第7話 わたしはカラス
六回(異常なし)
二回(了解)
三回(順調)
九回(悪さをしている!緊急事態発生!)
見えない空気の中を、色んな言葉が飛び交い、伝え合っているのを、その女は聞いていた。おびただしい報告を、コンピュータのような存在が、正確に分類していく。最低でも、一日に一度の報告をしなければならない。しかし、いつでも伝えるべき言葉は同じだった。
一、二、三、(順調)
一、二、三・・・。
この言葉に以外になかったのだ。あの日が来るまでは・・・。
深い集中から現実に引き戻したのは、玄関のドアが開く音だった。
いつものように何の挨拶もなく、美香の夫の兄、トラオが入ってきた。夫の妹のタマキ、そして、もう三十年間も町会長をしている矢部という男も一緒だった。
「いったいどうなっているんだよ」
「辰男兄ちゃん、あのまま仏様になっちゃう」
「こんな猛暑だっていうのに殺す気かい」
三人は口々に言った。
「あらぁ、こんにちは」
美香は玄関横のアトリエで、夫のズボンのサイズ直しを始めたところだった。ハサミを置いて玄関に行き、床に手をついて頭を下げた。そんな美香をまたぐようにして、三人は居間のソファにどっかりと座るなり、「暑い、暑い」と言った。
トラオは扇子で顔をあおぎながら、
「あらぁ、じゃないよ、あんた」といつもに増して不機嫌な顔をしていた。
「いやだ美香さん、暑くないの?クーラーつけるわよ」
タマキがエアコンを入れて、窓を閉めた。
「ありがとうこざいまぁーす、うふふふ」
美香は冷蔵庫を開けて、冷たい麦茶が入ったポットを出した。夏用のガラスの茶器を出した。
「兄さんのズボンの直しているの?」
タマキは、アトリエと居間の間の引き戸を閉めながら言った。
「はい」
「やっぱりね」
タマキは、しんみりと言った。
ミシン二台、アイロン台、作業台、そして家庭用の機織り機、アトリエにあるものは、ほとんどタマキから美香に譲られたものだ。義妹といっても美香より十二歳も年上で、姉や母親のような存在である。美大のデザイン科で学んだタマキは、洋裁、和裁、絹や毛織物など何でもできて、自宅で近所の主婦向けに裁縫教室を開いている。タマキが作る洋服は、とても着心地が良く、花柄のものが多いのが特徴だ。今タマキが着ているのも、ヒマワリ柄のブラウスで、美香にも同じものをプレゼントしてくれた。
美香が麦茶を出すと、三人はすぐに飲み始めた。八月に入って最初の月曜日、蝉たちは声の限りに鳴き、庭のサルスベリは熱風に身をくねらせている。
「町会長が天国山の畑に誰かがいるっていうから、見に行ったら辰男じゃないか。昨日退院したばかりで、今日からもう働かせるって、美香さん、あんたどういうつもりだ」
トラオは麦茶を一気に飲み干して言った。
「そうなんですよねぇ、うふふふ」
美香は困った顔をした。
「うふふふ、じゃないんだよ」
トラオは怒鳴った。
「しょうがないでしょう、この人は何か言うたびに、必ずうふふ、がくっついてくるんだから」
タマキが言うと、町会長の矢部が笑った。
美香の夫、辰男は胃の大手術をして、昨日退院したばかりだった。病院にいるときには、大手術をしたとは思えないくらい、元気に見えたが、家に帰ってくると、まるでとても弱って見えた。青白い顔と、血の気のないくちびる、計ってはいないが、五キロ以上は痩せたように思えた。もともとやせ型の身体は、骨と皮のようになった。
本当ならまだ、一週間や二週間は、いてもらわないといけないと主治医が言うのに、『仕事が・・・』とか、『畑が・・・』などと、毎日異常なくらい主治医に訴えて、とうとう退院してしまった。
辰男の勤務する市役所の福祉課は、とても忙しい部署で、入院の前日まで毎日のように残業をしていた。しかし本当に、退院した翌日から仕事に出るとは、美香は思っていなかった。
病院から帰ってくると、ゆっくりと座る間もなくクローゼットからスーツを出し、ワイシャツをクリーニング屋のビニール袋から出してハンガーにかけ、ネクタイを選んでくれ、と美香に言った。美香は辰男の有無を言わせない態度に圧されて、ピンク色の涼しげなものを選んだ。辰男は玄関にうずくまっていつまでも靴を磨いていた。
「申し訳ないけど・・・」
辰男は夜になって、美香にひとつの紙袋を渡した。
「明日、可燃ごみだよね。これを棄てておいてほしいんだ」
見ると、洗濯を終えてタンスにしまっておいた、病院で着たパジャマが二組入っていた。
「棄てちゃうのね?」
美香が聞いた。
「ああ、棄てちゃう」
辰男は優しく笑った。
夕飯は病院で教わった通りの食事を支度した。白粥と豆腐のスープだった。
「家の飯はいいな」
辰男は喜んで食べた。
美香は夕飯の後で、ハート型のクッキーを焼いた。ひとつひとつを透明の袋に入れて、マリンブルーのリボンをかけた。リボンのひとつひとつに、白いペンで、『ただいま』と書いた。
朝、辰男のワイシャツの首回りがゆるくなっているのに美香はあらためて驚かされた。首も、半袖からのぞく腕も、誰かが肉を食べてしまったようだった。ズボンの腰周りはぶかぶかで、それをベルトで締めているので、皺が寄っていた。美香はメジャーを出してきて、辰男のウエストを計った。
「大丈夫だよ。すぐに体重が戻るから」
と言った。
「そうよねぇ」
美香はうなづいて、手織りの紺色のカーディガンを出した。
「いいよ、暑いから・・・」
「これはね、絹だから涼しいの。ズボンは少しサイズ直しをしておくね。今日は、これで大丈夫よ」
カーディガンは細くなり過ぎた腕と、しわくちゃになった腰周りを隠すのに役立った。
美香はクッキーが五十枚ほど入った袋を、辰男に渡した。
「みんなで食べてね」
「ありがとう、きっとみんなよろこぶよ」
辰男は微笑んだ。
「仕事がたまっているから、少し遅くなると思う」
「はい。いってらっしゃい」
「いってきます」
辰男は左腕をちょっと曲げて、時計を見た。玄関を出ると、左から太陽が差してきて、辰男は眩しそうに眼を細めた。
なにもかもが、入院前と同じだった。美香はなつかしかった。辰男は順調に回復していくと信じていた。
ところが、辰男は昼前には家に戻ってきた。
「ただいま」
か細い辰男の声に玄関に出てみると、靴も脱がないで座り込んでしまった。小さくなってしまった辰男の背中が見えた。
「男が病気になると、もうおしまいだな」。
辰男は何度もため息をついた。少し息苦しそうでもあった。クッキーの入った紙袋は、中身がそのままだった。
「これさ、そういう雰囲気じゃなくて・・・、ごめん」
辰男はクッキーを取り出して、しみじみ眺めた。
「・・・ありがとう」
くすりと笑って、リボンをほどくと、クッキーを口に放りこんだ。
「そんなの、まだ食べたらだめよ・・・」
「いいんだよ。おお、うまい・・・ははは」
辰男は力なく笑った。
美香は温かい緑茶を入れた。茶を飲むと、辰男はぽつりぽつりと話し始めた。担当していた業務は、後輩がすっかり取り仕切るようになっていて、様子がわからずに手が出せなかった。しかし相変わらず部署は、早回しのビデオみたいにとても忙しそうで、眉間にしわを寄せて仕事をしていた。その中で、辰男は透明人間にでもなったように、誰にも相手にされなかった。もっとも辰男を傷つけたのは、同期入社の部長だった。
「なんだ、おまえ、香典を用意しておいたのに」と、強く背中を叩いたり、
「そんなに痩せて、ゾンビかよ」などの発言を繰り返した。辰男はめまいと、吐き気をもよおしてしまい、帰ってきたのだった。
「どうしてそんなことを言われなくちゃならないの!」
美香は辰男が飛び上がるくらいの、大声で言った。
「なんでなの、なぁにその人は」
美香はふくらみがみなぎる胸を上下させた。
「切れる男だよ。市長に、って推されるくらいのやつだ」
辰男は静かに言った。
美香は、辰男につられてクッキーを食べた。味はまったくわからなかった。砂を噛んでいるようだった。
「ひどい」
リボンに書かれた『ただいま』の文字がむなしくて、美香は自分を恥じた。
『わー、ひさしぶりっ、辰男さんが来た!』
『よぉ、待ってたぞ、元気になったか』
美香はそんな場面を想像していた。体調を崩して長く休んでいた人が来たら、そこには笑顔と歓声が生まれるものだと思っていた。
少なくとも美香が昔、働いていた時代の職場はそんな風だった。「どこまでしらけきった人たちなの」
今朝の誇らしげな顔を思い出すと、辰男が哀れだった。
そして、美香は辰男の意識を職場から逸らそうとして、
「あ、そうそう、弓香がね、スイカが食べたいって言ってたわ」と、嘘をついた。一人娘の弓香は、地方の大学に通っている。幼い時まではパパ、パパと慕っていたが、血のつながりがないせいなのか、思春期になると口をきかなくなり、美香を通しての会話しかしなくなっていた。辰男は『弓香』という言葉に、一瞬、野生動物のように反応して、
「おおそうだ、スイカだ」と立ち上がった。辰男が着替える間、美香は、ポリタンクに水を入れて一輪車に載せた。
「美香は家にいていいよ」
「今日だけは、私も手伝わせて」
辰男はゆっくりと首を振った。
「ありがとう。一人で大丈夫だよ」と言った。
それから二時間ほど経つ。
義兄たちには、仕事に行ったことなど、とても話せないと、美香は思った。義兄や義妹に叱られるのは慣れているが、できれば叱られたくない。
「辰男兄ちゃん、弓香ちゃんにスイカを送ってやるんだ、なんて言っていたけれど、一人暮らしの女子大生が大きなスイカなんか送られても、困るんじゃないの」
義妹の言葉に、確かにそうかもしれない、と思った。
「あははは・・・」
「あははは、じゃないんだよ、美香さん。あんた、叱られてるんだよ」
町会長が言いました。
「はいっ」
「この人は昔からまったく空気が読めないの」
義妹は、かばっているのか、馬鹿にしているのかわからない顔をした。
「とにかく、辰男はあんたの言うことしか聞かないんだから、早く連れ戻してくれよ。あんなにガリガリの身体になってまで畑に出てたら、近所の笑い物だよ」
クーラーが効きはじめて、暑さと喉の渇きが癒えたのか、義兄は少し落ち着いてきた。
*****
主人と私は、弓香が三歳の時に結婚しました。当時私はシングルマザーで、銀座のクラブのホステスをしていました。お喋りが大好きで、歌ったり踊ったりすることが得意な私には、とても向いている仕事で、客やスタッフから人気がありました。しかし、ひとつだけ欠点がありました。それは、夜の九時を過ぎると眠くなってしまうということでした。それでも、濃いコーヒーを飲んだりしながら、がんばっていました。
そんな時、主人がお客さんとしてクラブに現れました。最初は暗いおじさんという印象でした。今四十歳で、公務員の傍ら朝早く起きて、畑仕事をしているということ。畑を荒らす、嫌われ者のカラスが、実は好きだということなど、面白い話をたくさん聞かせてくれました。私はおもわず、店ではタブーになっていた、娘の話をしました。初めての子育てなのに、けっこう上手くいっていること、三歳の娘といると、自分も子どもから人生をやり直しているみたいに楽しくて、面白いと感じていることなどを、夢中で話しました。『君はかわいいね』『君はえらいね』と、いつも穏やかな笑顔で、私の頭をそっと撫でてくれました。主人に話すことで、私は自分の考えていることを、初めて知った気がしました。
九時を過ぎると眠くなってしまうことを白状すると、毎日来てくれて、君は何も話さなくていいよ、と言いつつたくさんのお金を使ってくれました。半年ほど過ぎたある日、『あなたと娘さんの生活の面倒は、僕に見させてほしい。僕と早寝早起きの生活をしましょう』とプロポーズしてくれました。
義兄と義妹は、私たちの結婚に大反対でした。
『十五歳下の水商売女なんて、財産目当てに決まっている』
『辰男兄ちゃんが保険金殺人をされないように気をつけないと』などと、面白いことを言うので、冗談なのかと思って笑ってしまいました。すると、『常識がない』『空気が読めない』と怒られました。あれから十六年の歳月が流れましたが、私はまだ、主人の親戚に叱られてばかりです。
ふと見ると、道路を挟んで向いにある義兄の家の門の上に、カラスが止まっていました。私が見ると、「カァカァカァカァカァカァ」と六回鳴きました。それが、三回ほど続きました。すると、どこか遠いところにいるカラスが「カァカァカァカァカァ」と五回鳴くのでした。それも三回続きました。
「まったくここのところ、カラスが多い。鳴き方がおかしいし、不気味だ。誰か死ぬのかな」
義兄がいらだった口調で言うと、
「あら、カラスなんかそんなこと、何も考えちゃいないわよ、こっちに生ごみがあるよ、なんていうことを話し合っているんじゃないの。単純な生き物なんだから。ね、美香さん」
義妹は私に言いました。
「わかんないです、私・・・」
「わかんないです、じゃないわよねぇ、会長さん」
「ああ・・・、あんたがカラスに餌をやっているのを見た人がいてね。それが原因で最近カラスが増えたのではないかって、町内会で噂が立っていてね、俺も困ってるんだよ、町会長として・・・」
「餌なんかあげていませんよ」
私は答えました。
「でも、見た人が・・・」
「あげてません」
餌なんかあげていないのだから、そうとしか答えられません。
「サクランボのこともあるしなぁ」
義兄がまた過ぎたことを、言い始めました。
「ごめんなさい・・・」
私が頭を下げると、義妹は笑いながら、
「あなたが趣味でジョギングをするのは勝手だけど、道を走りなさいよ。山はだめなのよ。山は山でも、必ず誰か所有者がいるのよ。ましてやサクランボなんか、勝手に食べたらいけないの」
「もう、知ってますよ、うふふふ」
「知ってます、うふふふ、じゃなくて、ハイと言うのよ」
「ハイ、うふふふ」
「人の山や土地にただで住んで、なっているものを勝手に食っちまうのは、カラスとタヌキくらいなもんさ」
義兄はそう言って笑いました
「あのさ、ついでに言うけど」
義妹は言いました。
「タバコなんだけどさ、庭で吸えばいいというものじゃないのよ。煙が遠くまで届くのよ。うちの部屋まで入ってくるのよねぇ・・・、もうやめちゃいなさいよ」
「それは・・」
「今ね、煙の出ないタバコってあるのよ。それ試したらどう?」
「ハイ!いろいろと教えてくれて、ありがとうございます」
私が言うと、義妹は、
「イヤミな言い方ね」と怒ってしまいました。
しかし、これは本心です。怒るだけじゃなくてちゃんと教えてくれる義妹に、私は十六年間ずいぶんと助けてもらってきました。
「じゃあ町会長さん、こうしたらどう。この町内のあちこちに防犯カメラをつけたらいいじゃないの」
「うーん、カメラもなぁ、勝手につけられるものじゃないんだよ。モニターをどこにおいて誰が見ているのかとかなぁ・・・」
外でカラスがまた、ゲラゲラ笑っているみたいに鳴きました。
「天国山の畑によ、農協で買ったカラスの捕獲器をつけたのに、誰かが壊しちまった。どういうわけだ」
義兄が腕組みをして私を見ました。
「カラスがやったんだろ。あいつらは頭がいいし、力も強い。人間が作ったものを先に全部食っちまう」
「悪さばっかりして!あんな鳥なんか絶滅しちゃえばいいのよ」
町会長と義妹は、カラスを罵りました。
三人が帰ると、体からふーっと力が抜けました。
「まぁいいや」
私は元気を出すねために家の中を走り回りました。居間を出て、廊下を入り、和室が二間続く広い空間にでました。主人の入院中に替えておいた真っ青な畳が、イグサの香りを放っています。
私はそこをぐるぐると走り、時々ジャンプをしました。本当は外を思い切り走りたいけれど、トラブルの元です。家の中ならいつでも走れるし、歌を歌ったり、踊ったりもできます。
畑から戻ってきた主人の顔には、不思議なことに、健康的な赤みがさしていました。目にも光がともっていて、悲しかったことなんか吹き飛んでしまったように見えました。私は嬉しくて、思わず抱きついてしまいました。
「明日の朝、スイカを採ってくるよ」
主人は照れ臭そうに笑いました。
次の朝、四時に目が覚めると、主人はもう隣の布団にいませんでした。カラスが六回鳴いて、別のカラスが五回鳴きました。私も飛び起きました。一輪車に大きなスイカを載せて帰ってくる主人の笑顔が目に浮かびました。身支度をして、弓香に送るための段ボールを探しました。東の空の幕が開くように、新しい太陽が差してくる頃、すっかり朝食の準備も整いました。主人の足音と、一輪車が庭の玉砂利を鳴らしました。
「おかえりなさい」
私は飛び出していきました。
しかし、主人は、からっぽの一輪車を押していました。
「全部、誰かに、叩き割られた」
そう言って、痩せた身体を折りたたむようにして、玄関に座り込みました。
「・・・なんで?誰が?」
私は言葉が見つかりませんでした。主人がかわいそうになって、手で顔を覆って泣きました。
「わからない・・・、また作るよ・・・」
主人はくっくっくっくっと、泣きました。
その夜私は、カラスの声で目が覚めました。二回ずつ、小さく短く、私を呼んでいます。隣の布団を見ると、主人は規則正しいいびきをかいていました。真夜中十二時を少し過ぎたところです。
庭に出ました。月が、ふくらみ始めたパンみたいでした。
「カッカッ」
多摩地区のカラスをまとめるリーダー、カッちゃんでした。
「カッカッ」と鳴くと、私の手のひらにサイコロのようなものを吐き出しました。カッちゃんがつつきました。すると、ぱっと広がって、名刺サイズほどの有機ELテレビになりました。
そこには、天国山の様子が早回しで映っていました。日付は三月です。義兄の畑、町会長の畑、そして、主人の畑、それぞれに几帳面な畝が出来上がっています。四月になり、トマト、きゅうり、茄子、おくら、スイカなどの苗が、植えられています。義兄が大きな鳥かごのようなカラス捕獲器を設置しています。トマトが実り、赤くなります。胡瓜の花が咲き、実ができます。その時でした。一人の男が周囲をうかがいながら、義兄の畑に近づきました。そしてトマトを採っては投げ、また採っては足で踏みつけています。次に、スコップを振り上げて、カラス捕獲器を潰しました。
私は目を凝らして画面を見ました。そのうちに、スイカが大きくなってきました。ごろりと並んでいます。主人が退院した日になりました。主人らしき男が、スイカ畑に水をやっています。しゃがみ込んで、ひとつひとつのスイカに何かを語りかけるようにしていました。そして、日付が昨日に変わりました。カッちゃんは、テレビをつつき、映像をゆっくりにして、音声を出してくれました。
その男は、畑に着くなりスコップを振り上げて、スイカに向かって振り下ろしました。スイカは果肉をほとばしらせました。
「死ね!」
「死ね!」
「死ねええええ」
男はけだもののようなうなり声をあげて、スイカを叩き割っていました。スイカはまるで人の頭のようでした。真っ赤な脳みそが飛び散って、あたりが血まれになっているみたいでした。男は叩き割るだけでは飽き足らず、足でスイカを踏みつけにして、えへへへへへへへと笑っていました。
男はからっぽの一輪車を押して、家へと帰って行きました。そして、私に、
「全部、誰かに、叩き割られた」
そう言って、痩せた身体を折りたたむようにして、玄関に座り込みました。
「・・・なんで?誰が?」
私が、両手で顔を覆って、泣いています。
「わからない・・・、また作るよ・・・」
主人は私を見て、薄く笑っていました。くっくっくっくっと、泣いているのかと思った声は、笑っていた声だったのです。
カッちゃんは、私をつついて、かっかっかっかっと笑いました。
そして、テレビをつついてまた小さく折りたたむと、それを飲みこみました。
私は手話で、カッちゃんにこう聞きました。
「ねぇ、ランちゃんは・・・、どうしてる?」
「最近孫がどんどん増えるよ。バァバになってますます元気だ。多摩地区の雌カラスをまとめ上げてなぁ」
カッちゃんは手話ならぬ、羽話でそう答えました。
「うまくやっているんだね・・・」
私の目から、ふいに涙がこぼれました。
「戻りたいかぁ?」
「・・・」
「人間なんか、やめちまぇ」
「悪さばっかりして・・・」
「笑いもしない、踊りもしない、喜びもしないかぁ」
「・・・よく覚えているわね」
「おまえが人間になった時、一番びっくりしたのはその三つだって言ったろ」
「そうよ。本当はそうしたいのを隠してる。『好き』も『愛してる』も隠すのよ」
「なんでかぁ?好きと愛してるを隠して何が楽しいのかぁ」
「わからない。酒を飲んで変身する男もいるわ。辰男さんみたいにね」
「じゃあ、いつも酒を飲めばいいのになぁ」
カッちゃんは羽話と一緒に、カァカァカァと三回も鳴いてしまいました。
「しーっ・・酒は夜だけしか飲んではいけないのよ」
私がそう言うと、
「めんどうだなぁ」
とカッちゃんは言いました。
「人間になりたい奴は、たくさんいるんだぁ、神様にいつでも頼んでやるからぁ、戻ってこい。みんなで楽しく踊ろうかぁ」
「・・・戻らない」
私はまるで、人間みたいに頑固に言いました。
「どんどん陰気な女になるなぁ、おまえ」
「ほっといてよ」
カッちゃんはなれなれしく私の頭や肩に触れようとするので、私は「シッ」と鋭く叫びました。その代わりにカッちゃんが大好きなタバコを投げてやりました。「カァカァ」と喜んで、タバコを食べ始めました。
「俺たち、いつでもぜんぶ、見てるからぁ」
カッちゃんはそういうと、飛んで行きました。
(ランちゃん、バァバになったのか・・・)
私は人間になって十六年、今日は初めてカラスに戻りたいと思ってしまいました。カラスだった時代、私はランという名で、人間の美香ちゃんという若いシングルマザーの監視を担当していました。彼女はいつも死にたい、死にたい、と泣いていました。私は彼女の部屋のベランダで歌ったり、踊ったりして励ましました。すると、
「あんたがうらやましい。カラスになりたい」と言うのです。
毎日そう言われているうちに、私は私で、人間は命の危険がないこと、食べることに困らないことが本当にラクそうで、人間になってみたいと思うようになりました。そこで、神様に相談して、生命交換をしてもらうことになりました。
三歳だった弓香の母親になり、お城みたいな空間で、踊ったり歌ったりするという仕事を任されましたが、とても簡単なことでした。カラスとして神様の仕事の手伝いをする緊張感に比べたら、はるかに安全でラクでした。人間の怒りっぽいところや、いじめなども、人間につかまって殺される恐怖に比べたら、学芸会みたいなものでした。しかし、今日という今日は、ほとほと人間がいやになってしまいました。主人が何を考えているのかわかりません。主人は私を愛していないのでしょうか。私は主人を愛しています。毎日歌ったり、踊ったり、笑ったりしたいです。主人は何が不満なのでしょうか。私にはわかりません。やはり、限界なのでしょうか。どんなに私が人間の真似をしてみたところで、何かがおかしいのでしょうか。だけど、おかしくて結構です。私は愛することしかしていません。それでいいと思っています。愛すること以外、何もできないのです。
人間は私たちを害鳥と呼ぶけれど、そっちこそ、もっとも有害生物です。そのわけのわからない、複雑な思考回路は、生物として下等だと言わざるを得ません。人間はカラスよりも偉いと思っているようですが、私から言わせれば、あなたたちなんかなにひとつ面白くない、と言ってやりたいです。つまらないことしかしない、できない、それが人間です。酒の力を借りなければ求愛ひとつできない、酒が入らなければ、笑うことすらできないなんて、生きていて、悲しくないですか。私たちを見てください。私たちは生まれてから死ぬまでしらふです。生まれてから、死ぬまで、一円の金も持たずに
恋をして、子を産み育てたり、あるいは仲間と笑ったり、歌ったり、踊ったりします。その他のことは、何もしません。役目を終えた時には、空の果てまで行って、消えます。
主人はまだ、生きると思います。まだ、仏になどなりはしません。働いたり、病気になったり、医者に行って身体を切り刻まれたり、それでもまた働いたり、無視されたり、嘘をついたり、せっかくのスイカを殺したり、一体、なぜなのか、なにをしているのか。
手術をしてせっかく出勤してきた仲間に、冷たくしたり、背中を叩いたり、暴言を浴びせたりして、楽しいのでしょうか。そんな悪さをして、なんの得になるというのでしょう。
私はカラスとしての誇りを失わないで、このげに恐ろしき、人間という異常な生き物の監視を、人間の姿のままで、やっていこうと思います。
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