第2話 癖の強い介護の現場

「中曽根さん、最近ごはんよく食べるねー。」


仕事前に猫に餌を用意し、仕事に行く。もとは母が貰ってきた猫で、母が亡くなったころから食が細くなって痩せぎみだったのがここのところ調子が良さそうだ。ホントにヒールが効いてたりして。

俺はご機嫌な中曽根さんの背中をひと撫でしてから、自宅を出る。

今日も今日とて仕事戦場に行く。今日も夜勤だ。

俺の職場である有料老人ホームとは、高齢者が心身の健康を維持しながら生活できるように配慮された「住まい」のことだ。

介護を必要としない自立している方もいれば、要介護認定を受けている方など様々いるが、いずれも高齢でいわゆる認知症を発症している方の割合が多い。特にうちの施設は認知症介護のため家族と共倒れになってしまったお宅の高齢者が入居することが多いように思う。

田中さんもそのひとりだ。

現役時代は建設会社の社長をしてたとかで、一見矍鑠としたおじいさんだ。しかし、かなり認知症が進んでおり日々の対応に苦慮している状況だ。


「ここにあった俺の財布がない! おまえが盗んだのか! 」


今日もまた、いつも通りに騒いでいる。

一代で会社を大きくした田中さんだが、若い頃はずいぶんお金に苦労したらしくどうにもお金に関する訴えが多い。自分で使ったことを忘れてしまったり、勘違いだったりがほとんどなのに、家族に対して『おまえが盗んだ』と罵倒し、さらには奥さんを殴り付けてしまったことがこちらの施設に入る切っ掛けらしい。

「財布が見当たらないんですか? 」

「なにとぼけてるんだ。ここにあった財布だ! 」

「ここにあったんですか? 探しましょうか?」

「おまえがやったんだろうに、白々しいな! 」

「テーブルに置いていたんですか? それとも引き出しにしまっていたんですか? 私が探すの手伝いますよ? 」

「え? テーブル? 引き出し? えーっと、ああ、どこに置いたんだったか……―――いや、もういい。おまえには頼まん。」

「そうですかー。手伝いが必要になったら、いつでも言ってくださいね。」


財布は入所時に家族に渡しているので、元からない。とはいえ、本人にはそれは真実ではないのだ。認知症には「一つのことに集中すると、そこから抜け出せない。 周囲が説明したり説得したり否定したりすればするほど、こだわり続ける」という特徴もある。ご本人が「もういい」となるまで話に付き合った方が早いのだ。


田中さんの居室を出ると、隣の竹下さんが荷物を風呂敷みたいにバスタオルでなにかを包んで出掛けようとしているのに出くわした。

竹下さんは白髪を綺麗にお団子に纏めた、上品な老婦人だ。穏やかな声喋り、いつもにこやかだ。


「もうこんな時間だから、自宅に帰りますわね。お邪魔しました。」


かつては独り暮らしであったらしいが、認知症の症状が出てから入居されている竹下さんの自宅は、もちろんここである。夕方になると毎日荷物を纏めるのが日課の方だ。


「竹下さん、そんなに急がないで。もう少しゆっくりしていってくださいよ。」

「だって、ずいぶん長居させて貰ったもの。あなたにご迷惑でしょう? そろそろ帰らせて貰うわ。」

「そんなことおっしゃらずに、お夕食も準備してるんですよ。食べてからでもいいじゃないですか。」

「えっ悪いわよ。でも―――そうねえ、夕食準備してるっていうなら、頂こうかしら。お腹も空いてきちゃったし。人に作って貰うごはんって楽しみだわ。」

「ええ、是非。いま支度してますから、お部屋ですこしだけ待っていて頂けますか? 」


居室に案内し、座らせてあめ玉ひとつ舐めて貰っているうちに、竹下さんはどこかへ帰宅しようとしていたことも忘れてしまうようだ。夕食を食べると、すぐにベッドに入り一日を終える。これが彼女のルーティンなのだ。お家の人もわかっているのか、いつもあめ玉の差し入れを欠かさない。

消灯時間になると、福田さんがステーションまでやってきてひそひそと便秘の相談をする。

「ずっと出てないから、下剤か座薬のヤツないか? 」

「うーん。確かに今日は出てないみたいですが……。3日に一回あれば心配いらないんですけどね。お腹が張ってる感じとかあるんですか? 」

「張ってるとかわからないが、とにかく便が出ていないんだ。どうにかしてくれ。」

福田さんに限らず、認知症の方は前に排便したかの記憶がなくなってしまい、便を出すことに拘る方もいらっしゃるのだ。

ちなみに記録上では、福田さんは昨日朝排便したようた。腹部症状もないから下剤を飲む必要性はなさそうである。


「じゃあ、福田さん。このお茶にポタポタっとしておきますから、飲んだらゆっくり休んでください。」

と、ただのお茶を渡す。ポタポタっとするのは液体の下剤のことだが、実際に下剤は入っていないし、なにをポタポタしたかも明確に言ってはいない。嘘は一応言ってないぞ。


「ありがとなー、兄ちゃん。これで心配なく眠れるよ。」

福田さんはお茶を一気に飲んで、居室に帰っていった。まあ、たぶん、もうしばらくしたら心配がなくなったことも忘れてしまうんだろう。一晩に同じ話を何度かするのが、福田さんのいつものルーティンである。またあとで。

そして消灯からが、長い。

鳴り止まないトイレコール。大平さんはトイレ行ったばかりなのにシーツまで汚すほど排尿する不思議。毎晩一度は着替えとシーツ交換だ。飲んでる量より確実に出ている量が多いのはなぜなんだぜ。

鈴木さんは骨折していて痛いはずなのに、なぜか立ち上がり動き始める強靭な肉体。医者から怪我した方の足をつくなといくら言われても、仁王立ちをしたがりもちろん転倒。事故レポートを夜な夜な書く羽目になる。

そして三木さんの紙オムツは汚れてないのに何故か便のついたパジャマを発見し、着替えと陰部洗浄と洗濯をする午前4時。オムツを汚さずに衣服を汚すヤツは、どういう仕組みかいまだにわからん。

そしてまたトイレコール、体位交換、トイレコールの嵐。

空が白んできた頃、すこしだけ休憩の時間がやってくる。早起きの利用者さんが現れるまでのつかの間の時間。


「ふーっ。お茶お茶ー。今日はルイボスティー♪ ―――って、マイボトルじゃないじゃん! 」


アディダスのデイバッグから出てきたのは、親父の形見おさがりの象印マイボトルではなかった。

確かに似た大きさだとは思ったが、まさかの間違えて持ってきた【癒しの杖】。単1電池は設置済みだ。

喉、渇いていたのに………。

めっちゃ、疲れてるのに………。




「あ"あ"ーー! もう! 俺も、みんなも癒してくれよォ……。ええーい、『エリアヒール』『エリアヒール』『エリアヒール』!! 」






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