第5話


 リリィは目を覚ました。何かがおかしい。眠気は一瞬のうちに飛んでいった。部屋の中はまだ薄暗かったが、ベッドの脇に人が立っているのが見えた。背の高さから、その人影が夫でないことはすぐにわかった。



 ついにこのときが来てしまった。状況を理解したリリィは、考えるよりも先に、隣で眠る息子のルビィを守るように抱きかかえた。目を閉じ、来るはずの衝撃が来ないまま時間だけが過ぎる。



「あなただったのか」



 男の声がして、リリィは目を開いた。



「私だったら何? 見逃してくれるのかしら」



「質問に答えれば見逃してやってもいい」



「優しいのね。あなたをにがしたのはエルサでしょう? 私はただ彼女を手伝っただけ」



「殺してほしいのか?」



「いいえ。でもあなたが望む答えはあげられない。残念だけど、あなたの妹を治すことはできないわ」



「……そうか」



 朝日が差し込み、男の金色の瞳が僅かに揺れるのが見えた。彼は落胆を隠すように目を閉じ、再び開かれたときには、もう動揺の色は消えていた。



「伯爵はどの部屋にいる?」



「廊下の突き当たりよ」



「……いいのか?」



「ご自由に」



 リリィは興味なさそうに言って、また眠りに戻るように目を閉じた。

 男が部屋から出ていく気配がした。それから少しして、物音が微かに聞こえてきた。夫はアヴェイラム派の議員だから、これまでのやり口からすると四肢を切断されたのだろう。今は失血死しないように治療されているはずだ。

 研究者は殺し、政治家は四肢を奪うのが彼のやり方だ。



 それからまた少し経ち、庭の方から音がした。窓から飛び降りたらしい。鮮やかな手口だった。屋敷に侵入してものの数分で、大きな音を立てることもなく犯行を終えたのだ。



 外がだいぶ明るくなった頃、リリィは体を起こした。眠るルビィの頭を優しく撫でてからベッドから抜け出し、もうずっと入っていない夫婦の寝室に向かった。






  *






 朝、学園に到着し、馬車から降りて校舎に向かう途中、僕を呼ぶ声が聞こえてきた。声の方を振り向くと、門の近くにアバグネイルが立っていた。前に会ってからまだ一週間も経っていない。こんな朝早くに待ち伏せしていたということはまさか……。



「新たな犠牲者が出たんです。今すぐいっしょに来てください」



 切羽詰まった様子でアバグネイルは言った。僕は黙って頷き、アバグネイルについていく。

 門から少し離れたところに馬車が一台停まっており、アバグネイルに続いて乗り込んだ。ベイカーは乗っていない。アバグネイルが言うには、ベイカーは現場に残っているとのことだった。



 馬車での移動中にアバグネイルから事件の詳細を聞かされる。犠牲者は一人。アヴェイラム派閥の有力貴族であるリビィ家の当主だった。



 犯行場所は、アルクム通りと交差する道を北に上っていったところにあるリビィ家の屋敷内、夫妻の寝室にて。四肢を切断され、傷口を治療された状態で動けないところを、別の部屋で息子と寝ていた夫人が発見したそうだ。



 息子の名前はルビィ。数年前に起きた連続誘拐事件の被害者であり、僕とヴァンによって救出された大人しい少年だ。あれ以降、学校で顔を合わせれば声をかけるくらいには親しい。この前も演劇団のために脚本を書いてもらったばかりだ。



 今ルビィは家にいるのだろうか。父親が被害に遭った心境はどれほどのものか。惨たらしい光景を目の当たりにした彼の心境は想像が及ばない。



「乗り込み口、少し開けてもいいですか?」



 右を向いてアバグネイルに尋ねる。



「ええと、現場はもう少し先だけど……」



「クインタスがこの道を通ったかもしれないので、念の為、痕跡の確認を」



「そういうことだったら、もちろん構いませんよ。落ちないよう十分に気をつけて」



 僕はドアを開け、枠に手をかけて身を乗り出した。目を魔力で強化し、地面を見るが、魔法の残滓を確認することはできなかった。

 つまりクインタスはこの道を通っていない……と断定することは、残念ながらできない。もしやつが身体強化魔法を使わずに逃げたとしたら残滓は確認できないからだ。急いで逃げたなら使っている可能性が高いが、徒歩や馬車で現場を離れていないとも限らない。



「ダメですね」



 僕は腰を下ろし、肩をすくめた。



「そうですか……」



 アバグネイルは残念そうに息を吐いた。











 馬車は速度を落とし、やがて止まった。ドアを開けて飛び降りると、蹄鉄ていてつが石畳を叩く音を聞きつけたのか、ちょうどベイカーが屋敷の玄関から出てきた。



「やあ、ロイさん。おはようございます。待っていましたよ」



 家に招いた友人を出迎えるかのような気軽さで、ベイカーが言った。殺害現場とは思えない落ち着きっぷりは、気負った様子のアバグネイルとは対照的だ。



「おはようございます。状況は?」



「今ひと通り使用人たちの証言を聞き終えたところです。ご主人は意識を失っていますが、医者が言うには命に別状はないようです。犯行の手口から、クインタスによるものであることはほぼ間違いないでしょう」



「それほどの剣術と治癒魔法の腕を併せ持つ者は彼以外考えにくいですからね」



「はい。第一発見者はご夫人のリリィさん。彼女は夫妻の寝室ではなく、お子さんのルビィさんの寝室で寝ていたようです。明け方に夫人が物音で目覚めると、犯人がベッドの脇に立っていて、今にも切りかかる寸前だった。彼女は隣で眠るルビィさんを守るように抱きしめ、目を瞑っていると、犯人は何もせずに部屋を出ていったそうです。夫人はしばらく部屋で放心していたようですが、ご主人の安否が気になり、夫妻の寝室へと向かいました。そこで血だらけのベッドの上に横たわる四肢の切断されたご主人を発見したというわけです」



「明け方の犯行ですか。つまり、まだ2時間も経っていないということだ。それくらいなら魔法の残滓はまだ残っているはずです」



「それはよかった。では、すぐに3階の寝室へ向かいましょう。時間が惜しいですから」







 リビィの屋敷は僕の家と構造は似ているが、雰囲気はまるで違った。

 直截ちょくせつな物言いをすれば、不気味だ。玄関から夫妻の寝室へと向かう道中、いたるところに人形が飾られていて、それらに見張られているという感覚が背筋を寒くした。



 3階まで上り、廊下を歩いていると、前方から女性が歩いてきた。広がりの少ないカジュアルな黒のドレスを着ている。彼女がリリィ・リビィか。恐ろしいほどに整った顔立ちをしている。夫が大変な目に遭った直後だからか、顔色が良くない。動かずに座っていたら、陶器人形の一つと見紛いそうだ。



「リリィさん。こちら、先ほど話していた、捜査関係者のロイ・アヴェイラムさんです」



 ベイカーが僕をリリィに紹介した。僕の名前を聞いて彼女は目を見開いた。本当に人形だと思っていたわけではないが、彼女の人間らしい反応に僕はどこかホッとする。



「はじめまして、ロイ・アヴェイラムです。お悔やみ申し上げます」



「まあ、これはご丁寧に」



 彼女の声は意外にしっかりしていた。



「勝手に上がり込んでしまい、申し訳ない」



「いいえ。もう一人来ることはベイカーさんから聞いてたから。ただ……まさかあなただとは思わなかったわ」



 僕だとは思わなかった……か。捜査関係者が来ると聞いていたのに現れたのが子供だから驚いた、というニュアンスではなく、僕個人に限定しているような物言いだ。ああ、そういえばルビィの母親はエルサと同じ研究所の研究者だったか。



「たしか母の同僚だとか?」



「ええ、そうなの! エルサとは学園の頃からずっといっしょなのよ」



 リリィが嬉しそうに言った。まるで恋する少女のような表情だ。さっきまでの人形のような印象はにわかに消え去った。



 エルサに仲の良い友人がいるなんて想像もつかないが、彼女にだって学生時代はあったのだと気づかされる。エルサはどんな学生生活を送っていたのだろう。気になったが、ベイカーの咳払いで当初の目的を思い出した。



「リビィ夫人は母と仲がよろしかったのですね。またぜひ、お話を聞かせてください」



「ええ、またすぐに」



 リリィは僕に目礼をすると、階段の方へと歩いていく。しっかりとした足取りだった。クインタスからルビィを守ったという話だから、心の強い女性なのかもしれない。






 廊下の突き当たりが夫妻の寝室だった。ドアは中から施錠してあったのか、ノブのところが綺麗に切り取られていた。クインタスはワイズマン教授の腕を魔法の剣で容易く切り落としていたから、それでやったのだろう。



 中に入ると、焦げ臭さが鼻をついた。



「なんか、ステーキのような香ばしい匂いしません?」



 僕の後から入ってきたアバグネイルが鼻をすんすんと鳴らす。



「切断した手足を焼いたんだろう」



 ベイカーが何の気負いもなしに言った。それを聞いたアバグネイルは、うっとうめき声を上げ、手のひらで鼻を覆った。



「見たところ燃えカスは残っていないようですが……」



 僕は部屋を見回しながら疑問を口にした。

 赤黒い染みが広がる寝具やカーペット。寝台の棚に座る、肌や服を赤く汚された少年の陶器人形。炭になった主人の手足は見当たらない。



「おそらくですが、血が垂れないように切断面だけ焼いてから持ち去ったのでしょう。その場で燃やすのがクインタスの手口ですが、現場からやや離れた場所で燃やすケースも過去にはありました。今回もその可能性は高い。夫人に目撃されたのもあって、時間的な余裕もなかったのでしょう」



 聞けば聞くほど、クインタスの異常性が浮き彫りになる。まだ薄暗い明け方、街で切断した手足を持った男に遭遇することを想像すると恐ろしい。



 しかし、成人の両手足となると、かなりの体積をとるし、何より嵩張かさばる気がする。布袋か何かが欲しいところだ。



 まあいい。推理は巡察隊の役目だ。僕は僕の役目を果たそう。

 僕は目を魔力で強化した。シーツや捲れ上がった掛け布団には大きな血の染みが付着しているから、主人の手足が切断されたのはそのあたりだろう。魔力で強化された目で見ると、予想通り、オレンジ色の蛍光色が付着しているのがはっきりと見えた。

 身体強化魔法によって残る色にしては濃いような気がする。魔法剣を使うと魔法の残滓は高濃度になるのだろうか。



 床に視線を落とすと、カーペットにも魔法の残滓が付着している。部屋の入口からベッドまでと、ベッドから窓まで跡が続いていた。この跡から判断すれば、犯行後クインタスは窓から脱出したように思える。しかし窓は閉じられていた。



「魔法の残滓というのは確認できますか?」



 ベイカーが僕に問う。



「入口からベッドに向かって跡がついています。ベッドの上が一番濃い。ベッドから窓に向かって移動した形跡があります。窓から逃走しようとしたように見えますが……閉じられているのは腑に落ちませんね」



「ふむ、それでは窓から飛び降りて逃走したと考えて良さそうですね」



「どういうことですか? 窓は内側から鍵がかけられているようですが?」



「いえ、それは私が閉めました」



「はい? 閉めた? なぜそんなことを?」



 証拠を消してしまうようなベイカーの行動に当惑する。



「ロイさんの能力のことは、まだ信用していないと言ったでしょう? だから試したのですよ。窓が閉められた状態で、クインタスが窓から逃走した痕跡をロイさんが見つけることができれば、能力が本物だとわかる、というわけです」



 油断ならない男だ。



「……理解しました」



「疑ってすみません」



「いえ、構いません。必要なことでした」



「そう言っていただけてよかったです」



 抜き打ち検査みたいで良い気はしないが、未知の能力を重大な捜査に組み込もうというのだから、妥当な行為だ。僕としても信頼を手っ取り早く得ることができてよかった。








 裏庭に出て寝室の窓の真下あたりを調べると、建物から5歩ほど離れたところの芝がめくれ、その下の土が露出していた。

 クインタスが着地した跡だと思われる。魔眼で見るとその部分の光が一番強い。着地する瞬間に強めに身体強化をしたらしかった。今度試してみよう。



「向こうの方に逃げていったようです」



 僕は跡が続く方向を指差した。着地した場所から、建物に対して残滓が平行に延びている。



「とすると、林を抜けたらしいね」



 ベイカーがすでに葉の落ちた雑木林を睨みつけた。



「警部、どうします? クインタスが道のないところを逃げていったとしたら、馬車で追いかけるのは無理じゃないですか?」



 アバグネイルが困ったように眉を下げた。



「足を使うしかないだろうね。骨の折れる仕事になりそうだ。ロイさん、かなり歩くことになると思いますが、構いませんか?」



 今日は学園を休むことになりそうだ。優等生と名高い僕の評判に傷がついてしまうだろうけど、我慢するしかないな。



「構いませんが、学園への欠席の連絡だけお願いできますか?」



「隊員を一人、学園へ送っておきましょう」



 僕とベイカーとアバグネイルの三人は、雑木林の方へと歩き出した。

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