3.苦戦する譜読み

 受験に向けてますます忙しくなっていたが、私は一つの壁にぶち当たっていた。

 読譜力を試す、初見での歌がなかなかうまく歌えないのだ。


 小さい頃からピアノをやっていたし、譜面は読めるのだが、それを即興で歌にするとなると難易度が上がる。

 渡された楽譜を持って順番まで待って、私は歌とダンスの教室の歌の先生の前に立つ。

 ピアノも置いてあって、歌の先生はピアノの椅子に座って真剣に私のことを見ている。


 歌い出しは順調だった。

 けれど途中で合っているか不安になってしまう。

 これでいいのかと迷いながら歌う私に、歌い終わって歌の先生が言った。


「音を探しながら歌わないで、もっと堂々として」

「はい、すみません」

「練習した曲はあれだけ歌えるのだから、その声量と表現力をもっと活かさないともったいないわ」


 恐る恐る歌ってしまうので、どうしても初見の曲は表現力や声量まで考えることができない。ただ音を追い駆けるのが必死で、それ以上歌うことは難しかった。


「課題曲をもう一度歌ってみてくれる?」


 歌の先生に言われて、何度も練習した曲を歌い始める。

 表現力に気を付けて、感情を込めて歌ったその曲を聞いた後で、歌の先生が私に譜面を持ち替えさせた。


 初見の曲だ。

 一度歌の先生の前で歌ったとはいえ、本当にこれで合っているのか不安で声は小さくなって、表現力など全く考えられなくなってしまう。


「差が大きすぎますね。注文したテキストがあったでしょう? あの曲を毎日一曲ずつ初見で歌う練習をしてきてください」


 分厚い歌のテキストを受験のために買っていたが、それを毎日一曲ずつ知らない曲を初見で歌う練習を、宿題で課されてしまった。


 次に歌った香織ちゃんは堂々としていて、歌の先生に褒められていた。

 千草ちゃんもそつなくこなしていた。


 私だけが上手にできていない。

 そのことは私の中に焦りを生んだ。


 家に帰ってから練習するが、私が歌うと踊り出す旭くんはテンションが低いし、聞いてくれているママも不可思議な顔をしている。


「正直に言って。どこが悪いの?」

「暁ちゃんはちゃんと歌おうと頑張りすぎてて、旋律はしっかりしているのに、いつもの自信がないのよ」

「私はいつもはもっと自信満々に歌っている?」

「暁ちゃんのロミオとジュリエットも、ウエストサイドストーリーも素晴らしかったわ。そのときみたいな迫力がない。薄っぺらい表面だけの感情のこもっていない歌になっているかな」


 ママの指摘は私の胸に大いに刺さった。

 私は音を間違えていないか不安になるあまり、自分のよさを発揮できていない。

 分かってはいるのだが、どうしても初見の曲の譜面読みは苦手だ。


「ねぇね、おうた、ちて」

「今、お歌歌ったわよ」

「ちやう! おうた、ちて!」


 旭くんに至っては私の歌が歌と認識されていなかった。

 旭くんにリクエストされたので、世界の王を歌って、続けてトゥナイトを歌うと、旭くんがテンションをあげて踊り出す。


 旭くんにもこんなにもはっきりと私の歌の違いは見破られていた。


 練習しても練習しても、自信をもって歌うことができない。

 私は中学校で香織ちゃんに相談していた。


「香織ちゃんは初見の曲を歌うのが得意でしょう? 何かコツがあるの?」

「私は楽譜を見たら音楽が聞こえるのよね。それに合わせて歌っているだけよ」


 そうだった。

 香織ちゃんはピアノの教室の中でも、屈指のピアノが上手な子だった。譜面を見ただけで音楽が聞こえて来るならば、初見の曲でも堂々と歌えるだろう。


 私が項垂れていると、千草ちゃんが声をかけてくれる。


「譜面読みに苦戦してるの?」

「そうなのよ。千草ちゃんはどうやってる?」


 私の問いかけに答える千草ちゃんの言葉は意外なものだった。


「間違えてもいいって思って歌ってる」

「千草ちゃんが!?」

「間違えることよりも、自分をアピールできないことの方が怖いわ。旋律は若干違ってもいいから、私の声と表現力を見せつけてやるって思ってるわ」

「そうなの!?」

「声質や声量はしっかりしてるし、表現力もあるって歌の先生から言われてるから、そこを見てもらいたいと思っているの」


 千草ちゃんには千草ちゃんなりの考えがあって初見の曲の譜面読みをしていたようだった。

 私は千草ちゃんにそんな度胸があったのかと驚いてしまう。


「すごいわ、千草ちゃん」

「暁ちゃんも、いい声を持っているんだから、そこを押していきましょう?」


 千草ちゃんに言われて、私は目が覚める気分だった。


 その日から私の初見の曲の練習は変わった。

 間違えてもいいから、私の声と表現力を聞いてもらう。旋律はほとんど読めて歌えるのだから、間違えてもいいと気持ちを切り替えることによって、私の歌は相当よくなったようだった。


「高羽さん、練習の成果が出ていますね。素晴らしいです」

「ありがとうございます」

「旋律の方はもう少ししっかり音を間違えないようにしましょうね」

「はい」


 開き直って歌う私に、家で練習していると、旭くんが踊ってくれるようになった。


「ねぇね、おうた、もいっちょ」

「もう一回歌うね」

「あい!」


 初見の曲でも旭くんが踊ってくれる。

 これは私の中では大きな変化だった。

 旭くんにも歌を認められていることは私の自信になる。


「暁ちゃん、変わったわね」

「千草ちゃんのおかげなの。千草ちゃんが教えてくれたから変われたのよ」


 ママの感心する声に私が答えると、ママは目を細める。


「千草ちゃんと暁ちゃんは本当に最高の親友ね」

「ママと千草ちゃんのママもそうでしょう?」


 私が言えば、ママは少し眉を下げたようだった。


「千枝ちゃんと一緒に、歌劇団の付属学校に行きたかったのよ。それなのに、私、歌劇団のことを知ったのが十八歳になってからで、それから準備をしてもとても間に合わなかった」


 ママも千草ちゃんのママも、歌劇団のことを知って、進路を決める時期にそこに入りたいと思ったが、歌劇団の付属学校は十八歳までしか入学できないので、無理だったのだ。

 歌劇団の付属学校に入学するには、私や千草ちゃんのように物心つく前から歌とダンスの教室に通ったり、ピアノの教室に通ったりしなければいけない。

 ピアノの教室に通うのがどうして大事なのかを、譜面読みで私は思い知らされた気がしていた。ピアノの教室を続けていなければ、初見の曲をすぐには歌うことができなかっただろう。


「私はあの華やかな舞台に立てなかったけれど、暁ちゃんと千草ちゃんと香織ちゃんには可能性がある。そして、暁ちゃんと千草ちゃんと香織ちゃんもあの舞台に立ちたいと思っているのでしょう?」

「私はあの舞台に立ちたい。いつかトップスターになりたい」


 千草ちゃんと一緒に男役と娘役のコンビでトップスターになること。それが今の私の夢だった。


「暁ちゃんと千草ちゃんと香織ちゃんが羨ましいわ。私は三人を精一杯応援する。暁ちゃんが歌劇団の付属学校に入学できるようにサポートするわ」


 私の夢はママの夢でもあるのだ。

 ママのために歌劇団の付属学校に入学するわけではないが、私が夢を叶えることが、ママの夢を叶えることにも繋がっているのだと実感する。

 私はますます努力しなければいけないと思っていた。


 譜面読みは相変わらず得意ではなかったけれど、なんとかこなせるようになった。

 中学校の成績は上位五番以内に入っている。

 香織ちゃんも上位五番以内に入っていて、千草ちゃんが不動の一番なので、上位五位以内を私たちがほとんど占めていることになる。


 内申点の心配はなかった。


 中学三年の慌ただしい一年を、私と千草ちゃんと香織ちゃんで乗り越えて、歌劇団の付属学校に入学するのがまず一段階。

 そこがゴールではなく始まりなのだと私も千草ちゃんも香織ちゃんも分かっていた。

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