二〇一三年九月二一日 武蔵野より武良前野へ
拝啓
わが忠実なる後輩くん。お返事ありがとう。君なら面倒くさがりながらも書いてくれると信じていました。しかし変わり者呼ばわりはいただけません。便箋を買いに行ったのならわかると思いますが、あなたが認識していなかっただけで、未だお手紙ユーザーは多く存在するのです。
さて、私は君からの手紙を読んで、京都から出たことのない平安貴族たる後輩くんに武蔵野の良さをレクチャーしなければならないという使命感に燃えています。
「恋しけば袖も振らむを武蔵野のうけらが花の色に出なゆめ」
これもまた万葉集からの引用です。武蔵野の名が初めて史料に現れるのは万葉集第十四巻「東歌」だといわれています。ウケラはキク科の多年草で、武蔵野はかつて野草の野原だったことがわかります。
また、このお手紙を書いている今日は中秋の名月です。武蔵野の原イメージにはやはり月も欠かせません。ベランダから月がよく見えています。あなたも同じ月を見上げているとよいのですが。今の武蔵野で広大な原野を見渡すことはかないそうにありませんが、月はきっと今も昔も変わりませんね。
君は大いなる偏見でもって関東平野がコンクリートジャングルと化していると思っているのかもしれませんが、必ずしもそうではありません。今の武蔵野には、林があります。これを発見したのは国木田独歩ですね。原野は失われたけれども、人々の生活と雑木林が交差する今の武蔵野もよいではないかと再発見したわけです。君もまだ読んだことがなければ『武蔵野』をぜひ読んでみてください。あふれんばかりの愛によって武蔵野の趣が描写されています。私も最近、休みの日は独歩のように散歩をするようになりました。実家の周りは昔からほとんど住宅街ですが、不意に現れる小川や雑木林が実に趣深いです。子供のころは何とも思わなかったのですが、どうしてでしょう。
君の言う、京都が山に囲まれている感じ。それはとてもよくわかります。関東平野は広大すぎて、たしかにあまり山々に抱かれているイメージは持てない。しかしこちらには圧倒的な存在感を放つ富士山があります。秋の野原のはるか遠景にそびえる富士山。これは江戸時代に「武蔵野図」というジャンルを形成したイメージでもあります。
新社会人としてのアドバイスなんていうものは、特に思いつきません。さほど面白いものではないですから、期待せずに日々のパンのための仕事をして、堅実に生きるべきではないでしょうか。そんなことより、君も卒業したら武蔵野に来てみてはいかがですか? その折にはふらっと気ままな散歩に出かけることをお勧めします。
敬具
二〇一三年九月二一日
鈴木文子
田中淳太様
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