第9話


 学校が休みの日、朝からエルサの書斎に来て、ソファに座ってぼうっとしている。生徒会のあれこれを全部投げ出し、魔法学に集中しようと思ってここを訪れたのに、リーゼやヴァンに言われたことが頭の中を好き勝手に泳ぎ回っていて、僕の注意を逸らし続けている。



 ソファから立ち上がり、部屋の中をぐるぐると歩き回る。エルサの机の前で足を止めた。

 机の上は乱雑に資料や筆記具などが置かれているが、僕が最初にこの部屋に入った二年前と比べれば、だいぶ整頓されていると言ってもよかった。

 左側に大きなオイルランプが置かれている。

 『昼間のような明るさ』とうたい、中流階級以上をターゲットに飛ぶように売れている商品だと、新聞で読んだ覚えがある。誇張された表現ではあるが、蝋燭や古いオイルランプと比べれば数倍の明るさがあるのは確かだった。

 ガラス製の風よけを取り外し、火打ちがねを使って火をつけた。



 椅子に座り、ゆらゆらと揺れる炎を眺めれば、なんとなくリラックスした気分になってくる。

 そもそも意見がニ対一で僕が不利だからと言って、僕が間違っているわけではないはずだ。僕が生徒会長として犯人を捕まえるなんて言い出したら、教師にだって止められるだろう。

 子供の出る幕じゃない。

 巡察隊や政府のしかるべき機関にでも任せるのが正解に決まっている。だって彼らはそれが仕事なのだから。 

 でも、それとは別に僕には僕の問題があることにも気づいていた。

 知り合いの死を自分の立場を向上させるために利用することが倫理に反することを、僕は知っている。知っているのに、ときどき自分でも驚くほど無頓着になって、目的の達成のために人に咎められるような手段を選択してしまう。

 そして一番の問題は、僕自身がそのことを悪いと感じていないことだった。

 就任式のときも、人の気持ちを無視して突っ走ってしまった。自分の感情すらも置き去りにして。

 普段なら石を投げられれれば僕だって怒るはずなのに、あのときはそれすらも利用し、どうすれば生徒たちから激しい感情を引き出せるかを考えていた。



 右手で石をキャッチしたときの感覚が思い出される。手のひらを見つめると、思考が切り替わっていくのを感じた。

 そうだ、そういえばあのとき、飛んできた石を掴む前に咄嗟に無属性魔法を右手に纏わせたのだったな。そのおかげか、衝撃はほとんど感じられず、丸めた紙でも投げられたのだと勘違いした。あの現象を掘り下げていく必要がある。



 僕は左手に無属性魔法を発動させた。

 何か適当なものをと思い、机の上を見れば、先ほど使用した火打ち金が目についた。

 火打ち金を右手で握り込み、無属性魔法を纏っている左手の平を強めに殴った。

 やはり期待よりも衝撃は軽い。

 手の平だと少しわかりにくいと思い、今度は手の甲で試してみたところ、やはり無属性魔法によって衝撃は和らげられているようだった。



 次に、無属性魔法の厚みを増やしてみる。体から距離が離れるに従って操作は難しくなるから、厚くするにはそれなりに集中を要する。

 冬だというのにこめかみから汗が浮いてきた。この状態で手の甲を、今度は思いっきり殴りつけた。

 すごい。痛みがない。なんだこれすごい。

 集中は途切れ、厚くしていた無属性魔法はべちゃっと潰れ、もとの薄い膜になる。

 実際に何に使えるのかは置いておいて、子供心をくすぐられるすごく強い技を習得した気がして、気分が高揚した。



 ふと、オイルランプの炎が目に入る。

 いいことを思いついた。運動エネルギーに効果があるなら熱エネルギーはどうだろう。

 そう思い立ち、僕は厚みのある無属性魔法で覆った左手を火にかざした。

 熱くない。

 さらに手を下ろしていき、火先に手の平が接触した。

 熱は感じる。熱い。でも耐えられないほどではない。

 これは、かなりすごいことなのでは? この無属性魔法の正体を突き止めたら、応用する先はいろいろと考えられそうだ。ワクワクしてきた。

 しかし、どうやって突き止めるのか。それが問題だ。

 現象の発見や理論の提唱は、もちろんそれ自体が素晴らしい偉業である。

 しかし、その原理を解明したり証明したりすることは非常に難しいことも多く、数世紀単位の年月を要することも珍しくはない。現在も数多くの現象や理論は未解明のままそこらに転がっていて、偉大な魔法学者たちによって日夜研究が進められているのである。



 魔法学分野における未解明の謎の中に、有名なものがある。『統一魔力理論』、略して『統一論』と呼ばれるものだ。

 大昔の魔法哲学者によって提唱されたこの理論は、もう1000年以上も解き明かされていない。大勢の魔法学者が『統一論』に魅了され、人生を費やし、敗北してきた過去があり、その悪名高さから、『統一論』の正しさを信じ、証明しようと試みる統一論者たちのことを、悪魔と契約したと揶揄する声すら上がるほどだ。

 魔法学を研究する者なら誰しも『統一論』にロマンを抱いた経験があるという。しかし、誰もが足を踏み入れることを躊躇する。

 僕も、その存在を初めて知ったときのドキドキを覚えているnが、同時に恐ろしさも感じた。過去から現在まで、統一論者様方には頭が下がる思いだ。



「――なんだ来てたの――ってロイ! 何してるのっ!?」



 遠くで何かが聞こえた気がして、思考の海から現実へともどってくる。



「痛った!」



 左手に鋭い痛みを感じて、手を引っ込めた。無属性魔法は切れていた。

 誰かが僕の左手首を掴んだ。



「あなた何してっ――ちょっと来なさい」



 手首を掴んだ人物――エルサは僕を引っ張って立たせると、そのまま僕を引き摺るかのごとく廊下に出て、一階へと下りた。

 手の平はジンジンと脈打つように痛みを訴えているが、それよりも掴まれたままの手首の方が気になった。気持ち悪くなってきて、手を振り解く。

 エルサが立ち止まり、振り向いた。彼女はショックを受けたように目を見開いている。



「あ、いえ、自分で歩けますので」



 なんとなく、僕は言い訳をするように言葉を並べた。



「そう」



 エルサは、さっきの表情は見間違いだったのかと思うくらい、いつもの彼女に戻り、再び歩き始めた。

 彼女に後をついて歩き、一階にある一室に連れていかれた。入ったことのない部屋、使用人の家事道具などが置かれた物置部屋だ。ここは水道が通っていて、水の出る蛇口が取り付けられている。

 衛生観念の発達により、近年王都では、貴族のタウンハウス向けの上水道の需要が急速に高まっており、この屋敷にも去年水道が引かれたのである。

 水仕事をするための水汲み場として使用人に頻繁に利用されているが、僕には縁のない部屋だった。

 エルサが蛇口の栓を抜くと、水が流れ始めた。



「やけどした後はすぐに冷やすといいらしいから」



 僕の方を見ずにエルサは言った。

 どうやら、やけどしたところを水で冷やしなさいと言っているらしい。



「そうですか」



 僕は左手を流水にさらした。冬の水の冷たさに驚く。

 母とは魔法学のこと以外に共通の話題がないから、一度書斎を離れたら、何を話していいのかわからない。会話はそれっきり途切れ、水が流れ落ちる音だけが部屋に響いている。



「あなたは……」



 エルサが沈黙を破った。しかし、躊躇するように声が止まる。



「はい」



 僕は先を促すように返事をした。



「――どうして、救済運動を始めたの?」



 エルサが魔法学以外の話を僕に振ってくるのは珍しい。なぜなら彼女は、この家にも、自分が産んだ子供たちにさえ、かけらも興味を持っていないからだ。そんな彼女が、まるで僕と普通の会話をしようとしているみたいで、気味が悪かった。

 それとも、救済運動はエルサですら気になるほどに街に浸透しているということだろうか。

 ただ、あれを僕が提唱したことになってはいても、僕自身にその意図はなかったのだから、始めた理由を問われても答えに困ってしまう。



「親しかった後輩が無惨に殺され、あまりにもかわいそうだったので」



 僕は適当に、聞こえのいい理由を述べた。

 この前リーゼたちに糾弾されたばかりでもこんな白々しいセリフが吐ける自分には、もはや感心する。

 手の感覚がなくなり始め、僕は一度蛇口から出る水から手をよけた。



「ふぅん。大層な理由じゃない」



 エルサは心底どうでもよさそうに言った。僕の答えが気に入らなかったのかもしれない。エルサからはさっきまでの探るような雰囲気は消え失せ、いつもの調子に戻ったようだった。

 親子だからといって無理に会話をしようとしても気まずいだけだから、やはり僕たちの関係というのはこれくらいドライな方がいい。そう思うのに、エルサの目が、生徒会室を出ていくヴァンの、失望したような目と重なり、焦燥感が込み上げる。



「別の理由がよかったですか?」



 僕はエルサを引き留めるように、彼女の背中に声をかけた。



「後輩のことを想って始めたのでしょう? 素敵なことじゃない」



「でもエルサさんは僕の言ったことに納得していない」



「納得していないわけじゃない。ただ私は――ロイのことを何も知らないから」



 それはエルサが関わりを持とうとしなかったからだ。魔法学が無ければ僕たちはなんの繋がりもない。親子としては冷めた関係だが、それが悪いことだとは思えないのは、僕がこの家庭環境に慣れてしまったからだろうか。

 僕がアンジェリカの死を利用するような子供だと教えたら、彼女はどう思うだろう。ひどいやつだと思うだろうか?

 いや、きっと変わらない。エルサは僕の人間性なんかに関心などないのだから。



「殺されたアンジェリカの首にはアヴェイラムの文字が刻まれていたらしいですね」



「え? ええ、そうね」



「その話が広がってから、学校で僕の立場が悪くなったんですよ。それがちょうど生徒会長就任式の少し前でした。だから、僕は彼女の死を利用して生徒たちの信頼を勝ち取ることにしました。その結果が救済運動です。今度は納得できましたか?」



 僕は包み隠さずに真相をさらけ出した。なぜよりにもよってエルサに話しているのか、わからない。

 自暴自棄になっていることを頭の片隅では自覚しているのに、感情がコントロールできず、足が地面からわずかに浮いているような感じだ。

 僕はやけどした手の平を、再び流水にさらした。



「あなたは納得しているの?」



「誰も損はしていませんよね。このことを僕が黙っていれば」



「私はロイ自身が納得してるか聞いてるんだけど」



「僕がどう思うかに意味はありますか? 世界一心が邪悪な人でも、生涯善行を繰り返せば、聖人と讃えられながら死んでいくでしょう?」



「たぶんその人は、最初は世界一悪い心を持ってたけど、いいことをしているうちに最後には本当にいい人になってたんじゃない? 反対に、悪いことを繰り返してると心も悪い方に向かっていくよ。だからもしロイ自身が悪いことをした自覚があるなら、それを繰り返せばいい人からは遠ざかっていくと思う。私みたいにね」



 エルサは自嘲気味に小さく笑った。



「それってどういう――」



「もう十分に冷えたんじゃない?」



「え? あ、そうですね」



 流水から左手を離した。手を振って水滴を落とす。

 最後に手を服で拭おうとすると、エルサがハンカチを差し出してきたから、少し躊躇したけど、結局受け取った。

 僕が手を拭いている間に、エルサが蛇口に栓をして、水を止めた。



「えっと、それじゃあ――私はもう行くから」



 エルサがぎこちなく言った。



「えっと、僕ももうここに用はないです」



「そ、そうよね」



 なんとなく居心地が悪くなり、僕たちは部屋を出た。

 二人とも書斎に向かうということで、道中気まずさは継続した。歩くスピードをわざと遅くして距離を空けようとする自分をおかしく思いながら、もしかしたらエルサも僕と同じ気持ちで早歩きをしているのだろうか、と先を行く彼女の背中を見ながらぼんやり考えた。

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