第3話 真っ赤なトマト

男は私の上で、自分勝手に踊る。

いつも思う。

こんなことをしていていいのかなって。

田舎では両親が、寒い部屋で、厚着をして、

暖房もつけないで、節約をしてくれて、

私に、一万でも二万でも、五千円でも多く渡そうって考えてくれている。

それなのに、私は今日も、好きでもない男に抱かれて、

自分の中にある何か、かけがえのないものを、ひとつずつ、またひとつずつ、失っていく。

「なぁ、腹減った。なんか作って」

男は狡い顔で言う。

「了解」

私はいかにも慣れている風を装って、田舎から送られてきた段ボールの中をのぞく。

胡瓜が腐っている。

茄子も腐っている。

これでも食えよ。

男に言ってやりたかった。

(父ちゃん、母ちゃん、ごめん・・・)


時々、考える。

生まれた町のことを。

海もなく、山といっても、枯れた松がおばけみたいに残っているだけの山々。

あとは、田んぼと畑と、農協と、生協と、素朴な味のマドレーヌを四十年間も売り続けているケーキ屋さん。

父は、自動車の部品工場に勤めながら、コメや野菜を作る。

父親を戦争で亡くして、中学しか出ていない。そして、大卒の若い上司に時々腹を立てて、飲むと私に

「大学は出とかにゃならん」

「なんとしても、東京で勉強せんとならん」

と言う。

父にとって、偏差値だとか、大学のランキングなど、どうでもいい。そんなものがあることは、知らないと思う

「わしが知っとるのは、東大と、早稲田と慶応のみっつじゃ」

東京の進学校の学生までが憧れるような、ふるさとの国立大学なんか、だめだと言う。

だから私が東京の私立大学のうちの一つに入ったことが自慢であり、自分がやりたくてもできなかったことを、実現してくれる存在として、満足してくれている。

私のために野菜を送り、五千円でも、千円でも入れてくれて、電話をすると、

「お前が東京で勉強しよって、幸せじゃ」

という。


私は今日も、好きでもない男とご飯を食べたりお酒を飲み、好きでもない男にこうして抱かれている。

抱かれる?

いや、違う。

捨てている。

男は欲望を捨て去り、私は何かかけがえのないものを、捨て去る。


父と母は何も知らない。

私が昔の通りのままだと信じている。

東京の街と人は、私を変えた。

私の中にあった、何かかけがえのないものは、どんどんむさぼられてしまった。

私はひもじくて、そこに、いろんなものを詰め込んでいった。


酒、たばこ、ジャンクフード、あるいは、ライター、ペットボトルのふた、コンドーム、マヨネーズ、靴下・・・、ありとあらゆるものを、飲み込んで行った。

東京ではそれがあたり前だから。

東京では、みんな、そうするから。

多少、まずくても、危険でも、食べなくてはならない。


故郷を出る時、真っ赤なトマトみたいだった頬は、青白く細り、星が入っているみたいだった目は、トンネルみたいに果てない闇に包まれた。

しかし、それは、『進化』だった。


都会では、バラ色の頬や、輝く瞳は、恥だ。


栄養満点の土から出てきたドロ付きや、虫食いの野菜は、疎まれる。

電車やバスで人に席を譲ったり、困っている人に手を貸してはならない。

相手のプライドが傷ついてしまうから。

見て見ないふりをしなくてはならない。

だから目をつむる。


幸せそうににこにこしていてはならない。

みんな苦しいのだから。

死にたそうな顔をしていてちょうどいい。

二年間で、そんなルールを学び、私は都会になじむことができた。

苦労もしたけれど、次第に勘がはたらくようになった。


東京で生きるということは、何かを演じることだ。私はどんな芝居も完璧に演じてみせる、器用な役者になった。


帰省すると、父は、私にたい焼きやマドレーヌをたくさん買っておいてくれるし、母は、ホウレンソウのお浸しや、きんぴらごぼうなど、都会では見たこともないものを、作って私に食べさせようとする。


(うちの体の中にはね、ペットボトルのふただとか、ライターなんかまで、入っているんよ、お母ちゃん。こんなおいしいごはんは、あっちにはないんよ。うち、料理ようせんけぇ、ほんまにおいしいわ・・・)


「なんで泣きよるん?」

父も母も、まるで私にスポットライトを当てるみたいに、身体ごとこっちに向いていて、食べたり、飲んだり、泣いたりするのを見ている。


「おいしいけぇ、涙がでるんよ」


私は真っ白な湯気が立ち上るご飯をほおばって言った。

「ほうね?」

母は、嬉しそうに立ち上がる。


冷蔵庫を開けて、何かおかずが入っているらしい、容器を取り出す。

「今年も漬けたんよ、食うてみんさい」

母がふたを開けると、ワイン色に染まった梅干しだった。

箸でつまむ。

大きな梅だった。

母の梅干しは、梅酒の底にたまる梅干しみたいに水分をたっぷり含んだ真ん丸な形をしている。

口に入れると、身体がしびれるほどしょっぱい。

私はしばらく、顔があげられない。

ああこの塩が、私を初期化しないものか。

ああこの母の梅が、私の芝居を止めさせてくれないだろうか。


「すっぱかろう」

「あんた、甘い梅嫌いじゃろうが?」

父と母が、私を見て笑っている。

まるで、赤ん坊を見るように、二人ははしゃいでいる。


「なんや、このすっぱいの。全身がウメボシになってしまうよ、こりゃ」

私が言うと、

がはははは、と二人は笑う。

涙を流して笑う。


ねぇ、お父ちゃん、お母ちゃん、なにがおかしいんね?

こんなことがおかしいんね?

東京はな、もっとおかしいことがあるよ。

もっとみんなさぼって生きとるよ。

みんなで変なミュージカルしとるんよ。


なぁ、そがな荒れた手をして、働き過ぎじゃ・・・。

働いて、働きつくして、ここで二人でうちの話ばっかしよるん?

すっぱさと、しょっぱさが待ち構える口に、私はご飯を放り込む。

そして、もぐもぐとかむ。

父は、私の口に合わせて口を動かす。

なぁ、お父ちゃん、お母ちゃん、うちは、赤ん坊やないんよ、もう。うちの体にはなぁ・・・。

「お母ちゃん、たいがいにしてや、塩どれだけいれたん?ひゃーまいったわー、

でも、うまいなぁ、もう一個食べちゃるわ」

また大きな梅を口に放り込む。

そして、今度は立ち上がって、くるくる回ってみせた。

「ひぇー、ひぇー」

がははは・・・。

「なにしよんね。あんた、くるくる回って!おかしいよ、大学生じゃろ」

「ええ、ええ、回りんさい、なんぼでも、回りんさい」

お父ちゃんが涙を流して笑う。

真っ赤なトマトだったころの私が、結集して、いくらでも演じられる。いや、これは演技ではないのか・・・?

 あの人の『女』になる時の私は、誰?

 なぁ、お母ちゃん、うち、もうずっとここにおって、くるくる回っているわけにはいかんの?

 なぁ、お父ちゃん、うちが東京の大学生でなくなったら、愛してくれなくなるん?

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