第9話 あたしの旦那さん

あたしは、小さなおばあさん。

長女夫婦と同居してる。

『ほんとうにありがとうね』

それが口癖。

こんなに便利な言葉はない。

これだけ言ってりゃ、全部済む。丸く収まる。

あたしの願いはただひとつ。他のことは、もう、どうでも良い。

早くあの世に行きたい。

したことがあるんでね、あの世で。

旦那の頭を斧で真っ二つに割ってやりたいんだ。

あたしは、斧を持って、あの世に行く。

人生ってさ、気付いたら終いのほうまできているんだよね。

私はこの年になって、まさか旦那に裏切られるなんて、思いもしなかったよ。

葬式の前日に、旦那のカバンからホテルのポイントカードとバイアグラの薬が出てきた。

人生って、どこで何があるかわからない。

あたしはね、油断してこなかったつもりさ。

 なのに、死んでから私をこんなに苦しめるなんて、神様、ひどいじゃないか。

あたしは町中の笑いものさ。

みんながあたしを笑っているさ。

今まで楽をしてきたしっぺ返しだって。

友達が、ホストクラブに連れて行ってくれた。

若い男があたしを抱いてくれた。

孫みたいな子に、身体をなめられて・・・。

夢みたいな、地獄みたいな時間が過ぎて、あたしは死にたくなったよ。罪悪感でさ。

持っていた一千万円、みんなその子にあげちゃった。せいせいしたよ。

孫みたいな男の子は、これで、借金を全部返せます。

あなたは神様です、これから、一生あなたの言うことを何でもしますって。

もう二度と行かないことを、わかってて言ったんだろうけど。

楽しくなかったよ。

何一つ楽しくない。

楽しいフリをすることもできなかった。

あたしっていう人間は、結局、この七十年間、何をしてきたんだろう。


うちの旦那はさ、本当にいい男だったんだよ。

あんな若い男を見ても、うちの旦那の方がかっこいいって思っちゃった。

気風が良くて、大きな人だった。あたしは旦那に尽くしてきたよ。

なのに、あたしを裏切っていた。

ホテルにバイアグラだ。

相手はいったい誰なんだ。

あたしは相手がわかり次第、殺そうと思っている。

飲ませる農薬なら、買ってある。

今度は友達が占いの先生のところに連れて行ってくれた。

先生はこう言った。

『人生は、生命は絶対に平等だ。

何十億年も停まることなく地球が回り続けていることを思えば、

人間の人生も正確にできている。

絶対に、あなたは報われる。

のうのうと人を裏切って、平気な顔をしている女には、正確な反応が絶対にある。ないということは、絶対にない。

あなたは自分の幸せを考えなさい』

私の幸せだって?

旦那に尽くすことだけが幸せだったのに、もう、何もないんだ。

お父さん、死んでから、こんなに人を苦しめるだなんて

どういうつもり?

仏壇に向かって話しかけていると、

友達がやってきた。

今度は病院に行こうと言う。

心が落ち着くホテルみたいな病院だって。

話を何でも聞いてもらえるって。

ありがたいよ。

次々にあたしを連れ出してくれて・・・。

あたしは札束をカバンに詰めながら、友達の親切心に泣けてきた。

あの人は、友達という間柄にも関わらず、過分なお香典を旦那に包んでくれた。

本当に口だけじゃない、良い人だ・・・。

「ほんとうにありがとね」

あたしは玄関の外で待っていてくれた友達に改めて礼を言った。

「ほんとうにありがとうね」

あたしは二回言った。

「ううん、もう、そんなことない」

その一瞬だった。

あたしのありがとう、をもう聞きたくない、そんな顔をした。

一瞬の眼の色が、敵だった。

あたしはひとつの真実を悟った。

この女だ。

旦那が抱いたのは、この女なんだ。

あたしは、忘れ物を取りに行くと言って部屋に戻ると、農薬の入った小瓶をかばんに入れた。

あたしは体の中で何かが燃え始めたのを感じていた。

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