5.年上の生徒さんの黒い影
私と千草ちゃんと香織ちゃんの通っている歌とダンスの教室には、年上の生徒もいる。
歌とダンスの教室は基本的に女性しか受け入れていないので、年上の生徒も女性なのだが、私たちより一つ上で、去年歌劇団の付属学校の入学試験を受けたというのは聞いていた。
残念ながら落ちてしまったが、高校に通いながら次の試験に向かうべく練習を続けているのだという。
私と千草ちゃんと香織ちゃんはその生徒さんと面接の練習のときに話すことがあった。
「あなたは去年受けていますよね。雰囲気を教えてもらえますか?」
歌とダンスの教室の先生に促されて、年上の生徒さんが話しだす。
「緊張していて細かなことはあまり覚えていません。私は第二試験で落ちました。舞踊と歌唱のレベルが合格ラインに達していなかったのだと思います」
「ダンスも歌唱もかなりのレベルだと思ったのですがね」
「緊張で実力が発揮できなかったのもあると思います」
面接官の前ではどうしても緊張してしまうこと。自分をよく見せようとして頑張ったことが裏目に出てしまったことなどを、年上の生徒さんは話してくれた。
「今年も受験しようと考えているのですよね」
「そのつもりです」
年上の生徒さんが答えた瞬間、年上の生徒さんの周囲に黒い影が立ち込める。
『もうあんな苦しい思いはしたくない』
『受かってもずっと苦しい思いをして続けていかなければいけないのよ』
『このまま普通の高校にいたい』
黒い影は年上の生徒さんの気持ちを代弁しているようだった。
私は歌とダンスの練習や、ピアノの教室、塾をそれほど苦に思っていない。
それは千草ちゃんと香織ちゃんがいるからで、同じ志を持つ仲間と一緒に目指す受験は、苦しく険しいものだが、決して放り出したいと願うものではなかった。
年上の生徒さんは苦しんでいる。
面接の練習が終わった後で私はその生徒さんに話しかけてみた。
「歌劇団の付属学校を今年度も受けるんですよね?」
「母は私が小さな頃からこの教室に連れて来たり、ピアノの教室に連れて行ったり、苦労を掛けてきたから……」
「本当は、受験したくないんですか?」
私の問いかけに年上の生徒さんは曖昧に笑っただけで答えなかった。
代わりに年上の生徒さんの周囲の黒い影が濃くなる。
『逃げ出したい』
『歌劇団を見ているだけで幸せだったのに』
『舞台に立つなんてとてもできない』
それはこれまでに受験に挫折したひとたちの思念が凝り固まった黒い影だった。
私が千草ちゃんと香織ちゃんのところに戻ってくると、目を丸くされる。
「暁ちゃんがああいうこと聞くなんて意外だったわ」
「あのひと、本当にやりたいのか分からないものね」
去年の時点でもあの年上の生徒さんの歌とダンスはそれなりのレベルだったけれど、それなりを超える個性がなかった。そのせいで私がロミオ、千草ちゃんがジュリエット、香織ちゃんがティボルトに選ばれたのに対して、年上なのにあの生徒さんはマキューシオにしか選ばれなかった。
歌とダンスの教室は完全に実力主義だ。
年齢は関係なく、上手なひとが役を取る。
私と千草ちゃんに主役を取られて彼女は悔しがっていたのだろうか。
そういう感情も見えなかった。
家に帰ってから、私はタロットクロスを机の上に広げて、タロットカードを混ぜた。
丁寧によく混ぜたタロットカードで、ホースシューという七枚のカードを使うスプレッドを組んでみる。
一枚目の過去のカードはソードの三の逆位置。
意味は、痛み。
真実を受け入れられずに苦しむという意味がある。
『自分が本当に行きたい道を受け入れられず、誰にも打ち明けられずにとても苦しんでいるね』
私の膝の上に乗って来た子犬さんが話しかけて来る。
二枚目の現在のカードはカップの三の正位置。
意味は共感。
仲間と共に喜び合うという意味がある。
『高校生活は友達もできて楽しいみたいだね。だからこそ、それを手放せなくなりそうで怖くて躊躇っている』
子犬さんの言葉に私は想像する。
私も歌劇団の付属学校の入試に落ちてしまったら、滑り止めで受けている高校に行くのだろう。高校で勉強をしながら、次の年の入試を待つことになる。
それは酷く厳しい道に思えた。
近未来はソードの十の正位置。
意味は、岐路。
全てを受け入れて新しい一歩を踏み出すという意味がある。
『全てを打ち明けて、自分の中でも納得して、あの子は前向きに生きて行かないと未来は苦しいものになると思うよ。暁ちゃんは助けたいと思っているのかもしれないけれど、難しいかもしれない』
子犬さんの言葉に、私は自分があの年上の生徒さんを助けたいと思っているのかと自覚した。
歌劇団の舞台を目指す仲間として、共に進んでいきたい。
そう思うのは間違いなのだろうか。
アドバイスのカードは、ワンドの八の逆位置。
意味は、急展開。
アドバイスになるとひとの心変わりに気を付けてとなる。
『暁ちゃんの助けたい方向と、そのひとの行きたい方向が異なるかもしれない。暁ちゃんが導きたいと思っても、そちらに行きたくないひとを連れて行くことは無理だからね』
子犬さんの言っていることが私には分かる気がした。
私はあの年上の生徒さんに歌劇団の付属学校を諦めて欲しくないけれど、年上の生徒さんは違う方向に進みたいと思っているのかもしれない。
周囲の状況のカードはソードのクィーン。
意味は、的確さ。
こうすべきと迷いなく意志を貫けるという意味がある。
『周囲はもうそのひとの心は決まっていると思い込んでいるみたいだね。誰もそのひとの気持ちが変わっているのを疑っていない』
周囲に理解されず、自分の気持ちは別のところにあるのにそれを言えない状況とは、とても苦しいものだろう。
私が考えていると、子犬さんが鼻先で私の手を突く。
次のカードを捲れということなのだろう。
障害となっていることを見ると、カップのエースの逆位置が出た。
意味は、愛する心。
逆位置になると、望み通りにならなくて失望するという意味もある。
『どうしても周囲の望み通りになれない自分に苦しんでいるし、周囲の期待をプレッシャーに思っている。それが障害になっているね』
私のママも、私が急に歌劇団の付属学校に行かないと言えばショックを受けるだろう。
言い出すことのできないあの年上の生徒さんの気持ちはよく分かった。
最終結果はカップの二の逆位置だった。
意味は、相互理解。
逆位置になると、心が固く閉ざされていくという意味になる。
『もう心を閉ざして、誰にも相談せずに、試験を受けて落ちようと思っているんじゃないかな。そうすればもう一度高校に戻れるからね』
高校生活をあの年上の生徒さんが楽しんでいて、友達もできて、歌劇団の付属学校に行かなくていいと思っているのならば、それはそれでいいのではないだろうか。
歌劇団の付属学校に行くことだけが人生ではない。
「あのひとにもう一度話してみよう」
私は心を決めていた。
次の歌とダンスの教室の日、私は年上の生徒さんに話しかけた。
「本当は歌劇団の付属学校には行きたくないんじゃないですか?」
「あなたに私の気持ちは分からないわ!」
「私も歌劇団の付属学校を目指しています。本気かどうかは見て分かります」
歌とダンスの教室でも、去年からその生徒さんが伸びたかといえばそうではない。練習熱心なわけでもないし、苦手なところを香織ちゃんのように個人練習を受けるほど頑張っているわけでもない。
『行かないと言えばママが悲しむ』
『舞台に立つなんて無理なのに』
『誰も悲しませたくない』
年上の生徒さんを取り囲む黒い影が濃くなっている。
私は足元の子犬さんを見た。
子犬さんは一つ頷いて、黒い影に飛びかかっていく。
年上の生徒さんの黒い影が蹴散らされていく。
子犬さんに噛み付かれ、蹴散らされて、薄くなって黒い影は完全に消えた。
「私、やっぱり、歌劇団の付属学校に行きたくない!」
はっきりと年上の生徒さんは宣言していた。
「そうだわ。歌劇団の付属学校に行くことだけが人生じゃない。私は試験を受けて分かったのよ。舞台に立つ側の人間じゃなくて、舞台を見る側の人間だって」
年上の生徒さんが迎えに来たお母さんに頭を下げている。
「ママ、ごめんなさい! 私普通の高校にこのまま通いたい。友達もできてとても楽しいの。私は試験を受けてみて分かったけど、舞台に立つ人間じゃなくて、観客側だったのよ」
「いつか、あなたがそう言いだすと思ってたわ。言ってくれてありがとう」
「いいの? ママ?」
「あなたの人生よ。あなたの好きなように生きなくちゃ」
心配していた周囲の状況も、年上の生徒さんが思い込んでいただけで、お母さんは年上の生徒さんの気持ちを受け止めてくれていた。
丸く収まったのを見て、私も安心する。
私は千草ちゃんと香織ちゃんの元へ行き、年上の生徒さんはお母さんと歌とダンスの教室の先生に話しに行っていた。
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