第8話
「(………つか、れた………)」
よろよろと職場を出て帰路に付く。首を鳴らすと鈍い音が聞こえ、このまま骨が折れてしまうのではないかと妙な妄想が頭を駆け巡り、一人で笑う。………一応、一之瀬に留守電は残しておいたのだが。あいつ、ちゃんと聞いたかな。彼の事をぼんやり考えながら歩く帰路は、どうにも音が目立った。近所の子供の声、食器を洗う音、リーリーと鳴く虫の声。草木を揺らす風の音。そんなたくさんの音に囲まれていると、普段ならば落ち着くはずなのだが――――――今日は寂寞感が目立つ。
息を吐く。自覚はないが、人恋しかったりするのだろうか。
「(……………いや、無いな。それは………)」
できれば家で風呂を沸かして食事を作ってくれる人間がいたらと思う。そうしたら何も考えずに布団に潜りこむことができるのに―――――――
「(………結婚、とか…………いつかとは思ってたが、こういうタイミングなのかな……)」
―――――――しかし。そういうものが欲しいと思う反面、「これ以上誰かに迷惑をかけるのは嫌だ」という気持ちが先立つ。それなら一人でやろう、と思う。大体俺が欲しいものは多分、奥さんじゃなくて家政婦さんだ。それは結婚に対してあまりにも不誠実じゃないだろうか。
「……………なら、ひとりでいいな」
そちらの方が、大変だけど気楽だ。
かつかつと靴と杖が音を立てながら自宅へと近づく。玄関まで来たところで、何かが自宅前に丸まっていることに気づいた。一瞬、隣人の荷物かと思い。一歩近づいて、それが無機物ではなく有機物だとわかる。三歩目で嫌な予感がして、まさか、と思って小走りで近づけば、
「―――――――おまえ、何してるんだよ…………」
「…………あ、恭さん。おかえり」
いつも以上にふにゃふにゃした声だった。寝ぼけているのかもしれない。俺は色々な感情が綯交ぜになって大きなため息を付き、「………留守電、聞かなかったのか」とだけ呟いた。
「あー、聞いてねえ」
こともなげに言う。軽く殴りたい気持ちと罪悪感が一気に押し寄せてきて、また息を吐いた。
「…………風邪ひくぞ」
「夏だから平気っしょ」
「夏でも、だ。上がれ」
「お邪魔しまーす………」
苛立ってしまった自分に苛立ってしまう。鎮めるために深呼吸をして、居間に通した。
「麦茶でいいか?」
「…………やろっか?」
やってもいいなら、と付け加えた。俺はまだ収まらないまま「じゃあ頼む」と早口で言い、ソファに座る。氷がコップの中で跳ねる音と、麦茶が注がれる音が遠くで聞こえた。そうして徐々に落ち着いてきた。………気がする。
「お疲れ様」
「…………その、なんだ。待たせてすまない」
「いや?恭さん悪くないでしょ。おれが勝手に待ってただけ」
「………どのくらい?」
「一時間くらいかな」
「どうして待ってたんだ、あんな暗い中で…………」
俺が言ったから、だろうか。とはいえ、それでもいないのならどこかで時間を潰すとか、帰るという選択肢は無かったのだろうか。一之瀬はちびりと麦茶を飲んで、「なんつーかさ、帰りたくなくなっちゃったんだよね」と首を傾けながら言った。年頃の女子高生が言うならまだしも、この年の成人男性が言っても可愛げがない。
「いったん座ったらもう立てなくなったっていうか。なんか歩くのがだるくなってしゃがんでた」
「………それは、」
いや、違うな。どちらかというと、子供みたいだ。親の言う事を真に受けて、臨機応変さを知らない。しゃがみたくなったらしゃがみこむ。もしかして、いや、多分。
「――――――――おまえ、甘えたい……のか?」
つい、言葉になってしまった。しまった、と思ったが時すでに遅しだった。
一之瀬はそれを聞いて、首を回さずに視線だけでこちらを見た―――――ような気がした。疑念は自分の中で確信に変わっていく。昼間聞いた家庭環境の事を思い出せば、彼が甘えるべき時に甘えられなかったことは察することができた。でも、こんなに不器用なのか。今まで、どんな人間と接してきたんだ。なにを得られなかったんだ。
「そう見える?」
「…………見える」
「じゃあ、そうかもしれない。おれ、恭さんに甘えたいのかな?」
「断言はできないけど――――――――」
「ねえ」
また、顔が近づく。
「まだおれのこと知りたいって思う?」
頷いた。それは、断言できた。
「………………じゃあ、話そうか」
一之瀬自身も自分自身の事がよくわかっていないのかもしれない。そう思った。
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