第11話 僕のキティ

銀行を定年退職してから二十年以上の間、僕は大学に通ったりしながら考古学に取り組んできた。妻が亡くなった時のさみしさも、学問がもたらす神秘な感覚が癒してくれた。

僕がもっとも愛するのは、山形県で発掘された、『縄文のビーナス』だった。あのなんともいえない憂鬱な風情は、美しく生まれたことへの憂鬱なのだ。腹がふくらみかけた八頭身の姿。君を妊娠させた男は誰なのか。そう問いかけると、ビーナスは言う。

『わからない。あたしを好きな男は、行列していたのよ』


そんな縄文のビーナスの生まれ変わりに、僕は出会った。

できることなら、僕は君を隠したかった。

君をみんなに見せたくない。

SPに取り囲んでもらって、ベニヤ板などで、姿が見えないようにしてほしかった。君はビーナスそのものだった。

制服を、着ていたけれど僕の眼には、真裸で立っているよりも、他人に見せたくない姿だった。

いつもの交差点。桜が散り始めていた。キティはJKになっていた。

とびきり初々しく、薔薇のつぼみのようだった。なんてきれいな脚をしているのだろう。

細すぎず、太すぎず、長すぎず、短すぎず、膝も曲がっていなくて、相変わらず歩き方もきれいだ。でもどうだろう、感心しないな。スカートの丈が、短かすぎるだろう。あと五センチ、いや、十センチ、下ろしなさい。坂道を歩く時、それじゃ太ももの後ろとか、お尻が丸見えになってしまう。君は自分の太ももの裏とか、お尻なんて見えたっていい、別に体育着みたいな黒いスパッツを履いてますから、見たければどうぞ、なんて思っているかもしれない。でもね、君のその脚は、君にとってはなんの変哲もない脚かもしれない。学校に行ったり、坂道を下ったり、登ったりする体の一部なのかもしれない。しかしね、ある人によってそれは、何十億もの価値がある金塊にも相当する、喉から手が出るほど欲しいものなんだよ。要するに、他人に簡単に見せてはいけないものなのだ。

キティがまだ、小学生だった時、黄色い帽子と、黄色いカバーのかかったランドセルを背負ってその横断歩道を渡り始めた。

『なんて愛らしいんだろう』

君はとにもかくにも、愛らしかった。ちょっと猫背で、うつむきがちで、そのまま上目づかいで前を見る顔が、子猫みたいで、僕は君にキティというあだ名をつけた。いいね、キティ、気をつけるんだよ。歩行者の信号がたとえ青でも車の信号も青になっているからね、

『私は渡ります』という顔で、運転者にアピールしないといけないよ。ひかれてしまったら、大変だ。いいね、そうそう、手をあげて、自転車などにぶつからないように注意して、渡るんだぞ、キティ。

キティは毎日僕の言いつけを守って、学校に通った。二年生になり、三年生になり・・・、そして、卒業して、中学生になった。制服がぶかぶかしていた。弁当を持って、部活も始まった。テニス部か・・・。君ほどラケットを持っている姿が似合う女の子がこの世にいるだろうか。君はどちらかといえば、クラリネットなんか持っていそうな女の子だ。汗をかいたり、泥だらけになったりするのを、嫌がりそうな女の子に見える。だげど、テニスの練習を見せてもらった時には、おどろいたよ。肩までの髪をキュッとひとつに結んで、普段とのギャップのあるきびきびとした姿に、ますます君の虜になってしまった。そんな時でも、君は長いジャージを履いていたし、脚なんか見たこともなかったんだ。小学生が恥ずかしそうに制服を着ているという雰囲気がなくなって、君はだんだん少女になっていった。清らかで、友達に優しく笑う、生まれたてのレンゲソウみたいな少女だった。この時期が、うん、僕にとっての最高の時間だったかな。君はいつも歩くペースを変えない。君がバタバタ走ったり、あわてているようなところなんか見たこともないだ。君はいつでも同じペースで歩いていた。一歩一歩を踏みしめるように、相変わらずのうつむき加減で歩くのだった。そんな君の歩き方が、変わっていった時がある。部活の引退後だ。君は、受験生になって、運動から遠ざかり、勉強をたくさんしなくてはならなくなったんだよね。君の歩き方は前よりもゆっくりになっていた。疲れているのかい?眠いのかい?僕は、いてもたってもいられなかった。君がどのあたりの高校を目指しているのか知らない。だけど、これだけは言わせてもらいたかった。

『無理をするな』

だけど、君のすごいところは、容姿が乱れないところだった。とても眠そうだったのにもかかわらず、肩までの髪をきれいにとかして、その髪はいつも太陽を浴びて、風を受けてそよいでいた。

君がまさか僕の後輩になるとは、驚きだった。昔と変わらない、母校の制服を見た時、僕は涙があふれた。運命なんだ、と。

その時、僕は決めた。

『キティをお嫁さんに迎える』

少し年は離れているけれど、君みたいな生まれながらに愛らしすぎる女の子は、『姫』として生きなくてはならないのだ。洗濯をしたり、掃除をしたり、ご飯を作ったりなどという雑事をすることなく、自分をきれいに保つことと、テニスや、学問など、人生を謳歌するべきだと考えている。そのために僕は、今まで蓄えてきた数十億の金を、みんな君を喜ばせるために使う。

君が高校を卒業する時に、プロポーズしよう。学問は、なにも大学に行ってしなくてもいい。僕が、つてを頼って、全世界の教授を家に呼んであげるよ。いいね、キティ・・・。

僕が今までうがい一回分の水道料金を節約してまで金を貯めてきたのは、君を愛するためだったのだ。なんなら僕は、一生、君に触れなくてもいい。ああそうさ。君は神なのだ。君を世の『女性』と同じ存在だとは、とても思えないのだ。君を、生涯、けがしたくない。君は君のまま、剥製にしたいくらいなのだ・・・。

そんなキティに、彼氏ができた。キティは高校生になって、テニスを辞めてしまった。毎日少年と一緒に帰ってくるようになった。キティの家に行くのだろうが、女の家に上がりこんで、一体、貴様は何をする気だ。僕はそう怒鳴りつけてやりたかった。しかし、耐えていた。キティ姫にだって、淡い青春の思い出があってもいい。そのうちにずっと、僕の城で暮らすのだから・・・。

交差点の桜の樹に、大きな葉が茂るころになると、二人は手をつないで歩くようになった。二人は、見ているだけで、レモンの香りがしてきそうだった。彼氏と手をつなぐキティ、それはそれでとても良いものだ、と僕は大人の寛大さでそれを祝福した。

そうだよな、愛されないはずがないじゃないか。君のような、生まれながらに愛らしい妖精か神様みたいな女の子だもの、そうだな、そんな笑顔がさわやかな、少年を好きになったのだ・・・。

苦しかった。恋の病だった。少年とキティが二人きりで何をしているのかと思うと、身体中が痛かった。悲しかった。

キティは、あのかわいらしかったキティは、

この世から永遠に去ってしまうのかと思うと、僕は本気で剥製の件を考えた。キティは本来、十三歳の時が、もっとも清らかで剥製にしたかったが、成長を見たかったのもあるから、仕方がない。せめて今、成長を止めてしまおうか。あんな若いまだ子供みたいな男に踏み荒らされるくらいなら、いやまてよ。あの少年も清らかさから言えば同じだろう。キティがもしも、青春の思い出を作るとしたら、あの清らかな少年がふさわしいのではなかろうか。欲にまみれた汚い大人の男などに、決して触れられてはならぬ、キティよ!

僕は剥製にしたいという思いとは裏腹に、キティの成長を、変化を見たいという思いが強くあり、とうとう少年との交際を心の中で認めるまでになってしまった。

なによりも、あのうつむきがちだった少女が、あんなに楽しそうに笑うのを、初めて見たのだ。恋というものは、良いものだな・・・。

キティ、楽しいか。楽しみなさい。今、君は青春の真っ盛りだ。

桜の樹が葉を全部落とす頃、もう、若い二人からはレモンの香りがしなくなった。少年は坂道で、キティの太ももの裏や、尻に平気で触るようになった。キティはといえば、寒いからなのか少年に抱きつくようにして、歩くようになっていた。ゆゆしき問題だった。淡い青春の思い出は作りなさい、と言ったけれど、男女関係を覚えよ、などとゆるしたつもりは、毛頭ない。僕は、焦った。少し寛大過ぎたかもしれない。キティに忠告しようと思った。何度も、彼女に言いたかった。しかし、何と言っていいのか、わからなかった。

高校を辞めて、うちに来なさい、と言うのか、あるいは、二人とも仕事をしていて、毎晩帰りが遅くなるキティの両親に、

『家にいて、キティをよく見てあげなさい』とか言おうと思ったが、それも唐突過ぎておかしいかもしれない、と思った。

事件が起きたのは、クリスマスイブの夜だった。


夕方のニュースが、殺人事件を伝えていた。

一人の少年が背中を刺されて死亡した。そばにいた女子高校生、田中あおいさん十七歳は、犯人に連れ去られそうになったところを、自力で逃げた。犯人は近所に住む八十三歳の男。

『あおいさんが小さい時からずっと好きだった。あおいさんの交際相手の少年が許せなかった』と供述した・・・。

僕は、テレビを見つめた。まるで、もう一人の僕だった。同じ年齢、同じ髪の色、そして同じ女の子に恋をした。

『田中・・・、あおい・・・』

あおいさんって、言うんだ。

キティは、田中、あおいさんというのだ・・・。

僕は、名前を何度も呼んだ。

うん、そうだな。田中さん。そうだな、あおいちゃん。そんな顔だった。黄色い帽子を被って、社会に飛び出したあの日から、君は、光を放っていた。

容疑者は、ただの哀れな老人だった。抵抗するキティ・・・、いや、あおいさんに突き飛ばされて、腰を骨折したという。車いすにジャンパーをかけられて、搬送されていく映像を、僕は食い入るように見た。

「キティ・・・、いや、あおいさんは、運動神経が良い子なんだよ」

僕は、彼女が心配になった。目の前で彼氏を殺害されるとは、心にどれほどの傷を負うことだろうか・・・。

ただ、他人よりも愛らしく生まれたがために・・・。ただ、自然に咲いていただけだというのに・・・。美しく生まれつくことの罪。

まさに、縄文のビーナスそのものだ。

あおいさんは、この先こうして、何人もの男を犠牲にしていくことになるかもしれない。

いや、なるだろう。

一人の老人が狂人となり、一人の未来ある少年が死んだ。

僕は改めて、決心した。

彼女を護ろう。

護らなくてはならない。


「一体何を考えているの」

一人娘のサトコがやってきて、悲しそうに僕に聞いた。

普段、仕事が忙しくて、近くを通っても寄りもしないくせに。

「どうしてこんな色にしたの」

サトコは外壁をピンク色にしたことが気に入らないらしい。

「壁紙までピンクにしちゃって、ここはシンデレラの家か何か?」

そうさ。

僕はあの子に指一本触れないままに、この家で護り育てるのだ。

僕は、明日、あおいさんにプロポーズをする。

駅前のデパートで、百万円の指輪を買った。

こう言うんだ。

『あおいさん、アーユーメリーミー?』

「ねぇ、パパ。ひとつ聞いても良い?」

サトコが言った。

現代によみがえった縄文のビーナスに求婚するというのに。ああ、うるさい。

「ねぇ、パパ、今日は、何月何日何曜日?」

サトコが僕の顔を覗き込む。

「お前は親に向かって何を言うか。今、大事な交渉について考えていたのだ」

「百マイナス七は?」

「なんだと!」

知っているさ。そんなもの。僕を誰だと思っているのか。

「ここはどこですか?」

この娘は!

僕を侮辱しているのか!

知っている。知っていたんだ。わかっていた。

そんなこと、わかっているさ。

「パパ、やっぱりわからないの?」

サトコは唇をかみしめている。

「何を言うのか。僕は今、美と罪の考証と美の保全について考えていたところだったのだよ」

「じゃあ、今日、何日?何曜日?」

ああなんて、醜いのだろう。

当たり前の、ありきたりの不安と不満に塗り込められた世界の者よ。

「そんな質問には、絶対に答えたくない」

僕は呻いた。

「パパ、病院いこう」

サトコは誰か、どこかの医師が考えだした常識に則って僕を闇の世界に葬ろうとしているらしい。

そうはいかぬぞ。

僕はここで、キティと、いや、あおいさんと暮らすのだから。

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