9.家への帰還と千歳くんの誕生

 去年、千草ちゃんと来たときには重機が入って補修中だった近くの公園も、すっかりと綺麗に整えられていた。

 ブランコに滑り台、小さな砂場。

 麦わら帽子を被って公園に来た沙織ちゃんと、ベビーカーの中の旭くんは興奮していた。


 沙織ちゃんは香織ちゃんに手伝ってもらって滑り台の階段を登って、何度も滑っている。

 旭くんは敷物の上に座らされているが、はいはいで脱走しようとするので、私が抱っこして捕まえるしかなかった。


「旭くんもお散歩する?」

「うぅ!」


 話しかけると返事をしたような気がして、私は旭くんに帽子を被せて抱っこして公園をお散歩する。大きな薄茶色の目をくりくりさせて周囲を見ている。来月には十か月になるから、旭くんは掴まり立ちもできるようになって、活発になっていた。


「おっ! おっ!」

「滑り台で遊びたいの?」

「沙織ちゃんが滑るのを見ておきたいんじゃないかな?」

「どーじょ」


 香織ちゃんはそう言っているが、沙織ちゃんは旭くんに順番を譲ってくれる気だった。さすが保育園に行っていると順番の概念も分かっているのだろう。

 旭くんを抱っこしたまま滑り台の階段を登って行って、旭くんを抱っこしたまま滑ると、旭くんがきゃっきゃと笑う。


「旭くん、楽しい?」

「うぉ!」


 私と一緒に滑るのでも旭くんは楽しいようだった。

 抱っこしたままブランコに座って揺れていると、旭くんは興奮して手足をじたばたさせている。

 沙織ちゃんもやってきて、空いているブランコを指差した。


「ねぇね、ちて!」

「抱っこして乗ろうか」

「あい」


 小さなお手手を上げてお願いする沙織ちゃんを抱っこして香織ちゃんも私の隣りのブランコに乗った。


「沙織ちゃん、可愛いね。香織ちゃんのことが大好きなのね」

「私が沙織ちゃんが大好きでいっぱい遊んであげてるから。旭くんも暁ちゃんが大好きじゃない」

「本当? そう思う?」


 旭くんに愛されるお姉ちゃんでいられればいいと私は願っていた。


 お盆休みが終わって、家に帰ると千草ちゃんのパパから連絡が入った。


『千枝さんが産気づきました。少し早いんで、何の準備もしていなくて』


 助けを求めるメッセージに、ママが出かける準備をする。


「千草ちゃんの家に行ってくるわ。千草ちゃんは家で預かりますからね。暁ちゃんは千草ちゃんをお迎えする準備をしてて。大丈夫よ、お産が前後するのはよくあることだからね」


 千草ちゃんの家に行って、入院の準備などを手伝って、千草ちゃんを連れて帰ってくるというママに、私は自分の旅行荷物を片付けて、部屋を片付けて、帰りを待っていた。

 たくさんの洗濯物はパパが洗って干している。


「パパ、私も手伝うわ」

「暁ちゃんはその間、旭くんを見ててくれる?」

「分かった!」


 小さな旭くんは既にはいはいを習得して、自由に動けるようになっている。掴まるところがあれば立つことまでできるようになっている。

 歩くにはまだ早いのだが、小さいながらにバランスがよくて、今にも歩き出しそうな旭くんを、私は玩具で遊んで気を反らしておいた。


 玩具では簡単に騙されない旭くんには、申し訳ないがセントバーナードさんを押し付ける。

 セントバーナードさんのことを触れる旭くんは大きな体に埋もれたり、尻尾やお手手を舐めたりして上機嫌で遊んでいる。セントバーナードさんは必死に耐えていた。


「ただいま、暁ちゃん。千草ちゃんが来たわよ」

「ママ、お帰りなさい。千草ちゃん、いらっしゃい」

「ママが赤ちゃんが生まれそうなの。今日は暁ちゃんの家に泊まりなさいって言われたわ」


 頬を真っ赤に染めている千草ちゃんは、それだけ期待しているのだろう。

 千草ちゃんの赤ちゃんは、男の子か女の子か分かっていない。エコー検査というので分かる場合もあるのだが、外れることもあるので主治医は敢えて性別を伝えていないのだ。

 生まれる前から性別を想定していると、それが外れたときに主治医は責任を問われる。エコー検査で分かりそうでも、最近は告げない病院が多いのだと聞いた。


「旭くんみたいな男の子がいいかな。沙織ちゃんみたいな女の子がいいかな」

「お祖母ちゃんの家で沙織ちゃんと遊んだけど、すごく可愛かったわよ。旭くんもじっと見てたわ」

「旭くんも可愛いわよね」


 選べないと千草ちゃんは言っているが、生まれて来る赤ちゃんの性別はもう決まっている。

 後は無事に生まれて来るかだけだ。


 千草ちゃんと順番にシャワーを浴びて、私の部屋に千草ちゃんの布団を敷いてもらって寝ることにしたが、なかなか寝付けなかった。


「ママ、今頃苦しんでいるのかしら」

「帝王切開にならないといいね」

「そうね。お腹を切るのってすごく大変って聞いたわ」

「自然分娩できるといいね」


 自然分娩のことを帝王切開に対して経腟分娩というらしいのだが、そうやって生まれてくる方が赤ん坊は安全だし、母体にも負担がないと聞いている。

 ママも経腟分娩だったが、いきみすぎて頬っぺたの毛細血管が切れて頬が真っ赤になっていた。

 それくらい大変なお産を今千草ちゃんのママは頑張っている。


「千草ちゃんのママが無事に赤ちゃんを産めますように」

「無事に生まれて来るなら、男の子でも女の子でもいい。ママ、頑張って」


 二人で祈りながら眠った翌朝、私と千草ちゃんは早朝に起こされた。

 朝ご飯をパパが用意してくれながら、ママが話してくれる。


「一時間くらい前に生まれたんですって。体重は少なめだけど、元気な男の子よ」

「生まれたのね! ママは?」

「疲れて眠っているみたいだけど、千草ちゃんに早く赤ちゃんを見せたいって言ってたって聞いたわ」


 千草ちゃんのママの産んだ赤ちゃんは男の子だった。千草ちゃんには弟ができたのだ。


「会いに行きたい」

「朝ご飯を食べたら病院に行きましょう」


 ママに言ってもらえて、千草ちゃんは朝ご飯を食べ始めた。

 旭くんもママに抱っこされて大きなお口で離乳食を食べている。

 最近は私たちと同じものを欲しがるので、フレンチトーストのカケラなどもあげている。喉に引っかからないか気を付けて見ているが、もぐもぐと咀嚼するのが上手で、美味しそうに食べていた。


 朝ご飯を食べるとパパは仕事に行って、私と千草ちゃんと旭くんはママの車で病院に行く。ベビーシートにすっかり慣れた旭くんは、車の中でも楽しそうにしていた。

 ドライブが好きなのだ。


 千草ちゃんのママの病室に行くと、千草ちゃんのパパが目を真っ赤にしていた。


「あんな可愛い子を、千枝さんが産んでくれました……。僕はいい父親になれるように頑張ります」

「千草ちゃん……来てくれたの? 赤ちゃんを見て」


 ベッドの上の千草ちゃんのママが看護師さんに声をかけると、新生児室から赤ちゃんが運ばれて来る。ベビーベッドごと運ばれてきた赤ちゃんは小さくて、産着がぶかぶかに見えた。


「千草ちゃん、千歳ちとせくんだよ」

「千歳くん……初めまして、お姉ちゃんよ」


 抱き上げて千歳くんに挨拶をする千草ちゃんの目も潤んでいる。

 小さな千歳くんは千草ちゃんと千草ちゃんのママとパパに幸せを運んで来てくれたようだった。


「月穂ちゃん、まだ退院できないから、しばらくの間、千草ちゃんを預かってもらっていていい?」


 千草ちゃんのママの問いかけに、私のママが力強く答える。


「もちろんよ。千草ちゃんもいいわよね」

「はい! よろしくお願いします」


 千草ちゃんとは赤ん坊のころからの仲で、ママも千草ちゃんのことは自分の娘のように思っている。


 病院から帰る途中で千草ちゃんが生まれたときから切っていない長い髪を撫でて呟いた。


「私、髪を切ろうかな」

「え? 歌劇団の付属学校に入学するまで切らないんじゃなかったの?」

「願掛けしなくても、実力で通ってみせる。それに、千歳くんをお風呂に入れるときに、こんなに長い髪だと邪魔でしょう?」


 願掛けをしなくても実力で通ってみせると宣言する千草ちゃんも格好よかったし、確かに小さな赤ちゃんがいると髪の毛を洗う時間もないとママが言っていたのも思い出される。


「肩を越すくらいで切っちゃう!」


 長い髪がトレードマークの千草ちゃんが髪を切る。

 それは大きな出来事のように思えた。

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