こんなところ、一生来たくなかったわ・・・。
私が何をしたって言うの・・・。
優秀な子と、立派な夫を育てること、それは、専業主婦ができる最大の仕事だと私は信じてやってきた。
私の母がそうだったから。そして、その母だって、そうやって生きてきた。
女が表舞台に立ってはならない。
舞台を磨き上げ、そこに夫や子を立たせ、人々の称賛を得ることこそ、女の仕事だと、私は教わって生きてきた。夫や子の活躍はとても誇らしく、何よりも私は自分自身への信頼を深めてきたのだ。
舞台に立つ夫や子に私は日課であり、唯一の生きがいである『ダメ出し』をする。
これはもう、私にしかできない天職だと思っている。ゴミを背中につけて気づかない人に、ゴミがついていますよ、と教えてあげる人間は、私しかいない。昔からそうだった。中学校の入学式でしつけ糸がついたままのスカートやブレザーを着ている子に、携帯用の裁縫セットを貸してやった。とても感謝されたものだ。他の人は気づかないのか、気づかないふりなのか、相手を傷つけるとでも思うのか、誰も言わないから、仕方がなく私が言わなくてはならないのだ。
自分はこれで良いのだ、とでもいうように、のうのうと生きている相手の、ダメなところをズバリと指摘してやる。相手はへなへなになる。しかし、そんなことでは成長はないぞ、と尻を叩いた。
なぜなら、人も、家も、磨けば光るからだ。
私の家を御覧なさい。天井から壁、窓、床に至るまで、私の手によって磨き上げられている。『光るべきは光らせる』それが私の信条だ。専業主婦のプライドをかけて家事や子育てに手を抜いたことはない。光るものを光らせないのは、罪だ。
医師はつまりは、私を『毒母』と認定し、私への反省を求めているようだった。そして、私に、この私に、カウンセリングを受けるように、と求めてきた。
『冗談じゃないわ。心療内科のお世話になんて、なるものですか』
私は立ち上がると、診察室を飛び出した。
『受験後のストレス』と見られる貧血から、大学で倒れた娘を病院まで迎えに行った。
なぜ私が毒親扱いをされなくてはならないのか。
『ごめんなさい』
娘は弱弱しく言った。
『迷惑をかけてごめんなさい』
私は娘を一度も見ないで言った。
『ママに恥をかかせないでちょうだいよ』
ふと、私は自分の胸がちくっとした。
家に帰ると私は、夕方の日課である床拭き掃除を始めた。
部屋は天井から壁、そして床、ピアノの下も、冷蔵庫の上も、ほこりひとつない。窓ガラスも、窓枠も、窓の桟まで、新築の時のままの光を放っている。きれい好きは母譲りだ。いつも小ざっぱりとした旅館みたいになっている家で暮らしてきた。それが、親の必死の心がけと知ったのは、結婚してからだ。家は見張っていないとどんどん汚くだらしなく、どうしようもないゴミ屋敷になってしまう。
この二十六年間、私は掃除にあけくれてきた。子供が小さい時には、きれいにするのはとても大変だった。ポケットや靴下からざらざらと砂や土が出てきて、時にはダンゴ虫まで出てきて、家はいつも乱雑に散らかってしまった。おもちゃは汗やよだれでべたべたしていた。拭いても、洗っても、また翌日には汚くなった。それでも私は母を手本に、片づけた。
家がきれいなら絶対に悪いことは起きない。そう信じていた。
しかし、私は今日、気付いた。
この家は、なにも良い事が起きない。
とにかくつまらない。なにひとつ実のならない木だけが、うっそうしている庭みたいだ。
つまらない、つまらない、つまらない。私はこの言葉を何千回、何万回言ったことだろう。そして私はなにを求めて、家を整理整頓してきたのだろう。
誰もがほめてくれるきれいな家があって、夫、息子、私用と、車が三台もある。私はどこへでも行けるのに、どこにも行こうという思いがない。
どうしてなのか。
私は何を求めて歩いてきたのだろう。それすらわからなくなってしまった。
ひとつだけ言わせてもらえば、私は日々がんばってきた。小さい時から、『がんばろう』と自分に言い聞かせて、がんばってきた。
がんばることが楽しかったし、がんばりさえすれば、なんとかなると信じてきたからだ。
私は妻になり、そして母親になった。妻として、母親として、毎日のようにレースがある。私はがんばった。私はそのレースを一回も棄権することなくこなした。
『仕事』を持たない専業主婦は逃げる言い訳がない。欠席をする理由がない。夫が部下を家に連れて来れば、豪華なホームパーティーをいつだってがんばった。子どもの学校の役員や行事も面倒がらずにがんばった。夫、子二人という三人のレースでは、一回一回、勝ったり負けたりした。抜いたり、抜かれたりしながら、参加しつづけた。その時々で勝てば喜び、負ければ悔しかったりしただろう。今となっては忘れてしまった。あんなにうれしかったこと、身を切る程くやしく、悲しかったこと、どうして忘れてしまったのだろう。忘れてしまえるくらいのことならば、喜ばなければ良かった。泣かなければ良かった・・・。
それなのに・・・。がんばった先が今なのだとしたら、なんのためにがんばってきたのか本当に空しくてたまらない。
一仕事を終えると、私はソファに座ってテレビを見続ける。ああ、つまらない。ここは、地獄だ。
どうしてみんな、我が家の人間は、舞台の途中で栄光を目前に、ぶっ倒れてしまうの?
どうして私の家族は、ちゃんとやってくれないの?
怠け者なの?
部屋はとても静かだった。そしてなにもかもがつまらなかった。
このテレビが悪いんだわ、棄ててしまいましょう。
私は納戸にテレビを棄てに行った。
壊れたテレビがごろごろと転がっていた。夫のテレビ、長男のテレビ、そこにまさかの、娘のテレビが加わることになるとは、信じられなかった。娘だけは、私のなんというか、神のように、太陽のように、絶対の存在だと信じていたから・・・。
その私の太陽が・・・。
拒食症だとは・・・。
ふっと、涙があふれた。
私は家を見張り、磨き上げ、この世でもっとも良い素材で、最高に美味しい料理を作り、命がけで尽くしてきたのに・・・。
夫は出世目前で、上司に逆らって脱落した。今は、関連会社の所長をしている。そんなのつまらない。夫には、本社の社長になってほしかった。そしてテレビや新聞に出るような、かっこいい経営者として有名になってくれたら、裏方で夫を支えてきたのだもの。この家もちらっとテレビに映ったりして、磨き上げた床や、窓を褒めてもらいたかった。立派な男の陰に私という女あり、というそういう瞬間を、持たせてほしかった。それなのに、ある政治家の、後援会が主催する演歌歌手のディナーショーへの出席を断ったことからつまづきが始まった。みんなが出るものに、出ればいいじゃないか。楽しめばいいじゃないか。それを、会長に向かって、
『政治がからむのはおかしい』と進言した。
夫は言った。
『いいかげん、俺にもプライドがあるから』
なんのプライド?
自分を下げるようなことをして、何がプライドなの?専務まで上り詰めて、あのまま行けば社長も夢じゃなかったのに・・・。
そして長男。なんとしても大手企業に入ってもらおうと私はもう小さなころから必死でサポートした。中学・高校受験で泣いたものの、大学受験にまあまあ勝った。そして、就職試験は大勝利だった。
それなのに、入社して一か月で辞めてしまうなんて。
『僕は、起業家になる』
そう言って、家事代行の会社を設立。はぁ・・・、本当に、がっかり。
娘は勝利だけの人生だった。国立大付属の小学校に合格、私立の名門中学校に合格。そのまま高校に上がり、大学受験で大勝利。それなのに、入ってまだ一か月と少しで貧血で倒れてしまった。その原因が拒食症とは・・・。
ねぇ、私くらいにちゃんと料理を作る母親がこの世にいるかしら。こんなに人を馬鹿にした運命って、あるの?
『お母さん、娘さんが一番苦しいのですよ?』
うつむく娘の前で、先生は言った。
ちょっと待ってよ。
私はそこで運命を一時停止にしておいた。
ちょっと待ってよ。
その日の夜になって、宅配便がやってきた。新しいテレビだった。一体何が映るのかしら。私はわくわくして、電源を入れた。
そこに映ったのは、ひどく意地の悪い顔をした、ぶくぶくと太った中年の女だった。
『さぁ、いよいよ、あなたの番だ。あなたは何ができるの』
『さあ、私を楽しませてちょうだい』
ソファに座って、ケーキをつまみ、こちらを眺めている。
『ほら、がんばって。あたしもがんばってるのよ。さぁ、もっともっと、死ぬまでがんばって』
よく見ると、それは私だった。
テレビを消そうとしたが、何をやっても消えなかった。
夫と、息子と、娘が、ソファに座ってこっちを見ていた。
『面白いものを見せて』
彼らはそう言って、私を見ていた。
私はこんちくしょう、と思った。
そして、床を拭きはじめた。だって、これが私の得意分野だから。
『つまらない女だな』
『つまらない母親だ』
そんな声が飛んできた。
しかし、私はそれしかなかったから、それを続けた。
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