第1話 終幕

 後悔ばかりの人生を送ってきた。


 まるで太宰のような始まり方だが、別に不幸なわけじゃなかった。むしろ今までの人生を振り返れば、上手くいってる側の人間だと思う。

 実家は特別貧しい訳でもなく、厳しくも俺のためを思い育ててくれた両親に今は感謝している。社会人になった後は金銭に困ったことはないし、対人関係に大きな問題が生じたこともない。多忙を極めた仕事も人並み以上に順調にこなし、率直に言えば女性にもモテたほうだ。勘違いでなければ。


 しかし思い返してみれば、これまで歩いてきた道の途中で幾度かあった大きな分岐点で、どれか一つを選んではその度に後悔を増やしてきた。そんな気がする。

 別の道に進み、今より華やかに生きる自分を空想し現実と比較しながら生きている。俺はそんな人間だった。


 はたから見れば贅沢な話。

 着々と溜まっていく後悔を抱えつつ、もう選べない別の道に思いを馳せる。そんな日々に突如降りかかった死は偶然か、それとも神の悪戯か。



**********************


 今日も今日とて日付の変わりそうな時間まで残業し、終電で最寄り駅に到着した後、家まで十五分はかかるいつもの帰り道。


 波戸はと陽路ようじは何とはなしに空を見上げる。

 自分に酔って夜空を仰いだわけではない。長いデスクワークで凝り固まった首をほぐしてたら空が目に入っただけである。

 地上から天に向かって照らされた夜空がやけに赤茶けて見える。もう慣れたはずの夜の色が今日はいやに目についた。

 途中にある歩道のない道を通る。周辺にはコンビニや街頭がない。ふと目を凝らせばのっぺりとした暗闇が道の奥を塞いでいる。目が慣れていないせいか、明るい夜空との対比のせいか、道路の奥が見通せない。


 ―今日は何故か、いつもの景色が目に留まる。


 夜の色が気になったり、暗闇がきになったり。もしかしたら、物の怪が出るか、異世界に転移してしまうかもしれない。

 ほんのり期待しつつも警戒して辺りを見回したその瞬間。


 頭がずんと重くなった。


 ぐらりと身体がかしぐ。目の前が暗転し、脳から意識が分離して空に浮いた。

 

 なんで。どうした。―まて、行くな。

 

 クラクションが聞こえる。線路の音が聞こえる。しかし光が見えない。

 暗い暗いと思っていた夜道ほどの黒が視界の外側を侵食し始めた。


 平凡の範疇に入る人生を送っている人間でも、一度は驚くようなことが起こるもの。自分の場合、一生に一度のビッグイベントが「帰り道で突然生死を彷徨さまよう」だったわけだ。


 あんまりだが、仕方ない。


 公道だろうが関係なく、俺は重力に耐えかねて地面に手をついた。これほど体が重いのは仕事のトラブルで二徹した後の朝レベルである。


 意識が途切れる寸前には噂に聞いた走馬灯が。


 爆発的に分泌されたセロトニンに乗って駆け抜ける景色と感情は、家族への感謝と、友人の顔と、別れた彼女と、楽しかった思い出と、今死ぬことへの申し訳なさと。

 そして圧倒的な後悔だった。



 ―なぜ俺はこれほど後悔しているのだろうか。


 今まで漠然と気づきながらも蓋をしていたその理由が、制御を失った脳から映像を伴ってあふれ出した。



 高校での部活選択も、進路選択も。

 大学でのサークル選びも就職活動も。

 社会人でのキャリアパスも。


 ―ああ、まだまだある。


 理不尽な取引先に対して飲み込んだ反論も。

 疎遠になった友人にかけてあげるべきだった励ましも。

 他界した父に言えなかった感謝も。

 愛していた彼女に結局伝えられなかった言葉も。

 心のずっと奥にあって、ついぞ向き合えなかった夢も。


 数え上げればキリがない。


 そうだ。

 俺は冒険しなかった。踏み出さなかった。


 困難で不確かな道を選ぶことができず、後悔しつつも安寧を捨てることもできず、さりとて次につなげることもできず、ついに死ぬまで自分を変えることができなかった。


 生きていれば選ぶことのできた数多の選択肢を、俺は俺の手で放棄した。

 抱えきれないほどの悔悟を、死ぬ間際にようやく心底理解する。



 神様。神様どうか。


 やっとわかった。今やっとわかったんだ。


 ―もっと正直に生きればよかった。ただそれだけだった。


 もし、もしも次があるなら。次こそ。

 俺の中にある素直な願望を、俺は絶対に偽らない。



「まあ、常識の範囲内だけどね……」


 全て欲望のままに行動ってわけにはいかんよなぁ。という思考を最後に。

 横たわる身体から脈動が消え、熱が失われ、生気が抜けたと同時に、さっきまであった感謝と後悔と決意は地球上から消え失せ、後には空になった身体だけが日本に取り残された。

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