第7話

次の日は俺が一日仕事だったもので、一之瀬には会えなかった。そうしてその次の日、たまたま尋問に使用する部屋から彼が出てきたところに出くわしたのだった。

「久しぶり」

「……久しぶりでもないが」

ただ一日空いただけである。けれど心の中では妙にそわそわしていた。今日はどんな開示があるのかと、不安でいっぱいの小説を読み進めるような、早く全部知ってすっきりしてしまいたいような気分になっていた。

「(……………)」

ちか、ちかと廊下の電球が瞬く。そろそろ限界だろうに、誰も変えようとしない電燈はSOSを発するように点いては消えてを繰り返している。

「恭さん、こっち」

「あ、」

ぐい、と袖を引っ張られて上半身のバランスが崩れる。思わず左手に持っていた杖を握りしめて「急に引っ張るな」と言ってしまった。

「ああ、ごめんごめん。ここ暗いしさ、不安かと思って」

「…………夜道が大丈夫ならここだって大丈夫だ」

とはいえちかちかと光る死にかけの電灯は目に毒だったので、心の中で安堵する。

「そ」

適当そうな口ぶりだが、袖口は離さなかった。やがて長い廊下をひたすら歩き、扉が開く音と共に空の光が飛び込んできた。思わず目を細める。

「そだ。ごめん恭さん、おれ手ぇ洗ってなかったわ。血ぃ付いたまんまだ」

げ、と喉の手前辺りからつぶれたカエルのような声を出すと、一之瀬は「ちょっとまってて」と言ってぱっと横を通り過ぎて行った。掴まれた袖は恐らくクセになっているのだろう。なんとなくそれを指で整えてみたが、特に汚れた触感は無かった。かつかつと杖の音を鳴らしてベンチにたどり着く。

「(…………飯にでも誘ってみるかな)」

考えてみたらいつも昼休みに会っているのに、一緒に飯を食うということをしたことがない。そんなことを思っていたら己の腹から情けない音が聞こえたので、素直さに喉奥だけで笑った。―――――――足音が聞こえた。音だけで誰かはわかるが、一応「一之瀬」と呼んだ。

「………今日、暑いから。どっかで飯でも食わないか」

「――――――――――」

返事が無い。それに不安がよぎって彼のいる方を見るも、表情はわからない。二十も後半になってどうして人を飯に誘うだけで緊張しているのかと己を叱咤していたとき、ようやく彼は口を開いた。

「………いいよ」

………野良猫が自分から寄ってきてくれたかのような嬉しさがあった。

「な、なんだよその顔。気持ち悪」

「そんなにひどい顔してたか」

「恭さんあんま笑ったとこ見た事ねえから、ちょっとびっくりした」

人当たりの良い態度ではあるが、それはそれとして打ったものが響いたことが嬉しい。ベンチから立ち、行きつけの喫茶店に彼を連れていくことにした。

「あー、カフェ。この間の小説にもよく出てきてたね」

「よく覚えてるな。ちゃんと読んでるんだ」

「声に出すと目で読むより頭に入ってくるんだよね。この前はじめて知ったよ」

蝉の声が遠くに聞こえる。喫茶店までの道のりはもう目を瞑っていても余裕だ。すたすたと歩く俺の後ろに一之瀬の気配をちゃんと感じる。そういえば俺は、彼が何を好きかも知らない。

「(………知らないことが多いな)」



「グラタンにコーヒー」

「えー、えー………………?」

一之瀬はだいぶ悩んでいた。ぱらぱらとページを行ったり来たりし、悩む声がこちらまで聞こえる。

「……結構、こういうの悩むタイプなんだな」

「いや、そこまでじゃなかったはずなんだけど、………喫茶店とか来るの初めてかも」

「はじっ………!?」

突いていた肘が落ちそうになる。一之瀬はそんな俺に目もくれず、ひたすらメニュー表を捲っていた。

「………どれ食ったらいいのかわかんねえー………」

「お前、普段何食べてるんだ」

「コンビニで目に付いたやつ適当に食ってる」

俺も同じようなものだが、それ以上がいたらしい。食に頓着が無いタイプなのだろうか。押しつけがましかったろうかと思っていると、ようやく彼は顔をあげた。

「んじゃ、クリームソーダとオムライス。あとプリン」

「……………………」

子供舌だな、と揶揄うタイミングだったのかもしれないが。純粋に食の好みの一端を知れたことが大きい。ウェイターを呼び、お互いに注文をする。

「たのしみだな。こういうの食べるの久しぶりだ」

「………普段から食えばいいのに」

「ん?んー。いや、いつもは別に好みとかは………あ、」

一之瀬は何かを思い出したような声を出し、「すげえちっちゃい頃、食べた記憶あるんだよ」と言った。

「へえ」

「父さんと母さんと三人で。こんなにちゃんとした喫茶店じゃなかったような気がするけど…………こういう感じのメニュー食べたんだよな、多分………たしかそれ、だったと思う」

あーそうだそうだうんうん、と一人で納得し、頷いている。俺は水を一口飲んで、「親御さん、今どこで暮らしてるんだ?」と聞いた。すると一之瀬は「んー」と間延びしたような声で言う。

「…………どこだろうね」

「え、………あ、すまない」

言った後に軽率だったと思う。少年院を出て、そのあとにここに来て。だったら親との関係なんて明白だろう。どう言葉を切り出していいか悩んでいると、一之瀬がくすりと笑った。

「ま、そのへんもおいおい話すよ。………恭さんは家族と仲良いの?」

「…………………」

まさか一之瀬の方から質問するとは思っていなかった。意外だった。自分の事しか頭にないと思っていたから。

「………まあ、良い……かな」

「この仕事してるの、知ってる?」

「いや、知らない」

実際だいぶ親不孝者だと思う。とはいえ当時の自分はどうにか家族に迷惑をかけまいと、やたらと焦っていた。焦っていた先がこういう職種だったことを、学生の頃の自分に話しても恐らく信じないだろう。

「そっか、家族……いるなら、死ねないね」

「…………そうだな」

まるで自分は死んでもいいみたいじゃないか。その言葉はさすがに呑み込んだ。一之瀬の担当している仕事の内容的に死に直結することは無いと思うのだが、それはそれとして少し心配にはなる。ただ立っているだけなのにその立ち姿はひどく曖昧で、目を離したら知らないうちにどこかに落ちて行ってしまいそうな危うさが、一之瀬から感じられる。

「………お前も、死ぬなよ」

心配が、言葉になった。一之瀬は「えぇ?」と少し小ばかにしたように笑う。

「なんでさ。おれが死んでも恭さんに迷惑かけないでしょ?」

「いや、そういうことじゃなくて―――――――」

自分でも彼の死というものを惜しむ気持ちに言葉が付けられなかった。だからすぐ手前に会った「朗読係がいなくなるから」なんて答えを出せば、一之瀬は納得したように「なるほどー」と頷き、水を一口飲んだ。あまりに軽い相槌に、本当にわかっているのかどうか心配になる。まだこの男の死生観は全然見えない。

「そっか、じゃあまだ駄目だね」

「………そうだぞ」

耐えきれなくなった所で料理が運ばれてくる。酸味が強めのブラックコーヒーと、まったりとしたクリームソースが美味しいグラタンが運ばれてきた。ここに来るたびいつも同じメニューを頼んでしまうが、何度食べても美味しいから良いのだ。

「いただきます」

「………いただき、ます」

俺の真似をするように一之瀬も復唱する。そうしてしばらく、お互いの咀嚼音と皿にスプーンが当たる音、そして店内で流れるジャズの音だけがその場に響いていた。

「おいし」

一之瀬がぽつりと口にする。それはよかったと返せば、そのあとはまた無心でオムライスを食べているであろう音が聞こえ続ける。満足している、のだろうか。心の奥の方で安堵した。

「………また、来るか?」

「いいの?」

間髪入れない返事だった。料理から顔を上げて俺の方を見やる。頷けば「やった」と子供のように笑った。そのサングラスの下の目は笑っているのだろうか。見たい。けれど、その願いを口にしたら彼はもう二度と俺の元に来てくれない気がした。その気持ちを声に出したくなってしまって、慌ててマカロニと一緒にそんな思いも呑み込む。………なんだか一之瀬といると迂闊な言葉が出てきそうで、そんな自分に困惑する。こういうのはあまり慣れない。

「うん。………おいしい」

………一之瀬はそのあともずっと、ことあるごとにおいしい、と呟いていた。


結局昼休みは飯を食べただけで終わってしまった。店を出てからしばらくして、俺の方から切り出す。

「一之瀬、良かったら今日の夜、お前の話を聞かせてもらえないか」

一之瀬の動きがぴたりと止まる。たっぷり数秒考えて、彼は「うん」と言った。

「でもさ、いいの?ふつーに朗読タイムにした方が恭さん的にはいいでしょ」

「まあ、そうなんだが」

「気になるの?」

いつの間にか一之瀬は俺のすぐそばまで歩を進めていた。思わずぴくりと体を震わせると、口の端を上げて笑った。近かったから、その表情がいつもよりもわかった。

「…………………まともそうだと思ったんだけどなあ。恭さんってもしかして、ゴシップみたいなの好き?」

「違、俺は………」

「ま、どんな理由でもいいや。おれは好き勝手に話すだけだし」

そう言って彼は俺の肩を軽く叩いて、若干早歩きになった。思わずぐっと杖を握りしめる。

「(…………そうなのか?俺が一之瀬の事を気にするのは、好奇心からか?)」


図星なのだと思う。実際、続きが気になっていたし、興味があった。本を読むように彼の過去を見て見たいだけなのかもしれない。

けれど自分のどこかの部分が、それを強く否定していた。それは倫理観だろうか、それとも。

「(……………どうあれ、聞こう。俺にできる事はそれしかないから)」

もしかしたら俺は、彼から目を離したくないのかもしれない。

「(…………消えて欲しくないから?………まさか、)」

そんな思いを全部消して、「待てよ」と彼を追いかけた。

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