第6話

仕事が終わったのち、裏口で一之瀬と合流した。

「待たせた」

「大丈夫。じゃ、行こうか」

す、と腕に手が回される。俺が固まっていると、一之瀬は何も不思議なことなど無いように「行くよ」と言った。もしかしなくても、これは。

「………一之瀬、気持ちはありがたいんだが。別に手を引かれなくても歩けるぞ」

「え、マジで?でも暗いじゃん」

「杖があるから大丈夫だ。それに、慣れてる」

「そっか」

腕から手がほどける。俺は体温が離れたことに罪悪感を感じて、「ありがとな」と言った。

「べつに。ほら早く、案内して」

「(………不親切ってわけでもないんだな)」

そりゃそうか。人間なのだから、全部が悪ではないのだ。「恭さん、飯どうする?」「適当にコンビニで買うか」なんて会話をしながらだらだらと歩き、やがて自宅へ着いた。職場から近いのは大変ありがたい。正直ここの仕事を辞めたら自分はどうしたらいいのだろう、とも少し思う。普通の社会生活だって送れたはずなのにそれをしなかったのは、その時の自分にとってこちらの方が条件が良かった、それだけの理由である。それだけで人はやすやすとグレーゾーンに足を踏み入れる。正直、自分にこんなにアウトローとしての適性があるとは思わなかったのだが。人間、何が向いているかわからないものである。

――――――彼も、この道ではない未来があったんじゃないだろうか。

「(………ま、考えるだけ不毛か。お互い)」



「よし、じゃあどれ読めばいい?」

「えっ」

「えっ、じゃないよ。もしかして決まってなかったりする?」

「いや、決まってる。ただ絞り切れなくてな………」

「待って待って、結構読ませようとしてない!?長すぎるのは嫌だよおれ」

うげえと語尾に付けながら言う気持ちもわかる。しかしこっちも、目の前に今まで読みたかったものが手招きしているのだ、なりふり構っていられない。

「………じゃあ、」

ひとつだけ選び、検索してもらう。そうして彼は画面を見ながら、ゆっくりと語り始めた。

「……………『歯車』」


――――――正直、ところどころでつっかえるし、うまいというわけではない。



けれど良い意味で淡々としていて、声質とのバランスが噛み合っていた。


「『――――――僕は右側のビルディングの次第に消えてしまうのを見ながら、せっせと往来を歩いて行った。』……………はい、今日はこれでおしまい」

「え、もう!?早くないか!?」

「結構疲れるんだよこれー。だいたい、おれ普段本読まねえから両方の意味で疲れた。今日はもう閉店します。がらがらぴしゃん」

「つ、続きが気になる………!」

「そんなに?」

「当たり前だろ!まだまだ導入部分だ、このあと主人公はどうなっていくんだ?歯車ってなんなんだ?気になることだらけだ」

「……そう」

一之瀬は不思議そうな声を出しながら画面と俺とを見比べた。そうしてため息を付くと、「………ちょっと休憩したら、もう少し読める……かも」

「本当か!?」

「食い気味だな!?全部!全部はさすがに読めない!疲れるから!」

「わかった、ありがとうな!冷蔵庫に色々飲み物あるから好きに飲め!」

「あんたいきなりテンション上がったな………まあいいけどさ……」



不思議で、不安な話だった。正直一番最初にこのチョイスでいいのかとも思ったが、それ以上に「良いものを読んでもらった」という気持ちの方が強かった。自然に感謝の言葉が口からぽとりと出る。対面に座っていた一之瀬はすっかり疲れ果ててしまったのか、か細い声で「どういたしまして……」と言った。もともと猫背気味の背中がますます丸まっている。いつも飄々とした印象を与えるこの男の疲れた表情や雰囲気、しぐさというものに、少しだけ興味がわいた。

「恭さん、これいっぺんに読むのきついよ。せめて分けるか週何回かにして」

「………じゃあ、分けるか。次からは、お前のペースで頼む」

「はいよ。つか、昔の話って漢字が多いし難しいな。ふりがな無ければ全然読めなかったわ」

「苦手か?漢字」

「にがて。院にいたこともあんまり読めなかった」

――――――――それは、酷な事をしたろうか。

「べつに?それにおれ、この話好きだよ」

「え」

意外だった。俺には詳しい感想や言葉を並べることができなかったから、目の前の男の方がこれを理解しているのかと思うと不思議な心地がした。

「………どういうところが気に入ったんだ?知りたい」

「んー、おれもこの話わけわかんねえけどさ。なんか主人公が息苦しそうで、好きだ」

おれは生きづらそうなやつが好きだよ、と一之瀬は続けた。

「それは―――――――」

作者の末路について言うべきだろうか。いや、言わない方がいいかもしれない。俺が言葉を濁していると、一之瀬は続けて「それに」と言った。

「『誰か僕の眠っているうちに、そっと絞め殺してくれるものはないか?』」

「ああ――――――最後の。」

「なんとなくわかるよ」

その言葉は嫌に重く俺の耳に届いた。机を挟んで向こう側の一之瀬に手を伸ばす。意図はない、はずだ。けれど自然に口からは「死にたいのか」と言葉が出た。

「いいや?死にたいわけじゃない。ただ、殺してほしいっていうのは少しだけ理解できる。それだけだ」

「―――――――俺が、このまま手を伸ばし続けたら?」

「恭さんが?」

意外そうな声を出して、すぐあとにはは、と笑う。恭さんはだめだよ、とその手を緩く掴んだ。

「だって恭さん、まともでしょ?」

まとも。それはどこから見てのまともなのだろう。けれどその言葉は完全に、自分と彼の間に明確な線を引く言葉だった。俺はゆっくりと手を戻すと、彼は「それでいいよ」と母親のようにやさしい声で言った。

「――――――――ああ、もうこんな時間か。じゃあおれ、帰るね」

「一之瀬、」

「じゃあ、また明日。会えたらね」


ぱたん、と扉が閉まる音が聞こえた。俺はそのあとずっと、彼の言った言葉の意味を考え続け、答えは出ずに眠りに落ちた。


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