第14話
「―――――――――――――」
一睡もできなかった。珍しく。
「(目が痛い……………)」
しょぼしょぼとした目で見慣れぬ景色を見る。急に吹いた風に思わずぶるりと体が震えた。
「(………もう秋だな)」
これからどんどん寒くなるだろう。青空はその眩しさをそっと潜ませ、優しく広がっている。夏は嫌いではないが、そちらの方が有難い。そんなことを考えていると、足元に何かがぶつかる感覚がした。
「お、っと」
「ぶわっ!」
幼い声がその場に響く。見ればまだ幼い少年が足元で目を回していた。
「いたた………ひっ」
少年の小さな悲鳴が聞こえた。内心哀しくなるが、まだ幼い少年からしてみればごつくて背が高い電柱が上から言葉を降ろしているのだ。そりゃ、怖いに決まっているだろう。確かにグレーゾーンの人間にあるまじき顔面をしているが、とはいえこの図体は、たしかに。
俺は息を吐き、ゆっくりと少年の目線まで腰を下ろした。
「大丈夫か?怪我はない?」
「…………だい、じょうぶ!」
「そうか、良かった」
そう言った瞬間少年がにかりと笑う。どうやら怖いもの認定は外れたようだ。俺は安堵して「ひとりか?」と問うた。
「ううん、おかーさんいる。きょう、おかーさんとどうぶつえんきたの」
「そっか。………何が好き?」
「ゾウ!かっこいいから!」
「渋いな。けど、いいよな。象」
「おじさんは!?おじさんもどうぶつえんきたの?」
「ああ。おともだちに誘われてね」
嘘は言っていない。行ってないが、なんだかこそばゆい言い方だと自分でも思う。
「そーなの!?ねえねえ、おじさんなんのどうぶつすき?」
「おじさんは……あんまり匂いがしない動物かな………」
正直、鼻が利きすぎるので動物園はきつい。きついが、一之瀬がここを指定したのである。あの状態の一之瀬を放っておける人間など、世界のどこにいるのだろう。
「(………もしかしたら、誰もが放っておくのかもしれないけど………)」
「におい?………あれ?おじさん、なんでおじいちゃんじゃないのにつえ、もってるの?」
「!あ、ああ。これは……………」
説明に惑う。その時、後ろから女性の声がした。
「あ!おかーさんだ!じゃあね、おじさん!」
少年は母親らしい女性の元に走っていく。「今度は転ぶなよ」とその小さな背中に言えば、少年はわざわざ振り返って手を思い切り振った。俺も返す。
「もー……いきなり走っちゃ駄目っていつも言ってるでしょ。怪我はない?」
「だいじょぶ!でっかくてつえもってるおじちゃんにぶつかっちゃっただけ!」
「杖?…………ああ」
視線がこちらに向くのを感じる。なんとなくいやで、視線を逸らした。
「ねえ、ママ。どうしておじちゃん、おじいちゃんじゃないのにつえをもってるの?」
「………あのね、あの人は………目が見えないのよ」
「そうなの?でも、……………」
「いい?ゆうちゃん。目が見えない人には優しくしなきゃだめ。ぶつかったら大変なことになっちゃうこともあるんだから、気を付けなさい。ねっ?」
「…………………」
聞くつもりはなかったが耳に届いてしまい、肩をすくめた。確かにそれは間違ってはいない。けれど俺は全部見えないわけでは無く、そこまで気を使ってもらわなくても生活していくことができる。
「(ああいうのって、悪意はないんだろうけど………やりづらいんだよな………)」
別に、普通にしてくれればいいのだ。みんな。いらんことまで思い出してため息を付いていると、目の前にグレーの頭が見えた。
「あ、」
「よう。待った?」
一之瀬が―――――――変わらない様子で、目の前に立っていた。六日ぶりの彼は、別に変わった様子はない。いつも通りサングラスを付けているし、寒いのかインナーがタートルネックになっている意外特に変化は無かった。俺は胸を撫でおろす。
「…………良かった、生きてた」
「言ったでしょ、妙な気は起こさないって。んじゃ行こうか」
すたすたと歩き始める一之瀬について行く。……共に過ごしているうちに、一之瀬にも変化があることはなんとなく気づいていた。彼はこっちの事なんか気にせずに何でもするイメージだが、最近それが「自然」なのである。
自然に自分のやりたいことをして、自然に俺の横にいる。
「(………あれ、完全に一之瀬なりに気を使ってたんだろうな)」
けれど、彼が自然であればあるほどこちらは安心できる。というより、気が楽だ。
「………で?動物園、行くんだろ」
「うん。行こ行こ」
―――――――とはいえ、昨日のあれからこれなので、真意はわからないのが難点なのだが。
「(………まあいいか。付いてこう)」
並んで歩く。一之瀬は珍しく無口で、俺も言葉を待つ。
「…………………」
気まずい。というより、こちらが動物園に慣れていないのもあり、どう楽しんでいいのかわからない。動物、基本的に動かないし。あと純粋に場所によっては鼻がきつい。今は寝そべっている豹を見始めて五分が経った所だ。
「(……そういえば俺、動物園に来るの初めてか?)」
そんなことはない、はず。確か本当に幼い頃、父と母と、妹と弟と一緒に来たような記憶はある。最もその後は自分で勝手に好きなものを見つけていったので、クラシックだの落語だの朗読だのメタルだのラジオドラマだのを楽しむようになっていったのだが。
「(……そう考えると新鮮だな…………)」
ちらりと横にいる一之瀬を見る。彼はぼんやりとあくびをする豹を見つめていた。
「………いつも、こんな感じなのか?」
「うん。水族館でもそう、一日ずーっと動物見てる」
「………飽きないか?」
「飽きないよ。可愛いじゃん」
そういうものなんだろうか。一之瀬は柵に両腕と顎を乗せて猫背でそれを見ていたが、不意に体を離した。
「よし、次」
「今度は何見るんだ?」
すたすた歩く彼はやっぱり背が丸い。くるりと振り向いた彼は、「ふれあいコーナー」と言った。
「………………………ん?」
「はい、じゃあおとな二名様、十分ですね。ごゆっくりどうぞ!」
「ども」
「…………?…………!?」
猫。猫がいっぱいいた、そこには。右を見ても左を見ても猫、猫、猫である。混乱している俺を見て一之瀬はからからと笑った。
「恭さん目ぇ白黒してるよ。リラックスしな」
「いや、あの、俺、こういう所は慣れてなくて…………」
「ただ時間内に思いっきり猫と戯れるだけの場所だって。猫、きらい?」
「………いや、実家で飼ってるから嫌いじゃない。むしろ好きだが」
「へえ、いいなー………お、なんだなんだ?」
その場にぺたんと座っていた一之瀬の膝の上に、さっそく猫が一匹乗って来た。太腿の当たりを前足で踏み、胡坐の真ん中に腰を落ち着ける。
「あーあー、動けなくなっちゃった」
そう言いながらも一之瀬はまんざらでもない声色で。その細い指で膝の上の猫の喉に触れた。猫はごろごろと喉を鳴らしている。完全に飼い猫との距離感だ。
そうしているうちにも一之瀬の横には、腰に頭をぐりぐりしてから腰を落ち着ける猫やら、足と床の間に無理くり入ろうとする猫やらでいっぱいになる。
「なんだよもー、そんなとこ狭いだろ?もっと広いとこにしなよ」
「にゃー」
「ここがいいって?しょうがないなあ」
完全に猫と会話している。随分懐かれるんだな、と言えば「おれ動物にはモテモテなのよ」と得意げに言った。
「近所の野良猫とも基本顔なじみだし。すごくない?」
「ディズニープリンセスかよお前」
「ディズニー見たことねえからわかんねえって。そいつらって野良猫にモテてるの?」
「そう言われると微妙だな………なんというか、動物全般?」
「すげえな。いいなー。おれもいろんな動物に囲まれてみたい」
一之瀬に倣って俺もその場に座る。………だが、あちらの方から寄ってくる様子はない。それどころか足を踏み越えてすたすたと別の方向へ歩いていく猫までいる。
「…………………」
「ふはは。置物かなんかだと思われてら」
「うるさい……………」
先程の少年もそうだったが、もしかしたら自分よりはるかに小さいものたちは自分の事を有機物だと認識していないのかもしれない。そう思うと少しグサリと来るものがある。
すると一之瀬がひとつ息を吐き、「仕方ないなあ」と言った。そうして己の横でくつろぎ場所を探していた猫をひょいと抱き上げ、俺に渡してきた。
「はい」
「え、いいのか?……………………?」
「うろたえすぎ。ほら、お尻の方支えてあげて、だっこしてあげて。……ほーらシロちゃん、恭さんだよ。でかいけど怖くは無いよ」
猫は暴れることなく、俺の手の中に納まった。ここにいる猫は基本的に人慣れしているんだろう、警戒心ゼロというよりはゲストおもてなしスタイルと言った方が正しいかもしれない。ビジネス懐きかもしれない。だが、純粋に手の中にふわふわとした命があるのが新鮮で、少し嬉しかった。
「…………………!」
膝の上に収まった白いふわふわとしたものに、恐る恐る触れる。ふわりとした感覚が指から伝わり、一種の感動のようなものが全身を支配した。
「…………か、かわいい…………!」
「だろだろー。動物は可愛いんだぞー?このあと犬触り放題と小動物触り放題も行くぞー」
「そんなにふれあいスペースあるのかよ………」
だが、悪い気はしなかった。パンダや象やキリンは遠目からかたちを捉えるだけで精一杯だったが、一時的接触というか―――――こうして己の手で触れられる場所に動物がいるというのは―――――来たかいがあるな、と思わせるだけの何かがある。
「しょうがない、犬も小動物も付きあおう」
「サンキュ。わんこは結構あっちから寄ってきてくれるよ。すげえ遊んでー遊んでーって顔してくんの。可愛いよ」
「犬はな。結構そういうとこあるからな」
「あと小動物コーナーはねえ。ヒヨコとかもいる。あとモルモットとうさぎ」
「……………うさぎ」
「そんなに構えんなって。かわいいから」
そういう意味の構えでは無いのだが。そう思った瞬間、膝の上の猫がにゃあんと鳴き、思わず口元が緩んだ。
「…………たまにはこういうのもいいな」
「へへ、良かった」
一之瀬はへらりと笑って、また猫に目を向けた。そのサングラスの下に慈愛に満ちた眼差しがあるのかと、勝手に想像した。
「いやー、買った買った」
ほくほく声の一之瀬の横を歩く。俺は結局、家の鍵に付けるようにふわふわのパンダの小さいキーホルダーをひとつ、姪に会った時のご機嫌取り用にキリンのぬいぐるみを買ったのだが。
「………お前、なんかでっかいの買ってなかったか?」
「パンダのパジャマ買った。完全に家で着てるやつよれよれだったから丁度良い」
店で見せてもらったが、チャイナ服をイメージした可愛らしい服だった。ああいうのは多分カップルでペアルックにするためにあるのだろうが、別に本人は可愛かろうが何だろうが気にしないらしい。
「つか、恭さんの服でけえんだよな。ズボンとかすぐ落ちるし。夜トイレ行こうと思って起きたらさ、ズボンがずり落ちて下の方でだるだるになって、んで廊下で転びそうになった」
「………それはさすがに盛ったろ」
「いや、あんた足長ぇんだよ。身長、いくつだっけ?」
「確か185」
「でけえよ」
くつくつと笑う一之瀬はしばらくそうしていたが、やがてその笑みをす、と下げる。
「………今日さ、泊まっていいかな」
「………好きにしろ」
正直、そう来るだろうとは思っていた。俺はなんとなく、今日で夜が終わるんじゃないかと心の奥の方で思っていた。
「………じゃあ、家行く前に飯食うか。何がいい?」
「クリームソーダ」
「メインだ、メイン。特になかったらファミレスになるが」
「賛成~。帰りにパンツ買いたいからコンビニ寄らせて」
………ちょっとでも彼といる時間を伸ばしたい、なんてことを考えてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます