第9話 幕間2

しかし少年にはたったひとり、いえ、たったいっぴきだけ友達と呼べるものがありました。

それは、学校の隅の方で飼育小屋で飼われている、可愛らしい黒いうさぎでした。ふわふわとした毛並みで、仲間たちよりも小さく、ゆっくりとごはんを食べるうさぎでした。

少年はいつも、休み時間になると教室を抜け、校庭にも行けず、図書室にも行かず、誰にも見つからない場所でじっとしているのが常でした。誰にも会いたくなかったのです。ひとりぼっちでかくれんぼをしていた少年の足が、生き物が飼われていた場所に向いたのは彼が高学年になってからでした。


うさぎは全部で五羽。毛の色も性格も違う物言わぬ彼ら彼女らに、少年は少しずつ心を開いていきました。用務員のおじさんと顔なじみになって、小屋の掃除を手伝ったり、えさやりをしたりする日もありました。


「もしかしたら自分は、動物が好きなのではないか」


少年はある日そう確信しました。それからの毎日は楽しいものでした。

滅多に行かない図書室に足を運び、図鑑を手に取ってみたり。その毛並みを紙の上からなぞったことがあったり。テレビで動物の特集を組んでいると、チャンネルを変えないように頼んだり。父さんと母さんに頼んだら、次の休みに動物園に連れてってくれないかしらと想像して、布団の中で口が緩んだり。

少年を取り巻く日常は変わりません。頭が悪いと詰られて、叩かれるのはもう変わりません。

けれど少年にとってそんなことが気にならなくなるくらい、好きなものが見つかったのです。


「お前、最近楽しそうじゃん」

「え」

「彼」はひどくつまらなそうに言いました。先程まで少年は「彼」に水をかけられてびしょぬれになっていたのです。その時の彼は楽しそうで、早く終わらないかなと考えていたのですが―――――そんなことを言われるのは初めてだったので、面食らってしまいました。その日は風が強かったので、少年は先程からくしゅんくしゅんとくしゃみを繰り返していました。


「あーあ、つっまんねーなあ!」

「彼」はいきなり大きな声を出して、天を仰ぎました。少年にはわかりませんでした。だって―――――――少年の目からすると、彼は満たされているように見えたので。

「センセーもクラスの奴らも、みんなみんな俺の事、わかっちゃいないんだ」

少しだけ拗ねたようにそう言って、「なあ」と続けました。

「俺、お前といるときだけが楽しいよ」

おれはいやだよ、と少年は言おうとしたのですが、口を噤みました。また濡れるのは嫌でした。

「なあ、お前さ。何が最近楽しいの?俺にも教えてよ」

「彼」は少年にぐっと顔を近づけてきました。きっと言わないと、「彼」はまた自分を痛めつけるのでしょう。少年は言うか言わざるべきか悩んで、とうとうそれを言いました。「彼」はへえ、と楽しそうな顔をしました。

「動物、好きなのか?」

「………うん」

「そっか。」

「彼」はにこにこと笑って何度もうなずきました。少年にはわけがわかりませんでした。どうしてこんなに楽しそうなんだろう。それでもその笑顔は普段「彼」がクラスメイトに向けている笑顔に似たもので、なぜか少年は力が抜けていくのを感じていました。

「彼」はそのあと、殴ることなく帰っていきました。

あとにはびしょ濡れの少年だけが残りました。

ある日事件が起こりました。先生が沈痛な面持ちでみなさんにはなしがあります、などと言うものでしたから、さすがに賑やかなクラスもしんと静まり返りました。


「学校で飼っているうさぎが一羽、死んでしまいました」


クラスは一気にどよめきました。少年は血の気が引いていくのを感じました。

うさぎが?昨日はあんなに元気にごはんを食べていたのに?

どくどくと心臓が音を立てました。吐き気がしてきました。怖がる声、怒る声、困惑するクラスメイトの声が耳に一気に入ってきて、少年はもっともっと気持ち悪くなりました。

その時、す、と手をあげた生徒がいました。

「先生、俺犯人知ってますよ」

クラスが一瞬で静かになりました。それは「彼」の声でした。そうしてそのまま、断罪するように、少年を指さしました。

「――――――え?」

「俺、見たんですよ。昨日こいつがうさぎ小屋入っていくところ。それって、そういうことでしょ?」

クラスはもっとざわざわとし始めました。先生は精一杯なだめようと声を張り上げますが、それがかき消されるほどに言葉が飛び交いました。

「ああ……やりそう」

「!」

少年の後ろに座っていた生徒のひとりが呟いた瞬間、「それ」は瞬く間に広がっていきました。

「かわいそう」「どうしてそんなひどいことを?」「あいつが言うんだしそうなんだろ」

ざわざわ、ざわざわ。悪意が、小さな教室に満ちていきました。

「………ちがう!おれがっ、そんなこと……するわけない……!!!」

少年は声を張り上げました。けれどその声すら悪意に流されていきました。それでも少年は喉が痛くなるまで叫び続けました。

けれど誰も、少年を信じてくれる人はいませんでした。


放課後。少年は職員室に呼ばれました。担任の先生にどうしてあんなことをしたのかと、ずっと聞かれました。

「先生、おれ、やってないよ………」

「でも、うさぎ小屋には行ったんだよね?」

「行った、行きました、でも………」

先生はため息を付きました。息を吐いた瞬間少年はびくりと体を震わせました。

「どうしてそんな嘘をつくの?」

その瞬間少年は理解しました。自分の言葉は、いや、自分自身が、信用されていないのだと。

思わずぎゅっと拳を握りました。思わず涙が出そうでした。きっと認めないと先生は家へ帰してくれないでしょう。けれど少年は絶対に、それだけは認めたくありませんでした。自分が自分のせいで痛い思いをするのはいいけれど、あんなに可愛がっていたものを自分が傷つけただなんて、そんな嘘。少年には、許すことはできませんでした。

その時職員室の扉がガラリと開きました。ひょこりと顔を覗かせたのは、用務員のおじさんでした。

「■■先生、備品の補充でちょっと…………あれ?どうしたんだ■■くん」

おじさんはこちらに歩を進めました。少年は怖くなりました。この人も

自分を信じてくれなかったらどうしよう。ばくばくと心臓がまたうるさくなって、きゅっと唇を噛みしめて―――――――

「実は、」

先生がおじさんの方を向くや否や、少年は職員室から、それこそ兎のように駆け出していました。後ろのほうで「あの子がそんなことするはずないでしょう!」と声が聞こえたような気がしましたが、それだって自分の耳が勝手にそうやって受け取ってしまっただけかもしれません。少年はもうなにもわからなくなって、逃げて、逃げて、転がるように階段を下りて、そうしていつの間にかうさぎ小屋の近くまで来ていました。少年ははあはあと荒い息を整えるように、小屋を見ます。風は鬱陶しいほどに穏やかに拭いていて、少年は少しだけ落ち着いてきました。

「(お墓、あるかな………)」

あったらなにか備えたいな、なんて思いながら歩いている途中、ふと少年は思いました。

「(そういえばあいつ――――――なんて『殺した』みたいな言い方したんだ?)」

ぴたり、と足が止まりました。

「(本で見た。……うさぎはたまに共食いするんだって)」

そっちの方がよっぽどありえそうなのに。どうして?風の音がやたらと大きく耳に入って来たその時、小屋の方で動く影が見えました。思わずあとを追いかければ、そこには―――――――


「―――――――よっ」


カッターナイフを持った「彼」がいました。少年は足元から冷え切っていくような感覚に襲われました。

「なに、して…………」

「五匹もいるだろ、こいつら」

うさぎたちは小屋の隅に固まって震えていました。その数は四羽。黒い兎は――――――いました。他の体の大きなうさぎに弾かれて、一番手前にいました。

「一匹くらい、よくね?」

「彼」は笑いながらそう言いました。まさか。そこまでするやつだったのか。少年は頭に血が上って、頭は熱くて、足は冷えていて、ぐらぐらと視界が揺れていました。

「なあ、おまえ、こいつらと遊ぶの好きなんだろ?」

カッターを持ちながら「彼」が近づいてきました。

「じゃあ、こいつら全部いなくなったらおまえ、こいつらと遊ばなくなるよな?俺とだけ遊んでくれるよな?頼むよ、俺がさ、俺でいられるのはさ、お前の前だけなんだよ。こうでもしないと、毎日毎日いい子でいてさ、疲れるんだよ。な?」





「―――――――――知るかよ」







『速報が入りました。■■市■■小学校にて、児童による傷害事件が――――――』


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