2.数学の先生の黒い影
千草ちゃんと一緒に中学に通うようになって、小学校のときよりもひとが多いのに私は驚いていた。
小学校のクラスは二クラスしかなかったのに、中学校は六クラスある。
おかげで千草ちゃんとはクラスが離れてしまった。
私が二組で、千草ちゃんは一組。
体育のときには合同になるというからそのときは千草ちゃんと会えるが、それ以外では千草ちゃんとあまり会えない。
昼休みに私は一組に遊びに行ってみた。
「体育のとき以外あまり会えないね」
「体育で体操着を忘れたときに借りられないことの方が重要だわ」
「千草ちゃんは、私と会えなくても平気なの?」
聞いてみると千草ちゃんは机の上に座ってころころと笑う。
「塾でも、歌とダンスの教室でも一緒だし、家だって隣りの棟じゃない」
「それはそうなんだけど」
千草ちゃんと中学にいる間あまり話せないのは寂しいという私に、千草ちゃんは平気そうだ。
「隣りのクラスじゃない。すぐ会いに行けるわよ」
「そうなんだけどぉ」
納得しない私に、千草ちゃんが言う。
「暁ちゃんは意外と人見知りだからね。クラスで友達を作ったらいいじゃない。小学校から一緒の子もいっぱいいるんでしょう?」
千草ちゃんはひとの輪にすぐに入れるタイプだが、私は躊躇ってしまうところがある。
それは私がひとの守護獣が見えるからかもしれなかった。
守護獣の見える私は、相手が何を考えているかが何となく見えてしまうのだ。
守護獣が悪い顔をしていると、何か悪いことを考えていると分かる。守護獣が沈んでいると悲しいことがあったのだと分かる。
それで先回りして反応してしまうことが多いので、察しがよすぎる子として気味悪がられてしまうのだ。
私が見えるのは守護獣だけではない。
いわゆる、霊というのだろうか。
そういうものも見える。
霊はときに守護獣を覆い隠して、ひとの体調を悪くさせたりする。
守護獣の動きを制限するのだ。
分かっていても手を出すと気味悪がられるのだから、見ても見えないふりをした方がいいと分かっているのだが、ときには見えないふりができないことがある。
昼休みが終わって二組に戻ると、ぞわりとするような悪寒が走った。
見れば笑顔で教壇に立っている数学の先生の後ろに黒い影が纏わりついていて、先生の守護獣を隠してしまっている。
『お前など死んでしまえばいい』
『お前に価値はない』
『子どもに教えられる立場だと思っているのか』
黒い影が先生に囁きかけている。
どうにかしたいけれど、私にはどうすることもできず、黒い影……霊の思考に当てられてしまって、私は気分が悪くなって保健室に行った。
保健室でベッドに横になって休んでいると、声が聞こえてくる。
『あの先生、不倫してたらしいよ』
『奥さんに憎まれてるんだって』
『そういうやつはいなくなればいいのに』
それが人間の声か霊の声か分からないまま、私は眠りについていた。
目が覚めるとママが迎えに来てくれていた。
「今日のお教室はお休みにする?」
「お腹空いちゃった」
私が言えば、ママは私を車に乗せて近くのレストランに連れて行ってくれた。
中学では帰りに寄り道は許されていないのだが、ママはにっと笑う。
「保護者がいるんだから平気よ。食べたいものを食べなさい」
私は喜んでハンバーグ定食を頼んだ。
ソースは和風の大根おろしと醤油のソースで。
運ばれてきた鉄板の上でじゅうじゅうと焼けているハンバーグに、大根おろしをかけて、醤油ベースのソースをかける。
ナイフとフォークでハンバーグを割ると、肉汁が溢れ出てきた。
夢中になってご飯とハンバーグを食べている私に、ママが言う。
「暁ちゃんは、本当に歌劇団に入りたいの?」
「ふぁいりたい」
「私が暁ちゃんに押し付けているんじゃないかと、心配になったのよ」
正直に言えば、小学校の頃は歌劇団に入るためにいくつもの習い事をして、遊ぶ時間がなかったのがとても嫌だった。
それでも、私は歌劇団に入りたい。
千草ちゃんと一緒に歌劇団の舞台に立ちたいと考えるようになっていた。
「中学生になったのだし、ちゃんと暁ちゃんの意志を聞いておこうと思っていたのよ」
「私は千草ちゃんと一緒にあの舞台に立つ」
ママが導いた道かもしれないが、これはもう私にとっては完全に自分の目標になっていた。
千草ちゃんと一緒に歌劇団の舞台の上に立つ。いつか千草ちゃんと二人でトップスターコンビになる。
それが私の夢になっている。
「千草ちゃんもお教室を続けるかどうか悩んだ時期があったみたいなの。暁ちゃんにもそういう気持ちがあるんじゃないかと思ったのよ」
「ママ、私は立派な歌劇団員になるわ」
宣言して、ハンバーグの最後のひと切れとご飯を口に詰め込んで、私は元気を取り戻した。
霊に当てられて気分が悪くなった後には、私はものすごくお腹が空く。
何か食べるとかなりマシになるのだが、中学校で給食の時間以外に食事をすることはできない。
小学校のときには、気分が悪くなったら保健室の先生に言って、キャンディを一つもらっていたのだが、中学校になるとそういうわけにもいかないようだ。
それにしても、気になるのは数学の先生のことだ。
笑っていたが、真っ黒な影が纏わりついていて、かなり調子が悪いはずだ。
不倫というのがどういうものか、私にはぼんやりとしか分からないけれど、それをしてしまった先生は、霊に取りつかれている。
「ママ、食べたら元気が出たから、今からでもピアノの教室に連れて行って」
「いいわよ。行きましょう」
ママに車に乗せてもらって、私はピアノの教室に連れて行ってもらった。
ピアノの教室では、千草ちゃんも一緒に練習している。
順番待ちをしている千草ちゃんの隣りに座って、私はそっと話してみた。
「数学の先生に黒い影が纏わりついてたのよ」
「あの先生、何かしたの?」
「不倫だって」
私が言うと、千草ちゃんが顔を歪める。
「自業自得なんじゃない? 妻子あるひとと恋愛なんてしたら、恨まれるだろうし、慰謝料も請求されて大変よ」
そういう千草ちゃんはパパが不倫をして、別居中である。千草ちゃんのママは不倫相手から大量の慰謝料をもらったし、夫からは生活費と千草ちゃんの養育費をきっちりと取り立てている。
不倫に関して千草ちゃんが好意的ではないのは理解できる。
「暁ちゃんは優しいから助けちゃうんだろうけどね」
名前を呼ばれてピアノ教室の防音室に入りながら、千草ちゃんは苦笑していた。
私も名前を呼ばれてピアノ教室の別の防音室に入る。
千草ちゃんと私は同じピアノ教室に通っているが、先生が違うのだ。
楽譜を広げて譜面台に置いて、先生の言う通りに弾いていく。
指の運動の曲から始まって、課題曲まで弾いていく。
練習不足で指が転げたところもあったけれど、先生は辛抱強く何度も私にそこを繰り返させて、最終的には一曲弾けるようになっていた。
「次はこの曲に進みます」
新しい課題曲を二曲もらって、私はピアノ教室の防音室を出た。
千草ちゃんもちょうど防音室から出てくるところだった。
「ママ、千草ちゃんも一緒に車に乗ってもいいでしょう?」
「暁がこう言ってるんだけど、いいかしら?」
「構わないわよ」
私がお願いすると、ママはすぐに千草ちゃんのママに聞いてくれる。千草ちゃんのママは千草ちゃんに手を振って送り出す。
「スーパーに買い物に行くつもりだから助かったわ」
「それなら、帰るまで千草ちゃんは家で預かっておくわ」
「ありがとう」
千草ちゃんと過ごせる時間が増えて私は嬉しかった。
車に乗り込むと、小声で数学の先生の話をする。
「助けてあげた方がいいよね」
「暁ちゃんは甘いのよ。不倫だったなら、自分の責任だわ」
「それはそうだけど、私は誰かが苦しんでるのを見るのは嫌だな」
最悪、あの黒い影は数学の先生を自殺に追い込むかもしれない。
それを考えると、私は助ける以外に選択肢はなくなってしまう。
家に帰ってから千草ちゃんを部屋に招いて、私は机の上にタロットクロスを広げた。タロットカードをよく混ぜて、三枚のカードで過去、現在、未来を見るスリーカードというスプレッドを使う。
スプレッドというのはカードの配置だ。
一枚目は悪魔のカードの正位置だ。
タロットカードには正位置と逆位置があって、正位置が絵が上下正しく見えるもので、逆位置は絵が上下逆になっているものだ。
正位置と逆位置では、意味が全然違ってくる。
悪魔のカードの正位置の意味は、呪縛。
誘惑に負ける、という意味があった。
『妻子ある相手に誘われて、「離婚するから」と嘘を吐かれて関係を持ったみたいだね』
子犬さんの話す内容は刺激が強かったが、私は驚いて千草ちゃんを見た。千草ちゃんも机の方に近寄ってくる。
「『離婚するから』って騙されたみたいだよ」
「それでも不倫はよくないよ。離婚してからじゃないとダメだよ」
きっぱりという千草ちゃんは、自分のパパのことがあるのだろう。
二枚目のカードは、ソードの九の逆位置。
意味は、苦悶だ。
逆位置になると、悪い状況に向き合おうとしていないという意味になる。
『あのひとは、恋人の奥さんから責め立てられてるけど、ちゃんと現実を見ていない状況だね。だから、悪いものがわいてくる』
子犬さんの言葉に、私は眉間に皺を寄せる。
「慰謝料ってなんだっけ?」
「結婚は法律で守られているの。それを破った罰せいで苦しんだ相手に対して支払われる賠償金よ」
「それって、高いの?」
「相手によるんじゃないかな」
慰謝料を支払うことから数学の先生が逃げているのだとすれば、それはよくないことだ。
三枚目のカードを捲ると、ペンタクルの五の正位置が出た。
意味は、困難。
厳しい状況で孤立していくという意味がある。
『その先生は今後、孤立していって、仕事もしにくくなるだろうね』
それを自業自得だと言ってしまってもいいのだが、せめて黒い影くらいは祓いたい。
私はそう思っていた。
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