10.千草ちゃんのママの退院まで
残りの夏休みの期間は、塾や歌とダンスの教室やピアノの教室に追われていたが、千草ちゃんは一週間近く私の家に滞在した。
千草ちゃんのパパは毎日千草ちゃんに会いに来ていたが、仕事と病院との往復で忙しかったので、千草ちゃんのママが千草ちゃんをうちに預けたのは正解だっただろう。
家にいる間に私は千草ちゃんとキッチンに立っていた。
「簡単なお料理くらい作れた方がいいと思うのよ」
「そうよね。これから千歳くんがいるからね」
「二人で練習しましょう」
私のママが妊娠したときに、私は自分が料理を覚える決心をした。千草ちゃんは食べることにそれほど興味がないようなので、料理に関して今まで作ったことがないようだった。
千草ちゃんがいる間に、焼きそばやちゃんぽん、サンドイッチやピザパンやフレンチトースト、トンカツやコロッケやアジフライは衣付けまでして冷蔵庫に入れておくことなど、二人で練習した。
「お料理って面倒くさい。食べなくても生きていければいいのに」
「面倒くさいけど、手をかけただけ美味しいものが食べられるわよ」
「ママやパパに美味しいものを食べさせてあげられるのか……それならちょっと頑張る」
千歳くんが大人と同じものを食べられるようになるのはまだまだ先なので、千歳くんのためではないが、千草ちゃんは千草ちゃんのパパとママのために頑張ろうと思ったようだった。
メモを取って家に帰っても作れるようにしていく。
「千草ちゃんと暁ちゃんの作ったご飯美味しいわ」
「んまっ! んまっ!」
「旭くんったら!?」
自分も欲しいと訴えて来る旭くんにママは苦笑いしていた。
旭くんは成長が早くて、食に関しては特に食べたい気持ちが強いのだ。
「旭くんはまだよ」
「んまー! びええええ!」
ひっくり返って泣いてしまう旭くんに、ママは仕方なく衣を剥がしたコロッケの中身をあげていた。もぐもぐと咀嚼して旭くんは食べている。
「千歳くんも食いしん坊になるかしら」
「旭くんは私に似たから、千草ちゃんに似たら食いしん坊じゃないんじゃないかな」
「そっか。千歳くんのためなら、ご飯作ってもいいかなって思ったのに」
千歳くんが誰に似るかは分からない。ただ千草ちゃんが食にそれほど興味がないのは確かだった。
香織ちゃんのママにピアノの教室や塾や歌とダンスの教室に送ってもらうときに、香織ちゃんとは情報交換していた。
「千草ちゃん、髪を切っちゃうのね」
「髪に時間を取られるよりも、千歳くんと触れ合いたいの」
「立派なお姉ちゃんだわ。私は髪を長く伸ばしたことがないから、長い髪の大変さは分からないけど」
香織ちゃんも男役志望で髪を伸ばしたことがない。私もずっとショートカットだ。千草ちゃんのように生まれたときから髪を切ったことがないくらい長い髪というのは想像がつかなかった。
髪も少しドライヤーをかけて放置しておけば乾いてしまう。
「ヘアドネイションはしたいから、三十センチは切りたいのよね。それで、まだ肩の下まではあると思うから、それをポニーテールにするの」
千草ちゃんのトレードマークはポニーテールだった。長い髪はポニーテールにしなければ、あまりに長すぎてお手洗いで便器についてしまうと聞いていた。
「ポニーテールは変わらないのね」
「変わらないわ」
香織ちゃんと話している千草ちゃん。
香織ちゃんにはまだ報告があった。
「千草ちゃん、料理の練習を始めたのよ」
「千草ちゃんが!?」
千草ちゃんの食が細いことを知っている香織ちゃんは驚いている。
「香織ちゃん、お料理ってできる?」
「簡単なものならできるわ。沙織ちゃんが食べたがることもあるし、ママが仕事で遅いこともあるから、よく作るわよ」
香織ちゃんのママは仕事の合間に私たちを送り迎えしてくれて、その後でまた仕事に戻って、帰りが遅くなる日もあると香織ちゃんは教えてくれた。
そんなに忙しいのならば、香織ちゃんが歌劇団の付属学校の入試に挑みたいと口にするのに躊躇いがあったのもよく分かる。
塾に歌とダンスの教室にピアノの教室と、私たちは大量の習い事をこなさなければいけない。そうして実力を付けた一握りの生徒だけが歌劇団の付属学校に入学できるのだ。
シビアな世界だと分かっているし、全国から志望者がやってくることも分かっている。
辞めさせられた元担任の先生が言っていた「狭き門」というのは、間違いではないのだ。
それでも私たちはたゆまぬ努力をして入試の日に向けて頑張っている。
それができるのも、香織ちゃんのママ含め、保護者の助けがあってのことだった。
「香織ちゃんは沙織ちゃんの面倒も見て、塾もピアノの教室も歌とダンスの教室もこなして、偉いのね」
千草ちゃんの呟きに私も同感だった。
何より、それを支えてくれている香織ちゃんのママが頑張っている。
「沙織ちゃんは可愛いもの。時々癇癪を起して、泣いてどうしようもなくなるけど、そういうときは、歌ってあげるの」
「沙織ちゃんは歌が好きなの?」
「歌とダンスが大好きなのよ。沙織ちゃんが小学校に入ったら、ママは歌とダンスの教室に入れようと思っているのよ。どれだけ泣いてても、沙織ちゃんは歌い出すと、私の手を取って踊るの」
ほっぺたを真っ赤にして香織ちゃんが嬉しそうに言っている。
チャイルドシートに座っている沙織ちゃんが眠そうだったのが、ぱっちりと目を開ける。
「ねぇね、おうた!」
「何がいい? エメ? 世界の王?」
「おうたー!」
沙織ちゃんに強請られて香織ちゃんが歌い出した。
エメのロミオのパートだ。つられて私も千草ちゃんも歌い出す。
車の中は大合唱になっていた。
歌に合わせて沙織ちゃんが手を叩いて喜んでいる。
「香織ちゃん、エメも世界の王も歌えたの?」
「自分が出る舞台の歌は全部覚えてるわよ」
「私もそうだけど……香織ちゃんのエメは新鮮」
「ねぇ、世界の王も聞かせてよ」
ティボルト役だったので、香織ちゃんは舞台ではエメも世界の王も歌ってはいない。千草ちゃんがお願いすると、香織ちゃんはちょっと照れたような顔で歌い出した。
沙織ちゃんも歌詞が分からないなりに歌って手を叩いて楽しんでいる。
香織ちゃんの歌は低い音がまだしっかりと出ないが、それでも素晴らしかった。
「香織ちゃん、上達してる!」
「まだ暁ちゃんみたいに低い音は出ないの。もっと練習しないと」
「私は二歳からやってるから。すぐに追いつかれたらショックだよ」
「それはそうだね」
私みたいに歌いたいという香織ちゃんだが、ずっと続けている私と、去年始めた香織ちゃんが同じ実力だったら、私はやっぱりショックを受けてしまうだろう。
それにしても、香織ちゃんは基礎をしっかりと押さえて上手に歌っている。
一週間、千草ちゃんが滞在した日々はとても楽しかった。
千草ちゃんと一緒に病院に行って千歳くんを見に行った日もあった。
千歳くんは丸い黒いお目目をとろんとさせて、眠そうにしていた。
「おっぱいをあまり飲まなくて、すぐに寝ちゃうのよね」
「まだママのお腹の中にいる気なのかもしれないわ。早く出て来ちゃったから」
「そうかもしれないわね」
退院に向けて千草ちゃんのママもしっかりと準備をしていた。
「できるだけ哺乳瓶に慣らせようと思っているのよ。千歳くんはミルクと母乳の混合で育てたいの」
哺乳瓶でミルクを上げることができれば、千草ちゃんのママが起きられないときに千草ちゃんのパパが千歳くんに授乳できる。千草ちゃんのママはパパと協力して千歳くんを育てることを考えていた。
「あのひとがそうしようって言ってくれたの。私一人では大変だから」
「パパは言いそうだわ。ちゃんと千歳くんはパパに愛されて、パパにも育てられるのね」
千草ちゃんにはなかった愛情が千歳くんには注がれる。そのことが千草ちゃんは嬉しくて堪らないようだった。
「パパがちゃんと千歳くんを愛してて嬉しいの。私の実の父親とは違う。パパが私、大好きなのよ」
千草ちゃんにとっては別れたパパは「実の父親」という距離を置いた呼び方になってしまったようだった。
千草ちゃんのママが退院してくる。
その日には、千草ちゃんも家に帰るのだ。
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