第115話 釈明

 どういうこと……?

 ずっと待ってたのは私の方、だよね……。


 文化祭が終わった十六時以降、私のクラスは片付けも二日目の準備もあまりなかったから、すぐ解散になった。

 それから真っ先にエントランスへ向かい、夕莉を待っていたのは五時間近く。


 その間、何度かメッセージを送ったり電話をかけたりしたけれど。

 返信ができない状況でも、既読だけは必ずつけてくれていた夕莉のチャットには何の音沙汰もなくて。

 彼女の身に何かあったのではないかと、どれだけ心配したことか。


 校内を探し回ることも考えたけれど、行き違いになると大変だし、所用で忙しいのなら邪魔になるかと思ってここから動けなかった。


 様子はどうであれ、ひとまず夕莉の顔が見られたことに胸を撫で下ろす。


 やはりわざと避けているのか、一定の距離からこちらには近付いてくれない。

 あからさまに躊躇して立ち止まる夕莉のもとへ、私から歩み寄る。

 拒絶しないでいてくれるのが唯一の救いだった。


「夕莉、少し話そう」


 私の声に、俯いたままの視線を向けてきたのは一瞬だけ。

 無視するのかと思いきや、夕莉は小さく頷いた。



 大階段の隅っこに二人で腰を下ろす。


 隣に座る夕莉の横顔をさりげなく盗み見る。

 この前みたいに詰め寄られるのかと覚悟していたけれど、表情こそ冷たいものの、沈着な態度で静かに座っていた。


 何を考えているのかわからないこんな時でも、相変わらず居住まいは凛としているから、こっちが変に緊張してしまう。


 さっきの意味深な言葉を最後に、夕莉は一言も話そうとしない。

 私から切り出さないと、永遠に声を発さない雰囲気すらある。


 ここは第一声が重要だ。

 彼女の神経を逆撫でするような発言でもしたら、今後口を利いてもらえないどころか、目も合わせてくれなくなるかもしれない。

 かといって慎重になりすぎたら、却って疚しいことをしたのではないかと思われる。


 そうやっていろいろ考えている間にも、気まずい無言の時間だけが刻々と過ぎていく。

 躊躇っている暇なんてない。

 最初に話そうと言い出したのは私なんだから、とにかく声をかけなければ。


「既読も返信もなかったから、すごく心配した」

「…………」

「生徒会の仕事? やっぱり文化祭期間中はいつも以上に忙しいのかな」

「…………」

「……大丈夫? どこか具合でも悪い?」

「…………」


 ――と思って、まずは当たり障りのない会話を試みるものの、私の一方的な独り言で終わってしまう。

 横から顔を覗き込む私の視線に全く気付いていないかのようで、夕莉は正面を向いたままずっと目を落としていた。


 会話をする気はない、か。

 こんなに怒っているとは思わなかったな……。

 早々に本題に入った方がよさそうだけど、これじゃあ何を言っても私の言葉を聞き入れてくれそうにない。


「……あのさ、昼間のことだけど――」


 それでも夕莉を不機嫌にさせた原因である陽生とのことは、しっかり話しておかなければならない。

 頑なに顔を合わせてくれない夕莉から視線を逸らし、俯きながら口を開いた時だった。


「どうしてメッセージくれなかったの」


 長い沈黙の末にようやく出してくれた声は、どう聞いても私を責めるような口調で。


 咄嗟に夕莉の方へ顔を向けると、微動だにしなかった彼女が、苦しげに目を細めながら私をジッと見据えていた。


「帰りの待ち合わせの連絡なら送ったけど……」

「それじゃない」


 速攻で否定される。

 『エントランスで待ってる』とか『今どこにいる?』とか『何時頃帰れそう?』とか。

 ギリギリ鬱陶しいと思われない程度の量でメッセージは送った。


 事務連絡なら一度たりとも欠かしたことはない。

 そのことじゃないというのなら、一体何のことを言及しているんだろう。


「あの後……言い訳でも弁明でもいいから、すぐに奏向から事情を説明してほしかった」


 "あの後"――例の出来事のことか。


 ……しまった。

 夕莉にどう弁解しようかと、スマホと睨めっこしていた時。

 陽生から"他のことは考えないでほしい"みたいなことを言われて、そのまま頭からすっぽり抜け落ちてしまったんだ。


 夕莉がずっと待っていたのは、昼間の騒動に対する私からの説明――。


「……ごめん」

「最近の奏向は謝ってばかりね」

「ごめ……」


 性懲りもなくまた謝ろうとしていたことに気付き、呟くように吐いた謝罪を途中で飲み込む。


 だって、今の私には謝ることしかできない。


 夕莉に誤解を与えてしまったことも、すぐに事情を説明しなかったことも、そのせいでまた不安にさせてしまったことも。

 全部私の不注意が招いたことだから。

 説得するための言い訳なんてしたくなかった。


 口を開けばまた同じ言葉が出てきそうで。

 何も言えずにただ夕莉の目を見つめていたら、そっと、頬に手を優しく添えられた。


「……私がこんな態度をとっているせいで、説得力はないかもしれないけれど……本当は奏向を責めたいわけでも、謝罪の言葉を聞きたいわけでもないの。だから……悲しそうな顔しないで」


 いつの間にか、夕莉の表情がほんの少しだけ柔らかくなっていた。

 けれど、憂いを帯びた眼差しは変わらない。


「私は怒っていないわ。……今は、感情の整理がまだできていないだけ。言い訳だとしても、奏向が伝えてくれることなら受け入れるから。……私に話したいことがあるのでしょう?」


 無意識に怯えていた心が、落ち着きを取り戻していくのが自分でもわかる。

 夕莉が怒っていないのだと知って、安心したのかもしれない。


 話を聞き入れる姿勢を示してくれた彼女に、ゆっくりと頷く。


「昼間、私と一緒にいた子……陽生は、私の幼馴染みなんだ。小学時代からの腐れ縁で、中学までは同じ学校に通ってた。私が高校に上がった頃からお互い忙しくなって……今は、その……会える頻度が低い分、毎日電話してる。でも、ほとんど陽生からかかってきて、私はいつも適当に受け流してる感じ。会話の内容もたわいない雑談ばっかりだから。陽生との間に抱えてる秘密とか、夕莉に話せないようなことは一つもないよ」


 一瞬、名前を言おうかどうか迷った。

 陽生は自分の本名を不用意に他人に教えたがらないから。


 けれど、恋人であり一番信頼している夕莉に、隠し事をするような真似だけは避けたかった。

 それに、二人に面識があったのなら、遅かれ早かれ素性はバレるはず。


 静かに耳を傾けている夕莉は、"毎日電話"の件で反応を示す。

 しかし眉を僅かに動かすだけで、それについて問い質してくることはなかった。


「……幼馴染みの距離感には見えなかったけれど」

「陽生は昔から距離感がおかしいっていうか……スキンシップに抵抗がない子だから。ちょっと特殊だけど、手を握ったりハグしたりするのが、あの子なりのコミュニケーションの取り方なの」


 ただ困ったことに、その特殊な接し方を発揮するのは私に対してだけ。


 他の人と話す時は絶対に甘えたりしないし、体を触ったりもしない。

 愛想がいい人を取り繕った、完全によそ行きの顔になる。

 まるで"陽生"と"Haru"を使い分けているように。


「あの子は、奏向のことをどう思っているの」


 早くも核心に迫る問いを投げかけられる。

 私が陽生に向ける感情の中に、当然下心はない。


 問題は、陽生が私にどんな感情を抱いているのか。

 誤魔化したって仕方ない。

 全て正直に話すと決めたのだから。


「……好意を寄せているのは確か、だと思う」


 "思う"というより、もはや断言できるほど、その気持ちははっきりと私に伝わっている。

 私と雇い主である夕莉がただの雇用関係ではないことを陽生に明かしていない本当の理由は、これにあると言っても過言ではない。


 陽生は私に対して、明らかに幼馴染みの関係では収まらないような感情を向けている。

 だから、私に付き合っている人がいると告げたら、逆上してしまうのではないかと思った。


「好意って言っても、家族愛みたいなもの……じゃないかな」

「…………」


 即座にフォローを入れる。

 "好意を寄せている"なんて言ったら、誰もが感情のことを想起してしまうに違いない。

 とはいえ、長年一緒にいても好意の種類が恋愛なのか家族愛なのかは断定できない。


 ……なんて、わからないふりをしているけれど。

 多分私は気付いている。

 ただ、身勝手にも信じたいだけ。

 後者であってほしいと。


「本当に、幼馴染み以上の関係はないのね?」

「ない。ないよ。陽生に特別な感情を抱いたことは一度もない。私にとっては妹みたいな存在だから」


 誓って、これだけは言える。

 夕莉の目から決して視線を逸らさず、はっきりと意思を表明した。


 動揺を見せることなく淡々と応じた夕莉は、まぶたを閉じて深くため息を吐いた。


「前にも言ったけれど、いくら恋人であっても奏向の個人的な交友関係まであれこれ口出しするつもりはないから、奏向がどこで誰と居ようが気にしないようにしてる。……と、必死に心の中で言い聞かせているの」


 自嘲気味に苦笑する夕莉の声は弱々しい。


「あの時の奏向は何も悪くなかった。ずっと、奏向は私を好きだと、言葉でも行動でも示してくれているのに……あなたが私を裏切るようなことは絶対にしないとわかっていても……それでも嫉妬や苛立ちを抑えられなくて、本意ではないのに奏向に当たってしまう。もし、今日のようなことがまた起こってしまったら、これから先も奏向を束縛してしまいそうで……」


 声を震わせながら、俯く顔を手で覆う。


 夕莉を苦しめているものが何なのか、わかったような気がした。

 嫉妬したくないのに、してしまう。

 そんな葛藤を抱えていたんだ。


 私は……どうすればいいんだろう。

 今よりもっと強く夕莉への愛情を伝えれば、不安や心配はなくなるのだろうか。

 それでも嫉妬してしまうのなら――


「束縛していいよ」


 ブレザーのポケットからスマホを取り出し、夕莉に差し出す。


「スマホのロックナンバー教えるし、登録してる連絡先もメッセージの履歴も全部見せる。GPSだってつけていいから」


 元々今持っているスマホは夕莉が与えてくれたものだから、それを好きに制限する権利は彼女にもあると思ってる。

 恋人の不貞を疑う時は、真っ先にスマホを確認すると言うし。


 私の行動を逐一監視できる環境を作れば、少しは安心するのではないか。

 と考えた矢先、夕莉は私の提案を否定するように首を振った。


「……そこまで強要したくない」

「でも……」

「重たい女だと思われたくないの。私の身勝手な感情で奏向をこれ以上振り回したくない。……好きな人に嫌われたくないのは、私も同じよ……」


 語気を強めるほどの強い気持ちと同じくらい、私だって夕莉が苦しむ姿は見たくない。

 だけど、他に方法が思いつかない。


 どんな言葉をかけるべきかわからずにおろおろしていたら、顔からおもむろに手を離した夕莉が、はっきりとした口調で私に告げた。


「今日見たことは……忘れる」


 決意を固めたような声。

 私を真っ直ぐに見つめる眼差しには、迷いがない。


「嫉妬しないくらい心に余裕が持てるように、努力するから。どれだけ我儘なことなのかはわかっているわ。でも、今だけは……奏向を振り回してしまう私を、許してほしい」


 瞳を潤ませる夕莉の手を、そっと握る。


 嫉妬しようが束縛しようが、私はそのままの夕莉でも全く問題ない、むしろそれだけ好きでいてくれることが伝わって嬉しいけれど。

 彼女が変わりたいと思うのなら、その願いが叶うように支えてあげたい。

 そして、もっともっと"好き"を伝えよう。


「私はさ、夕莉が大好きだから。許すも何も、最初から夕莉の全部を受け入れてる」


 嬉しそうに小さく微笑んだ夕莉は、私の手をぎゅっと握り返した。



   ◇



 夕莉を無事に自宅まで送り届けて、私もボロアパートに帰宅した。

 遅い時間だし、今日は早めにお風呂に入ってすぐ寝よう……。


 リュックを適当な場所に放り、脱いだブレザーをハンガーにかけたところで。

 ふとブレザーのポケットに目が行く。

 そういえば、別れ際に陽生が何かを忍び込ませていたような。


 ポケットに手を突っ込むと、紙のようなものが入っていた。

 取り出したそれを見て、思わず眉をひそめる。


「1万円……?」

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