第12話 カオリ先輩

悲しかったのは、みんながまともだったこと。社会性を維持していたこと。いつも通りにしていること。

狂ったように泣いたり、酒を飲んで暴れたり、まともな会話もできなかったり、そんな風になっている人が一人もいなかったということ。

誰か一人くらい、そういう人がいてくれたら・・・。いなくちゃおかしいでしょう・・・。

死んだのよ?

あの、カオリ先輩が・・・。

ねぇ、学校中の憧れだった、カオリ先輩が50で死んでしまったのよ?

どうしてそんなに穏やかでいられるの。

葬儀場で、両家の親族という役柄を、華麗に、完璧に演じている人たちを、私は見ていた。


三日前、先輩が亡くなったという知らせを受けてすぐに、私は何が何でも先輩のところに行かなくてはならない、と思った。花屋に枕花を注文し、黒っぽい服に着替えた。泣きながら車を運転し、何を思ったか私は無意識に、先輩の実家に着いてしまった。

私にとってのカオリ先輩の家は、ここだった。先輩のお母さん、由香里先生はピアノ教師で私はこの家で、三歳から十二歳まで、ピアノを習っていた。

まさかこんなことでこの家を再訪するとは・・・。由香里先生と抱き合って泣きたかった。

玄関のベルを押した。誰も出てこなかった。そこからまた十五分ほど西へと車を走らせると、先輩が結婚をしてからずっと住んでいた家がある。国道を右に入り、少し走ると堅牢な塀が屋敷をぐるりと取り囲んだ『大地主』という風情の家がある。ここが先輩の夫の実家だ。その横にあるのが先輩の家だ。来客用の駐車場に停め、花を抱えて車を降りた。カメラ付きのドアベルを、うつむきがちに見て名を告げた。

白い門を開けて中に入るのは初めてだった。玄関までかなり歩いた。庭は家が一軒建つほど広く、芝生に覆われていた。一メートルほど伸びたコスモスが、ピンクと白の花を咲かせて、秋の風に揺れていた。外国製らしき大きなテラコッタには、先輩が植えたと思われる草花が、茶色く枯れてしまっている。

立派な家と、二台の車、大地主の嫁、健康な息子・・・。さすがに先輩の人生は華麗だった。そしてそれは当たり前かまだ物足りないくらいに思えるほどだった。それくらい彼女は私の中で、絶対的な女性だった。

玄関を入ると、そこには先輩の夫、息子、そして由香里先生と先輩の父親がいた。由香里先生は私を抱きしめてくれた。

線香と、季節外れの冷房の空気。静かな時間が流れていた。

和室の白い棺の中に、先輩は眠っていた。化粧を施され、真っ白な着物を着ていた。きれいだった。とても死んで行く人には見えない。まだまだ生き続ける人の顔に見えた。

(先輩、これから結婚式ですか)

『いい顔をしているでしょう』

由香里先生が言った。

『はい』

先生の後ろで、お父さんは涙をそっとぬぐった。

『どうして・・・。こんなにきれいなまま、逝ってしまうのですか』

私は舞台女優にでもなったみたいに大声で先輩に語りかけていた。でも、それは演技ではなかった。

あまりにも生き生きと美しいまま死んでしまうということが、本当に、信じられなかった。病に連れ去られてしまう人はもっと、しおれているものではないのか。どうして、どうして・・・。咲き誇る花のまま別の世へ行く人、それが先輩だった。

『・・・』

言葉が見つからなかった。しばらく三人ですすり泣いた。由香里先生の話では、たったの三か月前、腰が痛いと訴えた。先輩は懇意にしていた接骨院でマッサージを受け、湿布と痛み止めをもらってきた。そして一か月前、ボランティアでしていた点字の講習会で突然倒れ、そのまま入院。生きていることが不思議だと医師が言った。全身病魔に侵されていた。本人には、『過労』と伝えた。そして、そのまま眠るように逝ってしまったという。本人が一番驚いているのではないか、と父親が言い添えた、

由香里先生は涙を拭いて立ち上がると、一枚の着物を持ってきた。

『これは大学の卒業式で来たものなの。これを着せるつもりよ』

菜の花のように優しい色の、中振袖だった。

『きれいですね』

私は先生の顔を見た。いつだって、先輩は先生の自慢の頂点にいた。勉強、ピアノ、運動、何をやっても人並み以上の能力を示す先輩は、由香里先生を何度うれし泣きさせたことだろう。そして今も、先生は先輩のこの死顔を誇りとし、一級品であろう着物を撫でている。

小さな時から足が速かったですよね。小学校時代からバレークラブチームのキャプテンとして、ピアノ教室のリーダーとして、みんなをリードしてくださって・・・。思い出話は尽きなかった。

そして、『あの時』の話になった。


『あの時』は、大雨が降っていた。夏の六時頃だというのに雨のせいで、あたりは薄暗かった。地域の小学生を集めて活動していた中野フェローズというバレーボールクラブでは、いつも二人の保護者が送迎を担当する決まりになっていた。わざわざその役目を果たすために、運転免許を取ったある母親がいたAちゃんという、私と同級生の子の母親だった。

今にして思えばとても残酷な話だ。そんな大雨の日くらい、慣れた者が行くべきだった・・・。一台目の車が最初の四人を乗せて走り去った。そして、カオリ先輩、私、Aちゃん、そして近所の友人二人は、次の車が目の前に来るのを待っていた。先輩は、その母親が運転に慣れていないのを知っていた。そして送迎のために、大きな七人乗りの車に買い替えたばかりだった。

大雨の時には車を体育館前に着けるのだが、その母親はそれがなかなかできないでいた。先輩は傘をさして、車を誘導し始めた。それでもうまくいかない。なぜあの時、車を体育館前に着けることにあんなにこだわったのか。針やミサイルが降っているわけでもない。さっさと車のあるところに私たちが移動すれば良かった。雨にどれほど濡れようが、あんなことになるくらいなら、構わなかった!

『オーライです、オーライです、オーライです、ストップです』

ストップです、と言ったその瞬間、車は先輩を思い切りバックで跳ね飛ばした。

先輩の足がタイヤの下に挟まっていた。

『うっ』とうめいたきり、先輩は動かくなった。

『あれ』

出てきたAちゃんの母親が『ギャーッ』と言って、車を今度は前へと出した。

先輩は、身体をゆでたイカのように反った、

『・・・平気だから。・・・みんな帰って』と絞り出すように言った。

体育館の鍵の閉めに来てくれた用務員が、救急車を呼んでくれた。私は事務室で電話を借り、由香里先生と、自分の母親に電話をかけた。友人たちがカオリ先輩に傘をさし向け、Aちゃんの母親は土下座をして泣いていた。由香里先生は救急車よりも早く学校に来た。

『何があったの』

Aちゃんの母親に、由香里先生が言った。

『ごめんなさい』

土下座をして、濡れそぼる母親を、Aちゃんが泣いて見ていた。

私は、これは夢だ、と思った。こんな嫌な現実が起きるはずはなかった。目覚めろ、早く、目覚めろ・・・。

『お母さん・・・、あたし・・・、平気だから・・・。お母さん、早くみんなを家に送ってあげて』

先輩は、歯を食いしばるようにして言った。苦しそうな息遣いをしていた。

私の母親が来た。先輩と由香里先生が救急車に乗り込み、私たちは家に帰った。

左足の脛と足首の複雑骨折で手術。二か月の入院だった、

それから先輩は、歩く時に左肩が下がるようになってしまった。

Aちゃん一家は、それだけが原因かどうかはわからないが、引っ越してしまった。

『ねぇ、カオリちゃんみたいになった子は、身体障害者、というの?』

ある夜、母が父に聞くのを耳にしてしまった。『障害者』。

母は、なんて無神経なんだろう。

私は遠くから母をにらみつけた。父の言葉を祈るように待った。

『いやぁ。ああいうのは、結局、自己申告だからねぇ。あの子と障害者という言葉は、結びつかないよ』

父は言った。

私はふーっと、ため息をついた。

あの子と障害者は結びつかない・・・。

父の言うとおりだった。事故によってできたほんの数センチの左右対称の狂いなど、先輩にはなんの障害ではなかった。

先輩の運動能力は衰えるどころか、ますます磨きがかかった。少し癖のある走り方をするくらいにしか見えなくて、それが新たな先輩の魅力にすら映った。私は独りの時、ひそかに先輩の歩き方を真似してみたものだ。

いつもリレーの選手のアンカーとしてゴールテープを切っていたし、市や都の代表として大きな大会にも出ていたのだった。

・・・あの時。

私はあの時の先輩の顔が、忘れられない。激しい痛みなのに、平気な顔をして、土下座をする母親に、憐みと笑顔を向けた人・・・。まだ小学校六年生だったというのに。

『本当に尊敬して、そして憧れていました。そんな風にお育てになられた先生も、ご尊敬申し上げております・・・』

私がそう言うと、先生は静かに泣いた。

『悪魔に・・・、さらわれた・・・』

父親が、ぼそっと言った。

金があり、力があり、愛がどんなに深くとも、もう二度と会えない領域へと、さらわれてしまう・・・。

私は一気に感情が高まった。それを今、上から下へと滝のように落とそうとした、その時だった。

『ばあば』

という声がした。

『ここは寒いから、あっちおいでよ。お茶が入っているよ』

先輩の夫だった。

私は感情のあふれた大きな樽を、再びこぼれないようにもとに戻した。


リビングに通してもらい、私はまだ同じことを言いたい気持ちでいた。

『人間性がすごく立派な、みんなの憧れの先輩でした』

私は自分の語彙のなさにがっかりしつつ、同じことを言い続けた。

先生は、ふっと笑って、

『ありがとうね』

と絞り出すように言った。

さっきまでいた、先輩の棺が置かれた和室にあった非日常はこのリビングにはなかった。どこかのんびりとした空気が漂っていた。

妻を亡くした夫、母親を亡くした息子、男二人が同じような穏やかそうな笑みをたたえて、お茶を飲んでいた。先輩のお父さんがソファに深く座って、何かを考えて、自分を納得させるように小さくうなづいている。

天井から長く下がるイギリス風の紺色のカーテンが、すごく高級そうだった。だけど、カーペットと布製のソファがやけにくたびれていた。

私はさっさと帰らなくては、という思いと、こんなこともう二度と伝えられないからと、先輩にかつて、どれほどお世話になったか、どれほど走る姿が素敵だったか、どれほどこの世にいて欲しかったか、を語った。

『聞いたことなかったな』

『意外』

夫と息子が言った。

私は耳を疑った。

私がもしも、先輩くらいの能力を持っていたら、夫と息子にどんなに自慢をしただろうか。

穏やかな口調だった。

買い物に行っていて、すぐに戻るけど、今は不在の人のことを話しているみたいに。

夫と息子に私は言いたかった。

『その高級そうなカーテンを、引き裂くくらいの奇行に走ってよ』

カオリ先輩、言わなかったんですか。あなたがどんなに人々に尊敬され、愛されていたリーダーだったかを!

足が速かったか。頭が良かったか。いつもリレーの選手で応援団長で、みんなの憧れのバレークラブのキャプテンだった・・・。その裏で、『あの時』があったということ・・・。

『意外』だなんて・・・。

私の知る先輩が『意外』というのなら、先輩はこの家で、どんな姿を見せていたというのだろう。

『あなたは本当に素晴らしい女性だった。ありがとう』

私はもう一度、棺に手を合わせた。


葬儀の日。

華麗なる一族の人として、先輩は多くの人に見送られていた。

憔悴しきった顔ではあったが、由香里先生は一人一人に丁寧に頭を下げ続けていた。

こうして遠くから眺めれば、先日会った息子は先輩に良く似ていた。何度も頭を下げる。

この間リビングで見た時とは印象が違う。立派で、そして穏やかそうな、まるで先輩みたいな好青年じゃないか。

結婚をしたら、きっと、先輩にそっくりな娘が生まれて、その娘さんがとても利発で、みんなの憧れの存在になって、その娘さんもまた、命を繋いで行く・・・のかな・・・。

由香里先生には先輩の下に二人の息子がいて、それぞれのお嫁さん、孫が、ひ孫の姿があった。良く見ると、その中に、カオリ先輩に瓜二つのお嬢さんがいた。まるで先輩が若くなって戻ってきたようだった。先輩の姪御さんだろう。

まるでクローンだ。

そうか・・・。

こんなに家族が増えていたのだ。

そうか・・・。

私は由香里先生たち家族が社会性を維持している理由がわかった。

焼香の番が回ってきた。先輩の写真を見た。身体が震えて、涙があふれた。


外に出ると、もうかなり暗くなっていた。

うつむきがちに歩きつつ、ちらちらと列の中に知り合いを探した。

何人かに会釈をした。

『ユリ』

小さな声で呼ばれた。

見ると、中野フェローズの仲間、ミッコと喜代美ちゃんがいた。ミッコはカナダ在住、喜代美ちゃんは九州に嫁いでいたため、私からは連絡をしていなかった。

『ああ、来てくれたの』

私は社会性を維持していない大声で言った。

『大変なことが起きちゃったね!』

喜代美ちゃんが泣きながら言った。

人々が振り返っているのがわかったが、止まらなかった。

二人は列を離れ、後ろの人が前へと詰めた。

私たちは三人で、手を握り合った。そして自然に抱き合い、わーわーと泣いた。

ミッコと喜代美ちゃんの、滝の様な悲しみが押し寄せてくる。

円陣を組んでいるみたいな体勢になってきた。

その時だった。外側からふわっと何か、暖かなものが覆いかぶさってきたような気がした。

『悲しまないで。あたし、今、自由になったの』

先輩が私たち三人を、抱きしめてくれた。

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