女の短編集

清涼

第1話 エリザベスの憂鬱

原因?

いろいろあるけど、まぁ、ミルクティーかしらね。

『tea the first』or『milk the first』のことよ。


ミルクティーは紅茶にミルクを入れるのか、ミルクに紅茶を入れるのかってね。

当然、ミルクが先よね。それがイギリスの常識なのよ。

私の経験から言うと。


それなのに、美菜さんたら、薄いティーバックの紅茶を入れたかと思ったら、冷たいままの牛乳をちょろちょろ入れて・・・。

見るも無残なミルクティーの出来上がりってわけよね。

あんなのまるで雨の日の水たまりよ。

ミルクティーっていうのは、うんと濃い色をしていなければだめでしょう。


飲むのも嫌でね。

いらないって流しに捨てたのよ。

そうしたら。いつもなら黙っている美菜さんがね。


「ふざけんなよ」って。

「こっちはいそがしいのに入れてやったんだ。嫌ならてめえで入れやがれ」。


ねぇ、これはまずいでしょう。

私が悪い?

そうでしょう。向こうよね。

もう一線越えているわよね。


私、タツヒコの母親よ。

この家に住まわせて、光熱水費から何から全部私が出して、

いったい何が不満だっていうの。

タツヒコもあんな、お嫁さんで良く満足しているわね。まったく家柄の合わない女性っていうのは、結局、こういう細部で分かり合えないのよね。


あらぁ。資産家っていっても、こう言ったらなんだけど、お父さんが一代で不動産業を起こして、成り上がりって言うのかしらね。


ものすごいケチで、驚くわよ。

まぁ、倹約家っていうのかな。

お金貯めまくってる。タツヒコの給料は全部貯金して、自分の稼ぎで家計を回しているらしいのよね。

でもやっぱり、無理よ。価値観が違いすぎて。

前なんかね、私がティッシュを二、三枚出して鼻をかんだのよ。そうしたら怒ってね。お母さん、もったいない。これは一枚が既に二枚組みなんですからって言うのね。

それで謝ったら、一枚のティッシュをぴろーってはがして、一枚ずつにして孫の口を拭くの。

まったくもう・・・、あら、笑い事じゃないわよ。


あんな風に私の孫を育てないでほしいのよ。

でも、もう別居したから。


私、また独り住まいだから、遊びに来てね。

何?お客さん?あら、ごめんなさいね。

ううん、気にしないで。楽しかったわ。

また電話させてもらうわね。


キャビンアテンダント時代の同期入社の智子と話すときが、一番楽しい。

だけど、電話を切った後には、むなしさが襲ってくる。


天井から吊るされているモビールは、風がなくてもゆっくりと回る。

生き物のように。私はそれを眺めている。まるで赤ん坊みたいに。時折ふっと、涙ぐんだり、そして微笑んだりしながら。


時は勝手に流れて行く。眠ることはできなかった。眠ろうとすると息が苦しくなって、この世にたった独りきりで、放置されたみたいな気分になる。真っ暗闇に飲み込まれて、消えてしまうかもしれない。

消えてしまえばいいのに。

どうして消えたくないの。


私は寝室へ行かないで、この白いソファで起きていた。

季節は春から初夏へと変わっていこうとしていた。

何の世話もしなかったのに、また今年もいつもと同じようにバラが咲いた。水やりもせず、金をやることもなかったのに。


悲しいとか、苦しいなんていうことは、ひとことも言いもしないで、全部のバラが咲いた。そこに喜びはなかった。広い家でたった独りで眺めるバラは、どことなく寂しかった。


キャビンアテンダントを定年で辞めてから、私はすっかり怠け者になってしまった。誰よりもよく働くと言われてきたのに、身体が鉛のようだ。だから、息子家族と同居して、家事をやったり、孫の面倒を見たりしたかったのに。


それもうまくいかなかった。たった二年で、息子たちは出て行ってしまった。

さみしくなると私は、息子の携帯電話にかける。


「ごめん、悪いけど・・・」。


仕事中なのでしょう。電話を切ろうとする息子にかまわず、

「みんなで一緒に暮らしましょうよ」と言ったのです。私にとってそれは、今すぐに伝えるべきことでした。

官舎住まいのあなたがた夫婦は、この広々とした家を自由に使えばいい。

これから成長していく二人の孫娘は、私が何十年もかけてコレクションした世界のブランド品を、利用し、眺め、感性を磨いていける。

私は名案が名案たる理由を述べたあと、一番伝えなくてはならないことを言ったのです。

「今こそ、あなたの力になりたいのよ」。

久しぶりに身体をめぐる血が、温かくなりかけていたのに、息子は暗い声でこう言いました。


「無理だよ・・・。ごめん」

どうして、とがっかりして聞きましたが、息子はごめん、仕事があるから、と電話を切ってしまいました。


それでも私は、握りしめた希望を捨て去るつもりはありませんでした。

名案が浮かぶたびに息子に電話をかけて、そしてまた、ごめん、を聞かされることになるのでした。


「ママよ、あなた、おばあちゃんの作ったビーフシチュー好きだったでしょう。今日、復刻版を作ったから、帰りに寄りなさい」


「ママよ、あなた、いつだか、靴が合わないって言っていたけど、最近はどう?今から銀座に行かない?買ってあげる」


素敵な名案だと思うのに、息子はいつだって「ごめん」「無理」と言いました。

理由は色々でした。会議だとか、出張だとかの理由があって、断るのでした。

いい加減私は、言いました。


「一度くらい、ママを優先できないかしら」

すると、息子は長い沈黙の後で、フッと笑って言いました。


「・・・僕も昔、あなたに対して、そう思ったなぁ」

胸がずきんと痛みました。何か言葉を探しましたが、どんな言葉も躊躇して、出てこようとはしません。


「ごめん、切るよ」と電話が切れて、プーップーッという音を聞きながら、

何かつかまるものが欲しいと思うくらい、身体に力が入りませんでした。よろよろとソファに横たわって、しばらく私は泣きました。


ひとつのシーンが浮かび上がってきました。小さな息子が「ママ、ママ」と大声で泣いています。私の母が必死で抱きしめて、

寝かせようとしているのに、身体を大きなマグロみたいに揺らして泣き喚きます。「いいから晴子は仕事に行きなさい」

母は息子の捕獲者みたいに、階段を上がっていきます。

私は階段から母が息子もろとも落ちるのではないかと思いはらはらしました。大きなスーツケースを手に、玄関のドアを開けながら、確かに私は思っていました。


「あの子は私の重石だ」と。追いすがる息子の手を、払いのけて生きてきました。叫び声を上げて泣く息子に何百回も、背中を向け続けてきました。


トイレまで追いかけてきて泣く息子に対して、「あなたにはおじいさまとおばあさまがいるでしょう」と何度も言いました。


二週間にわたって日本を留守にする、最も長いパターンのフライトの前に必ず熱を出す息子に対して、本当に重石みたいな子だ、と思っていたのです。


おもしろいものです。

「ごめん」と「無理」は、私が息子に最も多くかけた言葉ですから。

せっせと貯めた貯金が戻ってくるみたいに、今私は、息子からそれを返してもらっているのです。


もういまさら、私の力など必要としていないのだ。必要としていたのは、まさにあの、泣き喚きながら、母の腕の中にいた時だったのだ。ああもう、何もかもが手遅れだと、あきらめかけた時、まてよ、と私は思いました。


私が何のために働いたのか。みんな息子のためでした。両親と私、みんなで息子のために、どれほどの贅沢をさせてきたことか。


ばか者めが。


私は猛然と立ち上がり、息子に電話をかけました。

「ねぇ、ママはあなたのために男みたいに働いたの。それがなければ、あなたは今のポジションにつけたかしら」

息子は、フーッとため息をついて、「ごめん」と言いました。またこれだ、と私は思いました。


バラが咲き終える頃には、アジサイがもう、可憐な少女みたいに白い小さな花を咲かせます。それが雨にぬれて、水色や紫、ピンクに染まっていくのです。ぐんぐん育ち、大輪の花へと成長していきます。もしも私の庭にアジサイがなければ、私は雨に幽閉される悲しみで、石になってしまったかもしれません。出窓の向こうから、アジサイは私に話しかけてくれるのです。


好きだよとか、すばらしいよ、あなたは、とか、そんなことを言ってくれます。おかしいでしょう。なんてうぬぼれた想像でしょう。だけど、私にはそう聞こえるし、アジサイが微笑んでくれているように見えるのです。何一つしていない私を、どうして愛してくれるのかはわかりません。でも、アジサイは雨に濡れながら、私を見てくれているのでした。

そんなある日のことでした。電話が鳴って、私は反応の遅い機械みたいにそちらを見ました。かかってくる電話に、幸せな知らせは何一つありませんから、出るのをやめてまたアジサイに顔を向けました。あまりにも長くあきらめないベルの音に、私は立って行って電話を取りました。


それは息子でした。「最近、電話がかかってこないから、どうしているかと思って」と優しい声を出してくれました。

「僕、思ったのだけど」と息子は言いました。聞きなれないフレーズに、私は少し心が躍りました。全身の細胞が期待の顔で、正面を向いたそのときでした。


「ママ、老人会に入りなよ」

息子はまるで、名案みたいに言いました。


「老人会なんていう名前だけで、ママは嫌がると思うけど」

「・・・」

「こっちのお義父さんとお義母さんが入っていてね、僕もこの前初めて知ったのだけど、旅行会や企業の見学会だとかで、結構良い所行ってるよ」

聞いてる?と息子は言いました。

「あとスポーツ同好会なんかあるんだね。マスターズの水泳やゴルフの大会に出たり・・・」

「嫌よ」

「そう言うと思っていたよ、だけどね、聞いてよ。老人会なんていう名前ではあらわせないほど、充実した素晴らしい組織みたいなんだよ。その辺ならば、もっとすごい活動をしているはずだよ」

老人会が近所にあることは私も知っています。どんなに充実しているか知りませんが、知りたくもありません。息子に老人として扱われようとは。夢にも思いませんでした。

目の前に『老人』という言葉を突きつけられて、私は突然立ち上がりました。窓の外で揺れているアジサイを見ました。十も二十ものアジサイが居並び、それは美しいブルーに染まって、身体を揺らして、みんなで私を応援してくれているように見えました。

「あ、悪いけど、ママ、会社を立ち上げることにしてね、老人会どころじゃないのよ」

「会社?」

「言ってなかったかしら?」

アジサイたちは、そうだ、その調子だ、声援を送ってくれています。

「何の会社さ」

息子は、初めて私に向き直ってくれたような声を出しました。まるで、かつての小さな息子が、ママ、今度はどこに行っちゃうのさ、ママ、どうしていつもいないの、なんて聞いたときみたいでした。

「ママにできることはひとつしかないでしょ。就職セミナーみたいなもの」

自分で言って、へーぇ、なんて思ってしまいました。考えたこともなかったことでした。ただアジサイが揺れて、私が喋りました。

「航空会社の客室乗務員になりたい人のためってこと?」

「・・・ええ、そうよ」

私はきっぱりと答えて、背筋をまっすぐに伸ばしました。

嘘から出たまこととはこのことです。私はかつての仲間に呼びかけ、『ジャパンエアライン学院』を創設しました。学院といっても、ビルの一室を利用した塾のようなものでしたが、若い女性たちの育成は楽しいものでした。


子育てを放棄して、すべて母に任せきりだった私がいまさら何を、と思われるかもしれませんが、空や飛行機への憧れや適性に関して、教えられることは山ほどあったのです。

飛行機がどんなに進化しようと、ドアの数だけ乗務員は必要です。イメージ戦略としての、外見的魅力も求められる乗務員ですが、最も重要な任務は、やはりいつの時代でも安全管理、それに尽きるのです。


どんなに地上で整備された飛行機も、飛び始めればそれはもう、コックピットクルーと、そして私たちの責任です。まずは墜落しないこと、ハイジャックされないこと、万が一事故が起きて、海や陸に緊急着陸したら、ドアを開けて脱出を誘導すること。


そのために私たちは、厳しい訓練で高いところから滑り下り、服で冷たいプールに飛び込んで泳ぎ、大声で避難誘導の言葉を叫ぶのです。その訓練が最も厳しく、長い期間行われるのです。乗客がトイレに行った後に必ず掃除をするのも、爆弾などの不審物がないかどうか確認するためです。

危機意識を高めるために、実際に何百人もの乗客・乗員が亡くなった飛行機から回収とされたボイスレコーダーも、聞きます。本物の、逃れようのない恐怖のさなかのヒトの声は、生涯忘れられないものとなりました。


ですから私は、ニセモノの恐怖を楽しむような遊園地だとか、ホラー映画の類は、行くことができません。

どんなに頭が良くても、美しくても、それだけではクルーになれないといわれるのはそのためです。飛行機の中で講義をするわけでも、ファッションショーをするわけでもないのです。並外れた体力と、勇気、図太さがなければいけません。そしてそれをくるみ込んで、優雅にほほえむ精神力と、夢とロマンを感じさせるたたずまいがなくてはなりません。


だからと言って、立派すぎるのはNGです。「ちょっと、水ちょうだい」って、気軽に声をかけられる親しみやすさがないと、お客さんはつまらないですよね・・・。とまあ、そんな教えを通して、たくさんの女性たちが憧れの客室乗務員に合格していきました。合格するような女性たちは、みんな素直で、純粋な子たちでした。フランスの航空会社の最終試験を控えた生徒に、こんな話をしました。「合格したら、パリの凱旋門の前で待ち合わせをして、シャンゼリゼ通りで乾杯しましょうよ」。それは現実となりました。


それ以来、凱旋門が、ロンドンのタワーブリッジになったり、シンガポールのマーライオンになったりしましたが、合格祝いとしてできる限り生徒のファーストフライトに乗り合わせ、滞在先でお祝いをしました。


若い女性たちの夢という翼に乗って、私も再び空を飛んだ気分でした。そんな生活が十数年続いたある日のこと。またしても、私は人生の曲がり角に突き当たってしまったのです。副院長を務めてくれていた後輩が、私に言ったのです。


「晴子さん、はっきり申し上げますね」。

どうして夢は続かないのでしょう。どうして終わりがあるのでしょう。

「補聴器をおつけになってはいかがでしょうか」。

うすうすわかってはいました。目など、他の部分で補って判断できているつもりでいました。でも、そんなときが私にも、やってきたのです。


どんなに時代が変わっても、クルーは夢とロマンの象徴であってほしいと、誰よりも私が思っていました。ですから、学院は後輩たちに任せて、辞めることにしたのです。

「先輩、ひと足お先に『エアーライフ』に行っていてくださいね」

とみんなが言ってくれました。大きな、抱えきれないほどの薔薇を頂きましたが、私の人生がまたひとつ、幕を下ろした気分でした。エアーライフというのは、エアラインクルーOB専用の老人ホームです。海のそば、ということ意外、詳しい住所も公表していません。


初老まで、両親に甘えて生きてきて、独りになった時は身体が動かなくなるほどの悲しみに襲われました。しかし、そこから二十年近く学院を運営し、誰にも迷惑をかけないで、がんばってきたつもりです。

しかし最近はもう、最期の幕をどんな風に閉じるかを、考えなくてはならないなんて、人生のはかなさにはただただ、むなしい思いでした。それを少しでも忘れさせてくれるのは、この生まれ育った家でした。バラを育て、アジサイやアサガオに励まされながら、父がやっていた小さな畑も復活させました。ほんの少ししか食べなくても良くなった最近では、量とは逆に質の良いものしか食べたくありません。そこで、自分で作るのが最もおいしいと気付いたのです。


かつての仲間たちは、次々に家を売り払い、エアーライフに入居し始めていました。私も、入りたいと思いましたが、恐ろしく高い入居金のことを思うと、二の足を踏んでいました。この家は何があっても、売りたくなかったのです。息子が無理なら、孫娘。孫娘がだめなら、その子、またその子・・・、誰でもいいから、私の血を継いだ者が、いつかこの家に住んでほしい。先祖代々住み続けてきた家は何があっても売れません。


それでも老人ホームをたくさん見て歩きました。この家を保ちつつ、いざという時のことを考えて老人ホームに入居するのが理想でしたが、どんなホームを見ても、入りたいと思うところはなかったのです。それなりに素敵ではありましたが、どうしても、エアーライフに行ってみたいという希望は捨てられませんでした。

私は両親と同じ、九十まで長生きをしたいと思っています。贅沢ですか。いいじゃないですか。あくまでも希望ですから。なるべく長くこの世が見たいのです。世の中はどんどん悪くなっていて、間もなく人類は滅亡するだろうという人がいるけれど、私はそうは思いません。何人かは生き残って、また、何万年もかけて、増えるでしょう。永遠に命は続いていくのだと思います。最近、土をいじるようになって、そう確信しています。すべては一時のことであり、すべては永遠の流れの中のことだと・・・。


そしてある日、馬車の音がタッタカ、タッタカ、タッタカ、タッタカ・・・、と聞こえてくるのです。あ、と気付いて、はい、参ります、と答えます。そして、用意してある息子への手紙を枕元に置くのです。

『タツヒコへ。私は本当に幸福でした。ありがとうございました。また、必ず次の人生でも、めぐり合いたいと思います。あなたは百まで生きてください。父親のことでは悲しい思いをさせて、ごめんなさい。許してください。私の全財産は、あなたにすべて譲ります』。

手紙にはそう書いてあるのです。

弔いは、もちろん施設の方にお願いしてあります。墓に入ってから息子に連絡をしてもらうことになっているのです。

どうです、完璧でしょう。

ものすごくカッコイイ最期、ではないですか。

とても私らしいのではないかという、気がしています。

それがエアーライフでかなえられたらいいなぁ、というのが希望ではあります。


ある日、息子から電話がありました。エアーライフの入居金を出すと言うのです。ここだけの話、三億ですよ、三億円。月々の利用料も僕が出すと言うのではありませんか。高級官僚とはいえ、そんなにお給料がいいわけではないでしょうに。いくらお嫁さんの実家が資産家だと言っても・・・。しかし私には、お金の出どころを心配する気力はありませんでした。エアーライフに入りたいという希望が勝っていました。ああ私は、エアーライフで、死ぬまで、安心で贅沢な暮らしができるのだと思うと、夢のようでした。そしてこの家はちゃんと残るから心配ない、と言ってくれました。


老人・・・という言葉は好きではないけど、まあ、仕方がないでしょう。八十も越えれば、誰がどう見たって、老人です。しかし私は一切の心配事から解放された若者のような気分になりました。

入居の日には、家までファーストクラスと呼ばれているワンボックスカーが迎えに来てくれました。車の前で家を見上げると、ディオールという名の、花弁が何重も白いバラが揺れていました。少し切ない気分になりましたが、いつでも帰ってくればいいのだ、と思いました。

大きな車に二人しか乗れないような作りになっている車内は、飛行機のファーストクラスよりずっと快適でした。シャンパンサービスがあり、すっかり酔って、私は眠ってしまいました。そして気がつくと陽光まぶしい高台から遠くに海を眺めていました。

ここは、日本一、いや、世界一、贅沢なシニアのためのホームです。入りたいとか、入りたくないとかではないのです。航空会社の乗務員の経歴がある人しか入れない、特殊な施設なのです。ディズニーランドほどの敷地が、アメリカ、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、オセアニアと、五つのエリアに分かれて、それぞれイメージに合ったホテルが建っています。ホテルは住居制と宿泊制があり、私はスーツケースひとつで色んなホテルを泊まり歩けるようなシステムに登録しました。敷地内に小さなショップがたくさんありますから。まずはヨーロッパエリアの中の、バッキンガム宮殿をイメージして作られたホテルを選びました。イギリスが世界で一番好きな国ですし、知り合いもたくさんいたからです。


上品なバーバリーの制服を着てサービスしてくれるのは、介護士や看護士の資格を持ったスタッフです。恥ずかしいのですが、私はここで、エリザベスと呼ばれています。ウィリアムとか、リチャードとか、みんな好きな名を名乗るのです。

乗務員をやっていた者にしかわからない、上昇気流の空気感が、ここにはありました。私の精神は日に日に若返るようでした。真冬の東京から四時間ほどで、気温三十度以上のタイへ、とか、氷点下のドイツから四十五度もあるドバイへ飛んでいた私たちは、普通の老人と話が合うはずがありません。

しかしここではそれができるのです。

「ありがとうございました」

「カップンカァ」

「オールボワール」

それから、ええと、なんて色んな国の言葉を思い出しながら、楽しい思い出話を何時間もしました。

例えば普通の老人のように、老人会などに入って、そう、お嫁さんのご両親のように、地域に根付く一本の樹のように、生き抜いていく方もいるでしょう。しかし、私たちクルーは、根無し草なのです。あまりにも長いこと日本をちょくちょく留守にする生活を続けてきたために、ヒット曲やテレビドラマなどの文化もよくわからない。きざなようですが、天安門事件の日に、とか、ベルリンの壁が崩壊した時に、という世界的な事件しか共通項にならないのです。

何よりも私たちが懐かしさを覚えるものというのは、機内なのです。食事の用意をするスペース、ギャレーの雰囲気、そして空港の匂い、外国の匂い・・・。

物理的に外国へ行かれなくなってしまった今となっては、記憶の中から毎日おいしいひとつまみを掘り出してきて、「そうそう、デンマークでサバを食べた時にね・・・」なんてことを、朝から晩まで話すことだけが、私たちの喜びでした。

ホテルには家族や友人が泊まりに来る人もいるし、舞踏会が開ける大きなシャンデリアが下がったパーティールームもあります。しかし私が一番気に入っているのは、『ボーイング747』という部屋です。ジャンボジェットのファーストクラス、ビジネスクラス、エコノミークラスの席が、本物のシートを使って再現されています。747は私の青春です。だから、そこのファーストクラスの最前列で食事をするのが好きです。さみしくはありません。私はもともとが、とてもわがままに出来ていますから、お茶の時間はともかく、食事を大勢でするのは苦手です・・・。と言わせてくださいな。実は、ダイニングルームは、面会や宿泊の家族や友人と賑やかに食事をする人たちで、あふれていて、とても独りでなんていられやしません。ルームサービスでもいいのですが、それも毎日ではね。


ところで、この施設は、ただ豪華なだけではありません。震度15まで耐えるという・・・、笑わないでください。息子が計算したらそうなったのだそうです。つまりは、どんな大地震がこようが、耐える構造なのです。

日本全国の、いくらでも金を出す家族がいますから、いざと言う時の備えまで保障されており、核戦争が起きても、地下シェルターがあり、十年間は暮らせるだけの備蓄がなされているそうです。

どうですか。この安心感。この世の最上の幸福です。何一つ不安のない世界の匂いは、そうですね・・・。無の境地とでもいうのでしょうか。平和です。この年になっても、エリザベスさん、なんて呼ばれるだけで、うきうきしてきます。エリザベス女王のいる国、イギリスを何十回訪れたでしょうか。あの乾いた空気だとか、ちょっと神経質な表情で歩くイギリス人や、旧くて、立派な建物がたまらないのです。

私が若い頃には、まだ南回りの航路を取っていましたから、東京からロンドンまで三十時間くらいかかりましたね。パキスタンのカラチが給油地でしてね、そこで乗務員が交代するのです。私は初めてカラチに降り立った時には、地の果てにたどり着いたように感じたものですよ。何ていうか、色がないんですね。緑がない。茶色の土と、コンクリート。砂漠なんだな、と思いました。着陸が近づくと、こんな風に言ったものです。ちょっと言ってみましょうか。


『皆様、長らくのご搭乗、大変、おつかれさまでございました。ご搭乗機は、まもなく、カラチ国際空港に到着いたします。カラチの現地時間は・・・、例えば、まあ、こんな感じでね・・・、五月十五日、午後九時三十分、現地気温は、三十度でございます・・・』

どうです。私はアナウンスが大好きでね。女子大を出るときにアナウンサー試験も受けたのですが、落ちましてね。エアラインに入りましたが、結果として良かったのです。世界中を旅できましたからね。ああ、ちなみにカラチは日本よりも四時間遅いから、その時点で、夕方でしょう。現地に行ったら、日本時間はすっぱり忘れて、シャワーを浴びて出かけます。まぁ夜中なら寝ますが。いつもコックピットクルーが、食事会を開いてくれるのですよ。タクシーを四台くらいチャーターして、世界中のおいしいもの、食べましたね。


まぁ、息子の父親っていう彼は、お察しの通り、機長でした。いい男でね。一番若く機長になった人でした。頭もいいし、運動神経も良ければ、男気もある。ある時など、カラチに向かっていた、ジャンボジェットの四つあるエンジンのうち、ひとつが爆発しましてね。すごい音と火で窓の外を見ていた乗務員が悲鳴を上げたくらいです。副操縦士がエンジンを見に来て、首をかしげて本当になさけなかったのですが、彼はすぐにマイクで、

『ご心配に及びません。飛行にあたっては、二機のエンジンがあれば問題ございません。当機はあと一時間ほどで、バンコク国際空港に緊急着陸して、問題を解決したいと思います。ご協力に感謝いたします』なんて言ってね。・・・ほーっ。話しているだけで、身体が熱くなってくる、ははは・・・。

かっこよかったです、本当に。私だって顔には出しませんが、少なからず恐怖を感じていますからね。頼れるキャプテンの声に、感動しました。バンコクで結局、一泊することになりましてね。お客様にも叱られましたし、くたくたでした。みんな疲れていたのでしょう。食事会を開くのもはばかれて、各自ルームサービスですよ、その夜は。コックピットクルーは普段、ワンランク上のホテルに泊まるのですが、その夜だけは同じホテルでした。


「神経がぴりぴりして眠れないんだ」みたいなことで、彼が私の部屋に来たのです。

今でも嫌な思い出はひとつもありません。とにかくさわやかな男だったということしか残っていません。よくあるタイプの、「うちはもう、夫婦が破綻しているんだ」というような下世話なことは一度も言わない人でした。お互いに良いところだけを見せ合う、美しいだけの関係でした。


高度成長期が過ぎて、時代はバブルに差し掛かっていましたし、給料もボーナスもちょっと今、人に言えないくらいもらっていました。彼も、私も。裕福な男女が飛行機に乗ってね。地に足のつかない、夢のような生活をしていたということです。

『また機上にてお目にかかれますことを、乗務員一同、心より、お待ち申し上げております。それでは皆様ごきげんよう、さようなら』

ごきげんよう、さようならって彼と別れたのもイギリスのヒースロー空港でしたね・・・。今となってはすべて夢だったみたいですがね・・・。

 バーバリーのブラウスを着た介護士は、私のこんな長い話を、うなづきながら聞いてくれます。彼の話だけは、入居者にはできません。どこでどんな風につながっているかわからないのが、この世界です。だから、彼の話がしたい時は、スタッフにするのです。


「あっ、もしかしたら、これは前に話したかしら」と私が言うと、

「何度聞いても、楽しゅうございます」

片ひざを地面につけた姿勢で言ってくれます。


 そして、彼と別れた後、私は実家に戻って両親の元で息子を産んだのです。父親は公務員で、大変厳しい人でした。彼のことがわかった時には、ののしられましたが、お腹が大きくなってからは、いたわってくれました。父の様子に安心したように、母もそれは大切に私と息子をあつかってくれたのです。

実家での生活は穏やかで、平和なものでしたが、それが私にとってどれほど過酷なものであったかわかりますか。


贅沢な話です。今とはなっては、自分は馬鹿だったと思います。でも私は、苦しかった。母と二人で息子を育み、父親の稼いでくれるお金の範囲内で倹約しながら生活するという、生活に恐怖さえ感じました。そうです。私は贅沢に慣れて、普通の暮らしができなくなっていたのです。考えてもみてください。七年間に及んだ乗務員生活で、お給料も、ボーナスも、もらうたびに上昇していくのです。世の中は豊かになり、土地の値段もどんどん値上がりしていきました。働いてさえいれば、このままの生活が保証されるのは当たり前のことで、努力をすれば、更に二倍にも三倍にもなって生活が豊かになるのだと信じていました。百万円の時計くらいならば、何の躊躇もなく買える気分、というのが抜けきらなかったのです。


だから私、母親に息子を預けて、乗務員に復帰したのです。息子が一歳半のときでした。元の職場に戻るのは、嫌でしたから、東京をベースに乗務できるイギリスの航空会社の試験を受けて合格できました。だけど、学歴を聞かれて、「小学校から大学までS学園です」なんて言っても、

「東京大学ではないのか?」ですって。

外国人が知っているのは、東大と、早稲田と、慶応くらいですからね。まぁ日本人だって、ケンブリッジくらいしか知りませんでしょ。でも私は、イギリスで、囚われていたものから解放されましてね、自由になったのですよ。幼い頃から日本人離れした顔をしていると父がよく、褒めてくれたけれど、外国人と働いてみて、自分が今までかなり固定観念にとらわれていたことを、感じました。常識にとらわれることなく、自由に生きていいんだ、と。

イギリス人と一緒に働いて、格調高いキングスイングリッシュに魅了されました。アメリカ人の話す英語だけを聞いていると、英語っていうのは、新しくて、若い国、アメリカの言葉みたいに聞こえますが、イギリスの言葉、英語というのは、ヨーロッパの言語なんだと実感しました。フランス語だとか、ドイツ語のように、大きくて高い鼻から息をすぽすぽ抜かしながら話す言葉なわけですよ。私はやはり、英語も文化もイギリスのものを好みます。何を有難がってアメリカのやり方を真似してきたのかって、歯ぎしりしたくなりますね。失敗だったんですよ、全部。どこから間違えてしまったのでしょう。間違った列車に乗ったのは、どの地点でしょう。発展と、開放と、自由の名の元に、大切なものが、どんどん流れ出ていってしまったと思いませんか。


まぁ、その代わりに、良いものだって、入ってきましたけどね。豊かさを実感できる時代もありました。ロンドンのボンドストリートで、三十万円もするアンティークの時計を、「あ、かわいい、ほしい」って買えるのですよ。三十歳そこそこの小娘がね。海外メディアに『黄色い猿』なんて馬鹿にされたけれど、何せこっちは客ですからね。誰が何と言おうと、かまわないと思いました。パリのシャンゼリゼでも、ローマのトレビの泉の前でも、お金をたくさん持った、日本人観光客が『世界中の良いものをみんな買ってやる』『私たち日本人に買えないものなんか、ない』という顔で立っていました。私も、両手に抱えきれないくらいの、ブランド店の紙袋を持って歩きました。マナーが悪いと、締め出しを食う観光客もいたけど、私は、そんな扱いを受けたことは、一度もありません。大抵一人で行動していたからでしょうか。「観光旅行?」と聞かれて、「いいえ、あなたの国で働いているのよ」と答えます。自国の航空会社の社員とわかるや否や、どうしてなのでしょう。本当にみんな喜んでくれました。

アジアで一番好きな国は、マニラ。意外かもしれないけど、フィリピン人の明るさと優しさが一番好きなのですよ・・・なんていいながらシンガポールのラッフルズホテルを模したホテルに泊まり、そしてケニアの美味しい紅茶を飲みながら象やライオンの置物が周りにあるコテージに眠りました。とても満足でした。 

ある朝、私はふと窓の外に目をやって、街路樹が蛍光色に輝いているのを見ました。いつの間にか季節は、移りかわっているようでした。いつ夏が来て、秋が去り、冬の厳しさも知らずに今私は、太陽の光線の具合からバラの季節が近いことを感じました。季節がひとまわりしたのです。ホテルの窓は開きませんから、私は玄関に行って、外の空気を吸おうと思いました。すると、大柄の男性スタッフが来て、


「どうしたのですか、エリザベスさん」と私の前に立ちはだかりました。

「ちょっと外の空気が吸いたいだけよ」と言いました。すると、

「かしこまりました。こちらへどうぞ」と、手のひらを上にして、私を促しました。ハープの音がして、エレベーターが来ました。あんなにかわいらしいと感じた音にも、もうなれてしまって感動なんかしません。


「ねぇ、私、外に出たいのよ」そう言うと、

「承知いたしております」と私の腰をそっと押して、エレベータに乗せました。ちょっとした息苦しさを感じましたが、なんとなくこの男には逆らうのが怖いと感じたので黙っていました。

エレベーターが開くと、ふわーっと暖かな風が顔を撫でました。そこは屋上でした。五月の光はなんて、まぶしいのでしょう。何もかもがきらきらとして、喜びに満ちていました。「海だわ」私は驚いた声を上げました。遠くに青い海が見えます。


そして、そこには緑色の小さな島が、ぽこぽこと浮かんでいるのでした。昔、エーゲ海で観た風景にそっくりでした。絵の具の『青』はこの水で作っているのよね、と思ったあの海に。男は私に椅子を出してくれました。私はいつまでもその海と、エアーライフの敷地の周りの森を眺めていました。立派なゴルフコースでプレイする男性グループが見えます。皆一様に腰がまがっていました。


「バラの季節だわ」

と私は言いました。この光がさすころに、バラは目覚めていくのです。私は無性に自宅のバラの世話がしたくなってきました。男は私の心を察したかのように、


「土いじりがご希望でしたら、こちらでどうぞ」と『エアーガーデン』に案内してくれました。屋上の真ん中。大浴場の湯船ほどのスペース。そこには小さなバラも咲いているではありませんか。私は一坪ほどの、まるで砂場のようなガーデンの前にしゃがみこみました。一メートル幅の畝がふたつ。そこにミニトマトの苗が植えてあるのでした。


まるでおもちゃのようでした。こんなのは、違う、と思いました。私はどうしたことか、家に帰りたくなってしまいました。一度そう思うと、いてもたってもいられません。私の家の庭の、草いきれの中で、ハサミとスコップを持って、土いじりがしたくなってきたのでした。一体、あの美しかった庭は、どうなっているのでしょう。がぜん帰りたい思いにかられました。


そして私は、外泊許可を取り、タクシーを呼んでもらいました。タクシーを待つ私を、何人もの友人やスタッフが見ていました。私は誇らしくなりました。友人たちは、家を売って入居したために、帰るところも、行くところもないのです。ここに家族を呼んではいるけど、本当は私がうらやましいんだな、と思いました。


よくここで見る白いベンツのタクシーでした。スタッフは荷物をトランクに積むと、「よろしくお願いします」と運転手に言いました。

ドアが閉まると、「どこ行くんね?」と運転手が聞きました。相撲取りみたいに太った男でした。運転できるのかな、と心配になりましたが、私が住所を告げると、カーナビに住所を入力してくれました。ピーッと音がして、『目的地まで820キロです』と車が喋りました。「えっ?」と私は耳を疑いました。そして次に、『所要時間は十一時間三十分です』と言うではないですか。

私はあっけにとられた後で、オッホッホッと声を出して笑ってしまいました。最近は、入れ歯も合わなくて、発音が悪くなってしまったのです。きっと住所を入力し間違えたのだろうと思いました。バッグからメモ帳を出すと、郵便番号からきっちりと住所を書いて、自分の目でも確認しました。


「運転手さん、ここをもう一度、お願いしますよ」


私が渡すと、運転手はただ腕を動かしただけでも暑いのか、汗をぬぐって「はい」と言いました。

太い指で、小さな画面をよく操作できると思いました。そして、ピーッと音がして、先ほどと同じ数字を告げたのです。

私は少し息苦しくなりましたので、クーラーが出ているところを自分の顔に向けました。そして、今まさに、自分が出てきた白いホテルを見上げました。玄関にまだ、スタッフが心配そうな顔で立っていました。


「ねぇ、ここは、どこなんです?」

私が聞くと、

「ヨーロッパじゃろう」

と運転手は馬鹿にしたように答えました。失礼な男だと思いました。施設にそぐわない田舎者でした。

「ここ何県?葉山じゃないの?」

と聞きました。

すると肩を揺らして笑いました。


「ここは瀬戸内海のど真ん中よ」

「瀬戸内海?」

私の声は、震えていました。

運転手は紙をぶらぶら揺らして、

「ばあちゃん、ここがあんたのうちなんかね?」

と言いました。

「ええ」

私は、自信なく答えます。狐につままれたようでした。


「東京の家、画面に映してみるかいね」

運転手が言うと、ウィーンと音がして車の天井から目の前に、テレビモニターが下りてきました。

運転手が何箇所かボタンを押すと、私の目の前のモニターが明るくなりました。『ここは、東京都世田谷区成城・・・』と画面から声がして、懐かしい小田急線が走るのが映りました。

「そうそう、ここです。2の5の・・・・」

住所を言うと、懐かしい我が家の前の通りが見え、お隣の家のバラも見えました。

「この隣ですっ」

私は胸が熱くなりました。テレビ画面に食い入るように見ていると、そこには、見知らぬマンションが建っていました。

「あれ?おかしい・・・」

しかし、横には間違いなく、中村さんのお宅がある。

「おかしいわ・・・、変だわ。マンションを映して」

私が言うと、モニターにはまた、見知らぬ三階建てのマンションが映りました。洋館風の造りは、以前の家に雰囲気が似ていました。

私は息子に電話をかけようと、携帯電話を出しました。指が震えていました。

何十回鳴らしても、電話はつながらないのです。

「だめだ、いやだ、どうしよう」

私は顔を覆いました。しくしく泣いていると、運転手が声をひそめて言いました。

「外泊なんか、もう、あんた、できないんよ。ここは刑務所と同じじゃ」

「そんなバカな・・・」

私は泣きました。


「息子さんの家、見てみんかい?このナビ、うちの利用者の家族の家は、みんな生中継で観られるんよ」

うちの・・・?

運転手は、この施設の専属運転手のようでした。

「だけど、あんた、内緒じゃけんね」

「・・・」

「わしはこの施設ができる時に、この山を売った地主の息子なんじゃ。こういう施設親を預ける東京の奴らが、頭にくるんよ」

「・・・」

「ばあちゃんかわいそうじゃけ、見せてやる」

と運転手が言いました。

「ええと、横浜市緑区・・・ええと・・・」

私は目を閉じて、ため息をつきました。息子の住所なんか、知りもしないのでした。

「あんたの名前を言えば出るんよ」

運転手は、のんびりと言いました。

「見ないわ」

私は言いました。

「今は、見たくない」と私は言いました。「お願い、少し、車を走らせて」

私が言うと、

「ばあちゃん、かわいそうじゃね」と言って、車を走らせてくれました。

アジアエリアにさしかかりました。まるで万里の長城みたいな、高い塀が張り巡らされていることに、どうして今まで気づかなかったのでしょう。

「今日は、何曜日?」

私が聞くと、運転手は、

「ゴールデンウィークなんよ、今」

と言いました。

私は、運転手の肩をとんとんと叩きました。

「ねぇ、おねがい、東京に、帰らせて。お金はいくらでもあるの。私をさっきの成城のうちのほうに連れて行って」

私は、泣きじゃくっていました。

「ばあちゃん、もう、金なんか、ないじゃろう。みんな子どもに握られて」

「あるわよ」

「どこに。もう、帰る家もないんよ。わかるじゃろう」

「わからない。どうして私、こんな遠いところにいるの」


すべては五月の陽射しのせいでした。

私を目覚めさせてしまったのです。

「どうして・・・」

「東京の家を売って、みんなここに入るんよ。それでなけりゃ、三億もどうして払えるん?みんな、子どもにだまされて、ここに来るんよ」

「嫌よ、帰りたい、帰りたい、帰りたい」

運転手の肩を叩きました。巨大な固まり肉でした。

「さみしくなったら、ワシがまた、ドライブに連れだしてやるけんね。カンベンしてな」


車は施設を回って、玄関に着きました。私は、泣きました。激しく泣きました。車が止まると、バーバリーのズボンを翻した男女のスタッフ二人が来ました。


「おかえりなさい、エリザベスさん。ご旅行、いかがでしたか」


優しい声に反して、強い力で、二の腕をつかむと、私をタクシーから引きずりおろしました。


「エリザベスさん、今日は何のお話を聞かせてくれるの?私は、今日、やっぱりカラチの話が聞きたいです」


私は連行される犯人みたいでした。


「やめてよ、そういう、病気扱いみたいなのは。私、息子に連絡をとって、家に帰るのよっ」

声の限りに叫びましたが、どうしようもありません。

「そうですねぇ、今日のフライトはどこに行きますか?ケニアに行って、象さん観ましょうか」

「お願い、私を帰して・・・」

私はボーイング747のいつもの席に座らされると、これまで見た事もなかったベルトを肩からはめられました。

「ポルトガルのワインでございます」

乗務員の格好をしたスタッフが、私の足元に片膝をつきました。

 私はワイングラスを手で払いのけて、割ってしまいました。すると、三人がかりで押さえつけられて、何かを注射されました。すーっと気分が和らぎました。

 深い眠りから覚めると、隣の席に、一人の男性が座りました。彼でした。私は彼をじっと見つめました。

「今日はキャプテンの百歳のお誕生日なのですよ。エリザベスさん、一緒にお祝いしましょう」

 スタッフがケーキを持ってきました。

なんだか、少し胸がどきどきしていました。夢が、また、はじまるのでしょうか。私は涙の跡を、指でぬぐいました。そして、背を伸ばして座りなおし、

「いいわ」と微笑みました。

グルリ、と私の地球が回り始めました。


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