19.観劇の日
発表会の日より早く、歌劇団に行く日が来てしまった。
私はとっておきの白いシャツと白いスラックスをはいていた。
私と千草ちゃんが大好きな役者さんは今回の公演で退団してしまう。
知らせを聞いたときにはとてもショックだった。
大好きな役者さんの退団のときには白い衣装で見送るというのが、歌劇団の決まりのようなものだった。
私はその日のために白い綺麗なシャツとぴしっと線の入ったスラックスを用意した。アクセントに細いリボンタイを着けて、支度を終える。
歌劇団を退団した後でも、活躍している役者さんはたくさんいる。けれど、歌劇団を退団した後では、男役が見られることはほとんどない。
大好きな役者さんの退団にショックを受けているのは私だけではなかった。ママも、千草ちゃんも、香織ちゃんもショックを受けていた。
ママは白いスカートとシャツで決めているし、千草ちゃんは白い胸に刺繍のある素敵なワンピースを着ている。香織ちゃんはスラックスとジャケットを白いものにして来ていた。
「ある意味幸運よね。退団する公演を生で見られるんだもの」
「白い衣装で公演に行けるんだもの。幸せよ」
「最後まで応援しましょうね」
私と千草ちゃんと香織ちゃんは手を取り合っていた。
私と千草ちゃんと香織ちゃんは、私のママと劇場内のレストランで食事をした。ママは私と千草ちゃんと香織ちゃんの思い出になるように、この公演の特別メニューを食べさせてくれた。
お皿の上に綺麗に乗っている公演をイメージしたお料理を、私と千草ちゃんと香織ちゃんは写真に撮った。一生忘れない思い出になる。
「ママ、劇場のレストランに連れて来てくれてありがとう」
「暁ちゃんのママ、素敵な時間を過ごせたわ」
「大事な思い出になると思うわ。ありがとう」
私も千草ちゃんも香織ちゃんも、口々にママにお礼を言っていた。
普段は連れて来られることのない劇場内のレストランでお昼を食べることができた。それは私と千草ちゃんと香織ちゃんにとってはとても特別なことだった。
食べ終わるとお手洗いに行ってから席に着く。
開演までの時間、私と千草ちゃんと香織ちゃんはそわそわしていた。
「暁ちゃん、千草ちゃん、香織ちゃん、三人がよければ、千秋楽をライブビューイングで見ない?」
ママが提案してくれる。
ライブビューイングとは舞台の映像を全国の映画館で生放送する上映会だ。千秋楽には私と千草ちゃんと香織ちゃんとママの大好きな役者さんのサヨナラショーが開催されるのをママは知っていた。
「いいの!? 生で見た上に、ライブビューイングもなんて」
「サヨナラショー、見たいでしょう? 私も見たいわ」
「私、ママに聞いてみます」
「私もママに聞いてみるわ」
どうしてもチケットが取れなくて見に行きたい演目があるときには、ママは私をライブビューイングに映画館に連れて行ってくれていた。
それが今度は千秋楽を見るためにライブビューイングに連れて行ってくれる。
千秋楽はまだ先だが、私はそれが楽しみなような、悲しいような複雑な気分になっていた。
開演すると話はできなくなる。
宮本武蔵が幼少期に父親に捨てられて、父親が唯一負けたという若い武者を探す物語。
私と千草ちゃんと香織ちゃんの大好きな役者さんは、ライバルの佐々木小次郎役で出て来ていた。
妖艶な香りを漂わせる佐々木小次郎役に私は心の中で悲鳴を上げる。
出会った宮本武蔵と佐々木小次郎。
決闘を挑もうとする宮本武蔵に、佐々木小次郎はそれを断る。
まだ宮本武蔵の剣が粗削りで強くないために戦いたくないと言うのだ。
それに激昂するが、宮本武蔵は佐々木小次郎に敵わない。
修行の旅を続け、傷を受けた宮本武蔵を佐々木小次郎が助ける場面もあった。
佐々木小次郎という高みを目指す宮本武蔵という形で、話は進んでいく。
最後の決闘は手に汗を握るものだった。
宮本武蔵が遂に佐々木小次郎と戦う。
そして、勝つ。
巻けた佐々木小次郎は命を落とし、宮本武蔵はまた旅に出る。
演目を見終わって、レビューまでの休憩に入った私と千草ちゃんと香織ちゃんを、ママはまたレストランに連れて行ってくれた。
少し並んだけれどレストランに入れて、この公演の特別なデザートを注文して食べさせてくれる。
お料理は宮本武蔵伝をイメージした和風のものだったが、デザートはレビューをイメージした可愛い異国風のものだった。
「すごく可愛い!」
「写真に撮りましょう」
「一生の記念にしないと」
私も千草ちゃんも香織ちゃんもテンションが上がっていた。
シャンパングラスのような綺麗なグラスに入ったパフェのデザートを食べて、後半のレビューを見る。
レビューは異国の情緒あふれるものだった。
レビューは美しい歌とダンスで構成されていて、宮本武蔵伝の重い題材を吹き飛ばすように明るいものだった。
見ていると最後に私と千草ちゃんと香織ちゃんの大好きな役者さんがトップスターと二人で踊る場面もあった。
怪しいような二人の雰囲気に息を飲んでしまう。
レビューが終わっても私はふわふわと夢見心地だった。
ママは車で香織ちゃんを送って行って、香織ちゃんのママにお礼を言っていた。
「本当に素晴らしい公演でした。ありがとうございました」
「楽しめたならよかったです」
「千秋楽のライブビューイングに香織ちゃんも連れて行きたいと思っているのだけれど、いいかしら?」
「香織ちゃんも連れて行ってもらえるの? 香織ちゃん、行きたいわよね?」
「行きたい!」
「お願いします」
ライブビューイングの約束をして、私のママは香織ちゃんの家からマンションの駐車場に戻った。マンションの駐車場に車を停めると、千草ちゃんを送って行く。
千草ちゃんのマンションのエレベーターに乗って、部屋まで行った。
インターフォンを鳴らすと千草ちゃんのママが出て来る。
「月穂ちゃんー! どうだった?」
「最高だったわ! 推しは格好よかったし!」
「そうだったのね! 楽しめたならよかったわ」
千草ちゃんのママは千草ちゃんが帰って来るのを待っていたというよりも、私のママと語り合うのを待っていた感じがした。
「千歳くん、ただいまー! お姉ちゃんがいなくて寂しくなかった?」
手を洗って千草ちゃんは千歳くんを抱っこしている。千歳くんは丸いお目目をくりくりさせて千草ちゃんをじっと見つめていた。
一生懸命手を伸ばして、千草ちゃんの髪を掴んで、千歳くんがにぱっと笑う。
「髪切ったのに、千歳くんは私の髪がお気に入りなのよ。お口に入れないで。あまり綺麗じゃないから」
千草ちゃんは千歳くんに髪を引っ張られてもにこにこして許容していた。
千草ちゃんのママは私と私のママにお茶を淹れてくれる。
美味しい真っ赤なフルーツティーを飲みながら、私と千草ちゃんが話して、私のママは千草ちゃんのママと話していた。
「千草ちゃんを千秋楽のライブビューイングに連れて行ってあげたいのよ」
「私も行きたいわ」
「千歳くんをパパに預けられる?」
「その日だけはお願いしてみる」
千草ちゃんのパパはピアノ教室で忙しいけれど、その日だけは大好きな役者さんが退団する大事な日なのでお願いしてみるという千草ちゃんのママに、私は本気を感じた。
どれだけ千草ちゃんのママが歌劇団を好きか分かるような気がする。
私にとってもその日はとても特別な日だった。
「千草ちゃん、白いワンピースが汚れちゃうよ」
「そうだった。大事なワンピースだわ」
千草ちゃんが着ている胸に刺繍のある白いワンピースは、ライブビューイングに行く千秋楽の日にも着るのだろう。
千歳くんを一度ベビーベッドに寝かせて、急いで着替えてきた千草ちゃんは、色の濃い服で千歳くんを抱き上げた。千歳くんはベビーベッドに寝かされている間、甘えるように泣いていたが、千草ちゃんに抱っこされるとまたにこにこになる。
「ママ、千歳くんにミルクをあげてもいい?」
「お願いできる? すぐにミルクを作るわ」
ミルクと母乳どちらも飲んでいる千歳くんは、千草ちゃんがミルクをあげることもあるようだ。抱っこされて哺乳瓶を口に当てられると、千歳くんは一生懸命吸い付いている。
「早く私たちと同じものが食べられるようになるといいんだけどね」
「私も、旭くんのときにずっと思ってたけど、今になったら一瞬だったよ」
「本当? 私も千歳くんと同じものが食べたいわ。三歳になったら、観劇もするのよ。歌劇団の生の演技を見に行くの」
千草ちゃんは千歳くんを抱きながら歌い始めていた。
歌っているのはウエストサイドストーリーのトゥナイト。
私もつられて歌ってしまう。
千草ちゃんの歌声と私の歌声がぴったりと重なる。
歌を聞きながら、千歳くんは一生懸命ミルクを飲んでいた。
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