16.桃ちゃんの決意

「初めまして。私は去年歌劇団の付属学校の入試に挑戦したんだけど、不合格になってしまったのよ。滑り止めで普通の高校も受けていたから、一年間高校に通いながら練習して、今年度の試験に挑もうって最初は思ってた」

「不合格だったんですか?」

「そうよ。最初はショックだった。でも、普通の高校に通ってるうちに友達ができて、私は歌劇団に入りたいんじゃなくて、見ている方が好きなんだって分かったのよ。それで、今年度の入試は受けないことにして、このまま高校に行くことに決めたの」


 年上の生徒さんの話を聞いて桃ちゃんは目を丸くしている。


「諦められたんですか?」

「違うのよ」

「違う?」

「私は最初から、舞台に立つ方じゃなくて、見る方でよかったの。それが分かっていなかったのよ」


 歌劇団の付属学校の入学試験を受けて、不合格になって普通の高校に通い始めてから、そのことに気付いたのだと年上の生徒さんは話してくれた。


「あなたは、どっち側かしら?」

「どっち側っていうと?」

「舞台に立ちたい方? 舞台を見ているだけで満足できる方?」


 年上の生徒さんの言葉に桃ちゃんは答えに詰まっている。

 桃ちゃんの周囲の黒い影が、薄れているのを私は見て感じていた。


「舞台に、立ちたいです。私は舞台に立ちたい! 暁ちゃんや千草ちゃんや香織ちゃんと一緒に、歌劇団の付属学校を目指したい!」


 はっきりと目標を口にした桃ちゃんは顔を真っ赤にしていた。


「それなら、後悔しないようにしないと! 私は入学試験を受けたときには分からなかったけれど、あなたには分かっているんだからね」


 年上の生徒さんの言葉は桃ちゃんの胸に響いたようである。


 これで解決したわけではない。

 黒い影はまだ薄っすらと残っていて囁き続けている。


『絶対に許さない』

『そんな不確かな道には行かせない』

『お前は成功しない』


 その声が誰のものか私にはもう分かっていた。

 パパとママに電話して、私は桃ちゃんのご両親と話してくれるようにお願いした。

 桃ちゃんのご両親は、桃ちゃんが私と千草ちゃんと香織ちゃんの通う歌とダンスの教室にいると聞いて、大急ぎで駆け付けてきた。


「桃、歌とダンスは趣味にして、区内で一番いい高校に入ると約束しただろう?」

「パパ、お願い。私、歌劇団の付属学校に行きたい」

「役者なんて不安定な職業で生きて行けるわけがない。厳しい道にお前を進ませたくないんだ」

「それでも、私の人生なの。私のしたいことをしたい!」


 お願いする桃ちゃんを引っ張って、桃ちゃんのパパが連れて帰ろうとする。

 桃ちゃんのパパの前に私のパパとママが立ち塞がった。


「古河さん、少しお話しましょう」

「落ち着いて。娘さんも怖がってますよ」


 穏やかな私のパパとママに、桃ちゃんのママが口を開く。


「場所を変えましょう。お話、伺いたいわ」

「お前はまた桃の肩を持つつもりか」

「桃はもう十五歳よ。自分の人生を自分で決めていい年だわ」

「まだ十五歳だ。子どもだぞ」


 言い争いになりそうな桃ちゃんのパパとママを連れて、私のパパとママは喫茶店に移動した。

 私と千草ちゃんと香織ちゃんもついて行く。


「どんな道を選んでも、厳しいことには変わりはありません。役者であろうと、サラリーマンであろうと」

「私は桃に安定した職業について欲しいだけなんだ」

「それは、あなたの希望でしょう? 桃ちゃんのしたいことではないはず」

「人生は一度しかないんです。ここで選択を間違えば、桃ちゃんは一生後悔するかもしれない」


 パパとママが桃ちゃんのパパを説得している。

 渋い顔をしている桃ちゃんのパパに、桃ちゃんの周囲の黒い影がまた濃くなってきそうになっている。

 空気を変えたのは、桃ちゃんのママだった。


「私は賛成です」

「お前!?」

「あなたは桃を縛り過ぎなのよ。桃には桃の人生がある。あなたが敷いたレールの上を歩いて行くなんて冗談じゃない」

「なんてことを言うんだ。桃が可愛くないのか?」


 どこまでも桃ちゃんを盾にして話す桃ちゃんのパパに、桃ちゃんのママははっきりと宣言した。


「なんだったら、離婚してもいいのよ?」

「な、なんだと!?」

「私は桃と家を出て行く。桃は歌劇団の付属学校に入ればいいんだから」


 突然のことに動揺する桃ちゃんのパパに桃ちゃんのママは強気だった。


「桃、これまで悩ませて、苦しい思いをさせてごめんなさいね。今ならまだ間に合うわ。桃の行きたい道を行って」

「ママ……」


 桃ちゃんのママの言葉に桃ちゃんが涙目になっている。


「す、すまない。私の理解が足りなかったようだ。許してくれ。捨てないでくれ」

「パパも桃を応援するわよね?」

「分かった。応援しよう」


 桃ちゃんのパパも、桃ちゃんのママが本気だということが伝わったのか意見を変えていた。

 桃ちゃんの周囲からは綺麗に黒い影が消え去って、背中に薄っすらとイルカさんの姿が見えている。桃ちゃんの守護獣はイルカさんのようだ。


 千草ちゃんは千草ちゃんのママが迎えに来て、香織ちゃんは香織ちゃんのママと沙織ちゃんが迎えに来て、桃ちゃんは桃ちゃんのパパとママと帰って行った。

 一件落着して、私はホッとしてお腹が空いてしまった。


「ママ、パパ、お腹空いた。何か食べたい」

「そうだね、急いで家に帰ろう」

「旭くんを光輝くんの家に預けて来たのよ。お迎えに行かないと」


 私もパパとママと一緒に家に帰った。

 途中でエレベーターで光輝くんの家のある階で降りて旭くんを迎えに行く。

 光輝くんと遊んでいた旭くんはご機嫌だった。


「こーたん、ばっばい!」

「あーたん、またねー!」


 光輝くんと別れの挨拶を交わして、旭くんがパパに飛び付いていく。

 パパに抱っこされて旭くんは家まで連れて帰ってもらった。


 家に帰ると、晩ご飯の準備ができていた。

 鮭のホイル焼きと、ご飯と、野菜の浅漬けと、豚汁。

 旭くんは遊び過ぎたのか、食べながら眠ってしまった。

 私もたっぷり食べると眠くなっていた。


「パパ、ママ、桃ちゃんのこと、ありがとう」

「私たちで役に立ったのか分からないけど」

「充分よ。私では大人同士のお話はできなかったもの」


 お礼を言ってシャワーを浴びて、布団に入る。

 夢の中で私は子犬さんに会っていた。


『暁ちゃん、みんなと協力して、僕の力がなくても黒い影を追い払えたね』

「子犬さん、いてくれたのね」

『暁ちゃんをずっと見てたよ。暁ちゃんが頑張っているのも見ていた』

「どうして助けてくれなかったの?」

『それが暁ちゃんの成長に繋がると分かっていたからさ』


 子犬さんは私を信じて見守ってくれていたようだ。

 香織ちゃんが兎さんに見守られていたのがとても嬉しかったと言っていた気持ちが、今ならば分かるような気がした。


「これからも、ずっと見えないままで私を見守るつもり?」


 私の問いかけに子犬さんは答えなかった。

 私はそれが答えのような気がしていた。


 これからは子犬さんの助言がなくても私は自分の力で物事を解決できるし、みんなに協力を求めることもできる。

 助けてと言えることがこんなにも大事だったなんて、今回のことがなければ分からなかっただろう。


 目を覚まして、周囲を見たら、薄っすらと子犬さんが見えた。

 リビングに出たら旭くんのセントバーナードさんも、ママのパピヨンさんも、パパのパンダさんも透けている。

 多分タロットカードで話をしようとしても無理なのだろう。


 多少の不安はあるけれど、守護獣さんの助けなしで桃ちゃんの件を乗り越えることができたからこそ、私は少しだけ自信をつけていた。


 桃ちゃんは休んでいた歌の教室とダンスの教室を辞めて、私と千草ちゃんと香織ちゃんと同じ歌とダンスの教室の通うようになった。

 少し遅れてのスタートだが、まだ二学期も始まったばかりなので、小さな頃から鍛えていた桃ちゃんならば間に合うだろう。


「前の教室では、歌劇団の付属学校に入学したひとはいなかったの。それで、パパも厳しい世界だから無理だって思い込んでいたみたい」

「この歌とダンスの教室に通っていた生徒さんは何人も通ってるわ」

「うん。それで、こっちに移って来たのよ。暁ちゃんと千草ちゃんと香織ちゃんもいるし」


 そこまで言ってから、桃ちゃんは深々と香織ちゃんに頭を下げた。


「香織ちゃん、実力試験の結果の紙を破いてしまってごめんなさい!」


 今更だけれど、桃ちゃんはずっと気にしていたのだろう。


「いいのよ。セロテープで直したし、ママも結果が見えれば構わないって言ってたわ」

「嫌味を言ってごめんなさい」

「それも謝ったから許してあげる。桃ちゃんも大変だったんだもんね」


 香織ちゃんと桃ちゃんの仲直りも無事にできた。

 桃ちゃんの周囲には嬉しそうに飛び跳ねるイルカさんが薄っすらと見えている。

 イルカさんの様子を見れば、桃ちゃんの感情も分かるような気がした。

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