第6話


 朝起きると体のだるさは少し残っていたが、頭痛や吐き気は治まっていた。

 呼吸をすることで空気中に溶け込んだ準位の低い魔力――これを魔素という――を魔臓が取り込み、魔臓内でエネルギーの準位を上げることで魔力となる。

 それを繰り返し、少しずつ魔力は回復していく。

 睡眠中は魔臓が活性化し、魔力の回復速度が上昇する。



 魔臓の能力には個人差があるらしいけど、一晩でしっかり体の調子が戻っていることから、僕のは結構性能がいいんじゃないかな。

 ある分野の向き不向きって、初心者のときの成長速度で大体わかる気がする。

 もちろん早熟だったり遅咲きだったりもあるから確実なことは言えないんだけど、少なくとも僕は今のところいい感触を持っている。

 早々に投げ出すことにはならなくてよかった。



 それじゃあ基礎体力向上訓練ダイエットを始めますかね。

 僕はこれから毎日、学園に行く前と帰った後にランニングをすることにした。

 目標は10kmだ。

 ランニングと言ったら10kmだからね。






 うっぷ、気持ち悪い吐きそう。

 だめだ、僕もう走れないよ。



 はーあ、10km走るとか言ったやつ誰だよ。

 迷惑な話だ、まったく。

 8歳の子豚が10kmも走れるわけないじゃないか。

 世の中なめすぎだろ。

 そもそも前世の平均的な体力を持つ大学生の体であっても朝から10kmなんて走れる気がしない。

 おそらく今日は1時間かけて3kmも走ってないだろう。

 かなり落ち込む。






 家に帰り、メイドに用意させたお湯で汗を流し、パパッと身支度を整えてもらい学校へと向かった。

 今日も美しく後ろに流れる髪型がきまっている。

 メイドに礼を言うと、彼女はわかりやすく目を見開いた。

 昨日のヴァン・スペルビア少年もこのメイドも、小さなことで驚いてくれるから楽しくなってくるな。



 学校は家から僕の鈍足でも徒歩10分くらいで着けるところにある。

 送り迎えはしないように言ってあるから僕はひとりで登校する。

 公爵家の次男に対して、この扱いは本来ありえないはずだ。

 本人が不要だと言っても親はそれを許さないだろう。

 さすがに僕って放っておかれすぎじゃないか?

 僕が好き勝手に行動しても誰にも何も言われない。

 両親や兄と会う機会はめったにないから家の中で関わりがあるのはメイドたちくらいだけど、彼女らは仕事以外では僕に関わろうとしない。

 期待されていないにも程がある。






 学園に着き、教室に入ると3人の生徒が僕のところに集まってきた。

 僕ってこんな人気者だったっけ?

 もちろんそんなはずはない。

 名前は覚えてないが、アヴェイラム派閥の貴族の子供たち、要は僕の取り巻きだ。



「ロイ様、今日も良い天気でございますね」



 ブロンドヘアの爽やか系長身男子が最初に声をかけてきた。

 この少年は他の生徒とは違い、制服の左胸に金色のバッジを付けている。

 これは、直近の試験で上位5人に贈られる『女王の学徒』と呼ばれる記章だ。

 色が金ということは、首席を意味している。

 次席は銀、3位から5位が銅となる。

 つまり、この子は昨年度の最後の試験で成績トップだったということだ。

 ちなみに僕の制服の左胸には何もついていない。



「それにしても、わたくしたちも運がないですわね。ミリアとかいう平民の先生が担任なんて。ああ、これなら家でわたくしのせんぞくの家庭教師に教えてもらっていた方がとってもゆういぎだと思いますわ」



 次は黒髪の狐目のお嬢さんだ。

 このクラスはミリアという平民の教師が担任なのか。

 なんで僕はこの情報を今初めて知ったんだろう。

 昨日の僕は何をしていたんだか。

 そうだ、お菓子を食べていたのはよく覚えている。

 そう言えば今日はお菓子がまだ無いな。



「平民がボクらに何を教える気なのかなあ。貴族には貴族が教えるべきじゃないの?」



 最後は背の低いマッシュルームヘアのボーイだ。

 去年もこの三人と行動を共にしていたのは覚えている。

 マッシュルーム君は慣れた手つきで鞄からクッキーを取り出し、僕の机の上に置いた。

 僕は遠慮なく手をつけ……ようとしたが、引っ込めた。

 危ない。

 朝の努力が無に帰するところだった。

 習慣というのは怖いものだ。



「このクラスには平民が50人中26人もいるらしいですよ。学年で一番多いという噂です。ロイ様のクラスだというのに、学校も気が利きませんね」



 ブロンド君はいつも微笑を浮かべて口調も丁寧だから好少年に感じる。

 しかし、思い返してみるとこれまで結構辛辣なことを言ってた気がする。

 僕はスルーしてたけど。



「ボクたちはげきの主人公なんだよ、きっと。平民があばれないようにかんし役としてこのクラスに入れられたとしか思えないなあ」



 この子らは貴族至上主義だ。

 貴族は貴族の責務をしっかりと果しているから偉いんだよ、と言ってあげたいが、急に僕がそんなこと言ったら驚くだろうなあ。

 マッシュルーム君は可愛い顔して一番口が悪い。

 昨日まではこの会話に自分も混ざっていたんだ。

 聞いてて気分は良くないが、8歳児相手に本気で怒るのも馬鹿らしい。

 記憶を取り戻してからの学校におけるファーストミッションは、この子らへの対応ってところか。



 あれこれと考えを巡らせていると、ミリア先生が教室に入ってきた。

 それとほぼ同時にチャイムも鳴り、3人は渋々といった様子で席に戻っていった。






 進級して最初の授業が始まった。

 初等学校は座学が中心だ。

 算数、国語、魔法の知識、この国の歴史などを学ぶ。

 4時限のうち1時限は『体力向上を目的とした基礎訓練』という授業がある。

 長いから僕ら生徒はみんな『運動』と言っている。

 もちろん僕は毎回サボっている。



 今は算数の時間だ。

 口うるさい年配の女性の教師が、あくびが出るほど簡単な授業を行なっている。

 小学校の算数なんてインテグラルの尻尾の辺を持ってバットのように振り回せば一撃でしょ?

 オラっ!

 ほらみ……何っ、粉砕されないだと?

 なるほど、基礎は大事ということか。



 授業は60分で1日に4コマだったり5コマだったり。

 午前2コマ、昼休憩、午後2から3コマで、授業と授業の間に休憩時間を挟む。

 学食もしっかり完備した、王立小学校である。

 ここは12歳から通うことになるアルティーリア学園の附属校で、王都アルティーリアで一二を争う金持ち志向の初等学校だ。

 制服は有名ブランドのもので、結構高い。

 他にも入学費や授業料も高額だから、貴族か上流階級の市民しか通うことはできない。



 制服は自腹だけど、学食は無料だ。

 食の大切さをわかっているのは素晴らしいな。

 食堂のデザートは種類も豊富で味も良い。

 僕もついつい何個も取ってきてしまうんだ。



 公爵子息の僕が通っているくらいだから、国で最高峰の小学校であり、寄付金額はたぶんものすごいし、国からの補助金も最高額が与えられていることだろう。

 そのお金で優秀なシェフを雇うなんて、誰が決めたか知らないけど、気が利く奴だ。

 じゃあ学食だけじゃなくて制服も支給してくださいよって平民たちは思ってるかもしれないけど、そういうところのハードルを落とさないからこそ学園のブランドが保てるのかもしれない。

 ハードルは高ければ高いほど、「うちの子アルティーリア学園に通ってるんですぅ」なんて感じで親が他の親に自慢もできるし。



 でもこの附属校に入るには試験とかなかったけど、確かアルティーリア学園は受験しなきゃいけないんだった気がする。

 先生の中に「勉強する癖をつけておかないと、受験前に大変ですからね」と口癖のように言ってる人がいたような。

 あ、というか今授業してるこの先生がその人だ。



 記憶が戻らなかったら受験は危うかったかもしれない。

 それとも裏口入学があったり、内部生は形だけの試験だったりするんだろうか。

 僕んちのネグレクターズもこれまで環境だけは最高のものを与えてきてくれたけど、金を積んでまで進学させることはない気がするし、受験にうっかり落ちないためにも、お勉強も真面目にやらないとな。

 主に歴史の授業あたり。

 魔法も前世になかったからしっかりやらなきゃだが、3年生ではまだ習わない。

 魔法を実際に使うのは学園入学以降で、その準備として附属校の6年生でようやく座学が始まる。



 学園入学はまだ4年も先の話だけど、最初の魔法の授業は何をするのか今から楽しみだ。

 水晶触って魔力測定とか帽子被って組分けとかするだったら面白そうだなあ。



 なぜ初等学校では魔法を教えないのか。

 それは、11歳くらいまではまだ魔法を使うための体ができていないから、と聞いたことがある。

 魔力が体の中で動くと体に負担がかかると言われている。

 魔法を使うときは魔力が魔臓から体の外に向かって動くので体に負担がかかるから、小さい子にはまだ早いですよということだ。

 この話を聞くと魔力循環は体に良くないんじゃないかと思ってしまうが、イライジャ・ゴールドシュタイン師匠の見解は異なる。






 現代の魔法教育では、12歳ごろから魔力を使った教育をするのが体に負担をかけなくて良いとされています。しかし私は魔力循環の研究を進めるうちにその考えが間違っていることに気付きました。本当はこの本だけでなく公式に発表するべきでしょうが、上の人間がこれまでの魔法教育が間違っていたことを簡単に認めるかはわかりません。特に私の発言には耳を貸さないでしょう。魔力循環という邪道な研究や他にも既存の魔法学体系に囚われない新しい研究をする私は、学会では変人扱いです。まともに取り合ってくれる人はいません。そこで私はこの本を読むみなさんにだけでも伝えようと思います。



 ある日のことです。

 研究室からの帰り道で弱り切った犬を見つけました。

 まだ生まれたばかりの子犬でした。

 私はそのような場面に出くわしてしまうと放っておけないたちでしたので、子犬をそっと抱き抱え、我が家に連れ帰りました。


 とりあえず何か与えねばと思い、ミルクを与えようとしました。

 しかし困ったことに、子犬はいっこうに飲もうとしません。

 私は途方に暮れました。

 同時に疲れもドッと襲ってきました。

 その日は前日から徹夜で研究室にこもっていたので当然です。

 その頃は私もまだまだ未熟で、無意識に魔力循環を行なうことはできなかったため、意識的に魔力循環を行いました。

 体の疲れは幾分取れました。


 そこでふと、思ったのです。

 この子犬が魔力循環を行えばどうなるんだろう、と。

 私以外だったらこの考えには至らなかったでしょう。

 なぜなら世間では、魔力が体の中を動くと体に負担がかかると言われているからです。

 しかし私は魔力循環の研究をしていたので、その考えに疑問を抱き始めていました。


 もちろん子犬が自分で魔力循環を行なうことはできません。

 ですので、私は裸になって子犬を抱きかかえ、子犬も私の体の一部として魔力循環を行なったのです。

 私もそんなことをしたのはこのときが初めてでしたから、助かるかどうかは賭けでした。

 生まれたばかりの子犬に魔力を流したら死んでしまうかもしれません。

 しかし、そのときの私はそれだけ必死だったのです。

 そして私は、賭けに勝ちました。

 根気強く魔力循環を行い続けた結果、少しずつ、少しずつ、しかし着実に子犬は元気を取り戻していきました。



 この出来事が私の考えの生まれるきっかけとなったのです。

 その後、様々な動物や魔物とともに研究を重ねた結果、魔力が彼らの体に負担をかけることは一切ありませんでした。

 現代の魔法教育で魔法は12歳からとされているのは、家庭内で知識の乏しい保護者などの監督下において、子供が自分の魔力量を把握せずに魔法の練習をしたために死んでしまうという事故が過去に何件も起こっているせいです。

 学園のような、ちゃんとした指導者がいる場所ではそのようなことはほとんど起こらないでしょう。






 と、いうことらしい。

 例のごとく、この現象についてもこの後何ページにもわたって詳しい説明が載っていた。

 魔法を使うことが体に悪いのではなく、魔力が枯渇している状態が体に非常に負担をかけるのである。

 その状態から回復するには、魔臓に相応の回復力が備わっている必要がある。

 しかし、魔法を初めて触った子供の魔臓の回復能力は全く鍛えられておらず、いきなりベテラン向けの大仕事を任された新入社員のように現場でパニックを起こし、魔不全と呼ばれる魔臓の機能低下を招く。

 通常の数分の一まで処理能力が低下しているにもかかわらず、魔臓は呼吸によって空気中の魔素を取り込み続けるため、負のスパイラルを起こして体に様々な不調をきたす。

 運の悪い子供はそのまま回復せずに死んでしまうというわけだ。



 12歳から魔法を習うというシステムに変わってから子供の魔法使用による死亡事故がほとんど起こっていないのは、12歳という年齢が功を奏したのではなく、下手な家庭内魔法教育が激減したからだ、というのが師匠の考えだ。

 現行のシステムは、年齢による身体の成長によって魔法使用時にかかる負担が軽減される、という考えに基づいており、全くの間違いではないだろうが、師匠の理屈と比べると魔法学的根拠に乏しいと言わざるを得ない。

 12歳という年齢も完全に直感や経験則の類だ。



 べつに魔法を一刻も早く使いたい僕が、自分にとって都合が良い主張を推しているわけでは決してない。

 ちゃんと魔法学的根拠に基づいているのである。



 魔力循環トレーニングに関しては、杖によって自動で魔力が移動し消費される学園の魔法訓練とは異なり、自分の意思で自分の魔力を動かすのだから、わざと枯渇でもさせない限りは安全だ。

 だから僕は8歳でも魔法を使うのは諦めないのだ。

 魔法学を根拠に基づいているのであるからな。



 学会で干された師匠は、晩年は研究に時間を費やしながらもその成果を発表することはついぞなかった。

 本に書かれている数々の素晴らしい魔法理論が、彼の没後30年経った今でも一般に浸透していないのはそのためだ。

 『40歳から始める健康魔法』というタイトルの割に内容の専門性が高いのは、研究成果をどうにか世に出すための彼の苦肉の策だったのかもしれない。

 発行部数もそれほど多くないだろうし、ものすごく貴重な本だと思う。

 世界に1冊だけの本だったりして。



 あの本は、世に出れば人々の魔法に対する認識を大きく変えるだろう。

 この素晴らしさを伝えたいとは思うけど、今の僕が言っても誰も信用しない。

 なんと悔しいことか。

 でもいつか師匠の無念は僕が晴らしてみせる。



 算数の授業を真面目に聞いているふりをしながら、僕はずっと師匠の素晴らしさを伝える方法を考え続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る