むらさきの行き、むさしの行き
美崎あらた
二〇一三年八月三〇日 武良前野より武蔵野へ
拝啓
お手紙ありがとうございます。スマートフォンを使えば一瞬でやり取りは完結するというこの時代において、わざわざ手紙という連絡手段を選択する先輩は、やはり変わり者です。
僕の部屋に便箋なんていうものは無かったので、わざわざ文房具屋に買いに行きました。便箋を選んでいると、やはり筆記具の方もそれなりのものが必要な気がして、万年筆など買ってしまいました。形から入るタイプだとよく言われます。そしていざ自宅で便箋を前にすると、やはり書き直しや送り直しが簡単にできないと思うと緊張してなかなか筆が進みません。便利というものは我々現代人から思慮深さを奪っていたのだと気づかされました。
先輩がこの大学を卒業して「武蔵野の地へ帰る」と言ったとき、なぜか僕の頭には万葉集のある歌が浮かんできました。
「あかねさす
武良前野すなわち紫野とは平安京七野の一つに数えられた野原であって、京都市北区南部の地名です。もちろん武蔵野とは何ら関係がありません。京都生まれ京都育ちの僕にとっては、それほど武蔵野という地名にはなじみがありませんでした。先輩はずいぶん遠くへ行ってしまうのだなと心寂しく思ったものです。
さて、京都の夏は相も変わらず地獄のように蒸し暑いです。山城盆地は夏蒸し暑く冬底冷えする恐ろしい地形です。昔の人はよくここに都を作る気になったものですね。昔は今ほどではなかったのでしょうか。しかしずっと住んでいるので、愛着もあります。たとえば朝方、賀茂大橋に立って鴨川デルタ方面を見ましたら、山々が京の都を抱いているのがわかります。それが僕にどこか安心感を与えるのです。広大な関東平野では、この心持は味わうことができないでしょう。
鴨川で思い出しましたが、今年も糺の森の古本まつりで店番のアルバイトをしました。村崎書房の店長には、大学在学中毎年アルバイトをしていた先輩の後継者だと思われているようです。僕も後継者を紹介しなければ開放してもらえなさそうな雰囲気で困っています。研究室に謎の伝統を残していくのは勘弁してもらいたいものです。とはいえ、このアルバイトはそんなに嫌いではありません。良き本との出会いを求めてさまよい歩く人々を観察するのは、なかなかどうして退屈しません。古本のにおいと小川のせせらぎ、店長の差し入れてくれるラムネ瓶に入ったサイダー。もし僕が後継者を見つけてこの地を離れるとしても、この情景は夏が来るたびに思い出されるでしょう。
こちらの話ばかりで恐縮です。新社会人としての先輩の生活はいかがでしょうか。僕もそろそろ就職のことを考えなければいけない時期に差し掛かっております。参考までにご教示いただければと思います。
敬具
二〇一三年八月三〇日
田中淳太
鈴木文子様
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