朝の章
第12話
「千夜一夜物語みたいだよな」
「なにそれ」
カラコロと口の中でのど飴を転がしながら一之瀬は言う。奇妙な関係性が始まり、はや二か月の時が経っていた。彼は手に持っていたスマホを置き、机の上に寝っ転がるようにして伸びて見せた。夏は遠くからでもわかるような柄シャツを着ていたが、秋に入ってから無地のシャツの上に黒いスカジャンを纏うようになった。ちなみに背中にはやけにでかい虎がいる。このファッション性にサングラスとくれば完全に半グレの若造なのだが、うちに来てやっていることは物語の朗読である。まったく知らない人間が見たら混乱するかもしれないが、それが両立しうるのが一之瀬朔という男の不思議なところだ。
「千夜一夜物語……アラビアンナイトって言い方の方が有名かもしれないな。毎晩、王様にその妻が物語を語って聞かせる……っていう大枠で、様々な物語が語られていくんだ。朝日が昇るまでな」
「毎日!?朝まで!?うわ、やっば。疲れるだろそんなん!俺はやってるからわかるぞ、なんだったら三十分でも辛いし!」
「それはまあ、ありがとうな」
「どういたしましてだけどさ。え、なんでそんな無茶」
――――――――王の妻は不貞を知り、彼女の首を刎ねた。
それから次々に王は妻を娶っていくが、すっかり不信感の塊になってしまった王は一晩経つごとに夜を過ごした女の首を刎ねていく。
街からはどんどん若い娘が消えていった。そんな時、名乗り出たのが―――――
「シェヘラザード、という女性だ。彼女は王に嫁ぎ、他の女性たちと同じように夜を過ごすことになった。――――――――しかし彼女は、翌朝も生き延びた」
王に物語を語って聞かせる彼女。横で「面白いわ」と聞く妹。興味をいだく王。
寝所で彼女の言葉が響く。その言霊に妹の声が乗る。王の耳にそれは届き、月の光に照らされた彼の目の前には、砂漠と冒険が広がっていく―――――――
「――――――今宵は、ここまで」
彼女は佳境でそんないけずな事を言う。これからが面白いのに。もっと、もっと聞かせてくれないのか?
そんなことを思った王は、寝所に差し込む朝日に気づいた。もうこんなに時間が経っていたのか、なら、この続きは―――――――
「………続きは、また今夜。」
「そうしてシェヘラザードは生き延び、王の娘殺しは止まったのでした。ま、そういう感じの話だな」
「すげーなそのヒト。よっぽど生きたかったんだろうな」
一之瀬は感心したように息を吐きながら飴を音を立ててガリガリと食べる。情緒はないが、まあその通りである。
一之瀬はあれからたくさんの物語を語った。ずっと気になっていた銀河鉄道の夜、山月記、押絵と旅する男、エトセトラ、エトセトラ。それらは時に胸を躍らせ、時に寂しく、時に哀しく、時に救われたような気分になる物語たちだった。選んだのは自分だが、よくもまあここまで彼の声質に合うものばかり選んできたものだと思う。内心よくやったと感性を褒めてやりたい。
「えー、おれ恭さんに殺されたくなくて朗読してんの?それはやだなー」
「ただの例えだ、例え」
彼の朗読が朝までかかることは無い。そこまで長いものを要求したこともない。だから外が白み始めて「続きはまた明日」なんてことはないのだが、多いときは毎晩やってきたり、少なくとも一週間に一度は顔を出したり。そういう風に夜を超えてきた。少しだけロマンチストが過ぎたかと、今更ながら耳が熱い。
けれど、そんな名前を付けてしまいそうになるほどに―――――そういう日々が、純粋に楽しい。なんだかんだで俺は、彼との時間を心待ちにしているのだ。
「―――――そういやあさ、この人。シェヘラザードって、そのあとどうなったの?」
「ああ。王とそのまま添い遂げたらしい」
「自分殺そうとした男とよく結婚できるな。………じゃあ、終わりはあったんだ」
「?」
「殺されたくなくてずっとずっと、何年も何十年も語ってたわけじゃないんだなって。良かった。そんな状態で語り続けるのって、もうしんどいじゃん?」
息を吐く一之瀬は語り部に思いを馳せているらしい。俺は「まあ、何事にも終わりはあるからな」とありきたりな事しか言えなかった。
「王は改心した。そこで物語を紡ぐ千の夜は終わったんだろうさ」
「そっかぁ」
―――――――俺は少しだけ、ひやりとした。一之瀬との時間もまた、いつか終わりが来るのだろうか。………できることなら、先の話であってほしいものだが。
そういえば一之瀬は、あれ以来自分の話をしない。こちらから促しても「んー、まあまだいいかなって」の一点張りである。あまり無理強いするのも違うと思い甘えてしまっているのだが、……………
「(――――――――まあ、話したくなったら話すだろ)」
一之瀬が話す己の話は、いわば傷だ。それを話せと言うのは、暴くのは酷である。
「んぅ」
「あ、机で寝るな。というか口にもの入った状態で寝るな」
「もう飲んだ………」
「………お前ほんと、俺と話す時はIQ下がるよな………」
「恭さんの前でかしこぶる必要ねえっしょ………」
――――――――――まあ、そうなのだが。
「………せめてソファで寝ろ。風邪ひくから」
「ういー」
一之瀬が朗読後に寝落ちするようになったのは、少し肌寒くなってきたころからである。そういう所も大変動物的なのだが、毎回場所を問わず寝ようとするから困ったものだ。
「………今度、来客用布団買うか」
帰れ、と言わない自分も相当だと思う。俺は休日に思いを馳せつつ、一之瀬を見た。
「―――――――――」
サングラス、つけっぱなしだ。さすがに付けたまま突っ伏して寝ると後々痛いだろう。自分も学生の頃眼鏡でやったことがあるのでわかる。
「(…………取った方がいいよな、さすがに………)」
二か月。二か月だ。俺はまだ彼の瞳をじかに見たことが無い。朗読するとき、読みづらくないのかと何度も言ったことがあるが、彼は頑としてそれを外そうとはしなかった。だから気になる。ものすごく気になるのだが、俺が今これを取って二か月のすべてが失われる恐怖というのもまた、存在していた。
見たい。気になる。いやでも見られたくないんだからしてるんだし。
そういう思いをぐるぐる抱えながら、一之瀬にそっと手を伸ばす。もうすでに健やかな呼吸もどきになっていて、就寝目前だ。
「(―――――――声、かけるか。さすがに……)」
息を吐く。少しだけ緊張していた。
「………いちのせ、寝るなら、サングラス…………………」
むくり。
「……うわっ」
珍しく俺が驚く番だった。完全に寝の姿勢だった彼は、俺の一言で見事に覚醒した。それほど嫌だったかと思い彼の言葉を待てば、
「ん」
「………………え、あ、あの」
「―――――――取って」
――――――――――それは、お願い、にしか見えなかった。俺は高鳴る胸を押さえながら、「………いいのか?」ともう一度お伺いを立てた。
「ん」
一之瀬はこくりと頷く。なんとなく眠いから判断力鈍ってるんじゃないかと思わないことも無かったが、こういう機会は滅多にあるものではない。俺は震える手をどうにか抑えながら、水色のサングラスをゆっくりと外した。垂れ目か、つり目か、大きいか、小さいか、一重か、二重か、どんな―――――――
「―――――――」
一之瀬の目は―――――――――
「―――――――――なに」
切れ長、だった。少し色素の薄い瞳。なんとなく、爬虫類を思わせるものだった。
「―――――――っ」
爬虫類が、ぼーっとこちらを見ている。普段かけているはずのものが無い一之瀬の顔は、鋭いのに無防備だった。……………こんな顔してたのか。まったく別の所から答えが来たような感覚がする。今心臓がうるさいのも、だからだろうか。
「――――――おれさー………」
「はい」
思わず敬語になってしまった。眠そうな声で「人に目ぇ見られたくないのもあるんだけどさー」と続ける。
「ふつーに目つき悪ぃから、動物とかー……あと、こどもとかに怖がられるかもなーって……そんで付けてんだよねえ………」
思わぬ第二の理由の開示に目が丸くなる。そんな理由で付けていたのか。ふああと欠伸をする一之瀬の顔を、これ幸いとまじまじ見る。
「………そこまで悪く無いと思うが」
「いーや悪いね………凶悪顔だもん……恭さん垂れ目、羨ましいなあ………」
「逆に威厳が無いんだよ、俺は」
「いいじゃん……優しそうだし………セクシーだし………モテたろ」
本当に寝ぼけているらしい。なんとなく、一之瀬の口からセクシーという言葉が出てくることに驚いた。俺はこいつを何歳だと思ってるんだ。
「モテてない」
「嘘だあ」
彼女がいなかったと言えば嘘になるが。今振り返ってみると、彼女らが俺に向けてくれていた感情の多くは愛というよりは同情心の方が近かったように思う。彼女らの周囲には俺の他にそういう人はいなかったそうだから、同情心を抱いてしまうのはしょうがないのかもしれない。
そうは思っても、やっぱり俺にとって哀しかったのは事実だ。
『………恭介くんって、本当に私のこと好きなの?』
何度も言われた言葉が頭の中に蘇る。それでもちゃんと、好きだった。……はずだ。
「お前は?そういうの、無かったのか」
頭の中の言葉や表情を忘れるようにそう言えば、「青春時代を少年院で過ごしたもんで………小学校の頃……はあったかもしれないけど、んー」
そこでまた机の上でごろごろと転がり「あんまり覚えてないな」と話した。
「なんか、でっかいことばっか覚えてて。ちっちゃいことは片っ端から忘れてってる気がする。飯の好みとか、院であったこととか」
「――――――――」
俺は言葉に詰まる。ささやかなものを取りこぼしているのか、ささやかなものさえ見えないのか。どちらにしても少し寂しい話だと思った。
「――――――――でかいの捨てたら、どうなっちゃうんだろうな………」
「―――――――――え?」
「……………………」
寝た。規則正しい息を今度こそ立てて、彼は机の上で思い切り寝落ちした。時間を見ればまだ少し早い。風呂に入って出てくるまでには起きているだろうか?
「(なんか掛けとくか………)」
ソファに引っかけてある掛け布団を取り、そっとかけてやる。爬虫類の瞳は伏せられ、残ったのは年齢不相応な幼い寝顔だった。
「(………こいつ、俺といないときはどんな生活してるんだろうな……)」
思えば俺は、一之瀬の事をあまり知らない気がする。その過去、食べ物の好み、好き勝手さ、感情や労わりの不器用さ。そういう面しか知らない。それだけ知っていれば十分な気がするが、どうもまた核心に届いてはいない――――――そんな気がするのだ。
「(……まあ、でも。それでいいのかもな)」
一之瀬はつかめない存在のままでいいのかもしれない。核心まで行かなくとも、今上手くやれているならいいのだとも思う。
…………これが自分に言い聞かせているということなんて、とっくに気づいているのだが。
目下の所、俺は多分。深入りしすぎた時、彼を傷つけてしまうかもしれないのが一番怖いのだ。
「ん」
テレビで流れるブックランキングをぼんやり聞いていると、一位を取った作品の著者のインタビューが流れ始めた。どうやら顔出しは駄目なようで、アナウンサーから聞かれる質問にひとつひとつ、快活に答えていた。
『――――――それにしても、衝撃の内容ですよね。これはどういった思いで書かれたのですか?』
『そうですね……そもそもこれは、僕が過去と向き合いたくて書いた小説なんです。そこから、じゃあいっそのこと自分の人生を書いていったらどうなるかなって思って、そうしたら結構なページ数になっちゃったんですが』
「―――――――へえ、過去と向き合いたくて、か」
自伝小説、らしい。このご時世に芸能人でもないのに自伝小説がウケている……というのが、少し意外だった。そんなに人の心を引き付けるものがあるのだろうか。……衝撃的な内容、と言っていたし、センセーショナルさが持てはやされているのかもしれない。
「…………と、そろそろ時間か」
テレビを消そうとリモコンを探す。そうしている間にも耳にはインタビューが入ってきていた。
『でも、これって―――――先生に、実際に起こった事件……なんですよね?』
『はい。あの時は死ぬかと思いましたよ』
「―――――――あ、あった」
ぷつん、と音は途切れた。
「(今日、一之瀬いるかな…………)」
会ったらまた飯でも誘おう。結構子供舌なところがあるし、ファミレスとかでもいいかもしれない。いやでもやっぱり近いし喫茶店が良いか。他に好きなものあるんだろうか。蕎麦とか好きかな。そういえば前、肉が入ったうどんを美味そうに食べていた気がする。寒くなって来たし、そっちあたりでもいいかもしれない。
そんなことを考えながら職場まで歩く。そうして。
「ああ、一之瀬くんか。一週間お休みだよ」
「――――――――は?」
「意外。君、一之瀬くんと一番仲良いんだろ?知らなかったの?」
「――――――知らなかっ、た………です」
「よくわかんねえけど、なんか地元に帰るとかなんとか言ってたけど……ん?彼、家族いるの?」
「いや………縁切れてるっぽいですけど」
一之瀬の行動は突拍子もない。それはわかる。わかるが、これは理解できなかった。
彼にって良い思い出の無い土地であろう。それなのに、どうして休みを取ってまでわざわざ。
「………顔真っ青だけど。大丈夫?」
「だい、じょうぶです………」
ふうん、と言い、彼――――――最上さんは煙を吐いた。悪い人ではないのだが、かなりのヘビースモーカーなのであまりご一緒はしたくない。というか煙が甘い。
「……ま、一之瀬くんも頭ゆるふわだけど仕事はちゃんとしてるし?ガキじゃあるまいし、別に心配しなくてもいいだろ」
「別に、心配なんか―――――――――」
――――――いや、している。かなりしている。正直不安である。
俺のそんな様子を見抜いたのか、最上さんは「精々待っててやれよ」と言いながら頭をぐしゃぐしゃにした。
「わ。……たまにしますけど、自分よりでかい男の頭なんか撫でて楽しいですか……?」
「んー?楽しい楽しい。かわいいかわいい」
「適当だな、ほんと………」
けれども、彼の言う通りだ。そんなに心配しすぎることも無いのかもしれない。
「(………でも、出身地くらいは聴いておくんだったな………)」
「なんか変な顔してるけど。どした?」
「…………いや、別に。………普通に煙草の匂いがキツいだけです。めちゃくちゃ甘」
「あーこれ?彼女が置いてったやつ。見える?このド派手なピンクのパッケージ」
「………最上さん、付き合ってる人変わるとわかりやすいんですよね。露骨に匂いも変わるんで」
「やだぁ。嗅がないで」
「気持ち悪いからその声やめてください。情報、ありがとうございました。仕事してきます」
「今日なんだっけ」
「会食の裏口担当です」
「一番嫌なやつじゃ~ん。。いってら。死ぬなよ」
「死にませんよ」
少なくともこの一週間は死にたくないな、と頭の端で思った。
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