第114話 お忍び巡り(3)
眼前に映る、端整な顔。
他に目移りすることは許さないと言わんばかりに、陽生の視線が私を絡め取る。
この子は私のことしか見ていない。
昔からずっと。
バレたら大騒ぎになることはわかっているはずなのに、人目を
けれど今は、物憂げに目を細めるだけ。
陽生はいつも自由奔放に振り回してくるし、過剰すぎるスキンシップが正直欝陶しく感じる時もあるけれど。
それが本当に嫌なら、とっくの昔から近付くことすら許していない。
私は無意識に、彼女からの過激な愛情表情が当たり前のものだと受け入れていたんだ。
もし陽生が、学校で私に会えることを楽しみにしていたのだとしたら。
忙しい仕事の合間を縫って、僅か一時間しかない自由な時間で好きな人との一時を満喫したいと、そう思っていたのだとしたら。
今ここで夕莉のことを話すのは、私との時間を楽しんでいた陽生に対して配慮が足りない行為のように思えて、申し訳なくなった。
「上書き、しちゃうからね」
拗ねたように眉根を寄せながら、律儀に忠告してくる。
ただ、返事を待つ気はないようで、すぐに顔を傾けて唇を寄せてきた。
吐息がかかる。
唇の先が触れ合う、直前。
咄嗟に身を引いて、陽生の両目を片手で目隠しするように押さえた。
「……押さえる場所、そこで合ってる?」
拒まれて不満そうに口を尖らせている。
キスを阻止するなら当然口を押さえるが、それよりも今は気にかけるべきことがあった。
「あんた、やっぱサングラスかけといた方がいいよ。見られてるから」
明らかに周りから複数の視線を感じる。
コソコソと何かを話しながらそのまま通り過ぎる人もいれば、離れた位置に立ち止まって私たちを観察するようにガン見している人もいる。
特定の場所を除いて校内の撮影は厳禁だから、盗撮は多分されていないと思うけれど……。
騒ぎになって変な噂が広がる前に、一旦ここを離れた方がいいかもしれない。
「移動するよ」
「え、まだクレープ食べ終わってない……」
まだ居座ろうとする陽生に無理やりサングラスをかけて、手首を掴み立ち上がらせる。
バランスを崩しかけた陽生の体を咄嗟に支えつつ、中庭から離れることだけを考えてとにかく早歩き。
「カナ、どこ行くの?」
私に手を引かれながら、自分が注目の的になっていた自覚がまるでないかのように、緊張感のない声で聞いてくる。
地響きが起こるような歓声を浴びるほどの有名人なんだから、少しは周りの目くらい気にしろっつの。
ため息を吐きながら、行き先を考える。
落ち着けそうな場所ならどこでもいい。
自由行動の条件である"絶対に目立たないこと"を守るためには、できればあまり人が集まらないようなところが……いや、やめよう。
せっかく陽生が来てくれているのに、私が好き勝手に振り回すようなことをしてはいけない。
学校にいる時まで陽生のお守りをしなきゃならないのかと、最初は憂鬱だったけれど、文化祭を楽しんでもらいたい気持ちはそれ以上にあるから。
「……陽生が行きたいところ」
投げやりに発した言葉に「いいの?」と嬉しそうな声で確認したあと、迷うことなく即答した。
「カナのクラス行きたい」
……言うと思った。
仕方ない。今日だけは最後までわがままに付き合ってやろうじゃないの。
本校舎の中に入ると、相変わらず人で溢れ返っていた。
サングラスをかけているとはいえ、もし連れが陽生だとバレたら――という心配が頭を過る。
けれど、いつまた会うかもしれない夕莉にこれ以上誤解されることの方が嫌で、ずっと掴んでいた陽生の手首をさりげなく離した瞬間。
すぐに手を握られた。
ぎゅっと握り締める手から伝わる。
決して離さないと。
手を繋がないとはぐれてしまうほど混雑しているわけではないのに……ああ、そうだった。
小さい頃から、陽生は私と離れることを極端に嫌がっていた。
どこへ行くにも、欝陶しいくらい私の後をついてきて。
少し姿が見えなくなっただけで、ありえないくらい大泣きして。
そんな昔の陽生を思い出すと、繋がれた手を振り払うなんてできなかった。
ふと後ろを振り返る。
陽生が小首を傾げた。
彼女の手元を見ると、いつの間にクレープを平らげたのか、紙屑だけが残っていた。
「……美味しかった?」
「うん! もう一個食べたい」
「悪いけど、二個目はあんたの自費で買って」
「けち。じゃあ、チュロスのチョコソース付きで」
「だから自分で買えってば」
図々しい要求をバッサリと切り捨てる。
言葉では冷たく当たっておきながら、すっかり上機嫌に戻った陽生を前に、心の中では安心している自分がいた。
夕莉のことは日を改めて話そう。
今だけは、残り少ないこの時間を一緒に楽しんであげないと。
「ウサギだぁ! かわいー!」
トリックアートを展示している2年E組の教室で、一際大きな嘆声をあげる女子が私の隣にいて。
「どこが」
そんなはしゃぐ様子に容赦なく吐き捨てる薄情者が、さらにその隣にいた。
私の絵だとわかってわざと暴言を吐く雪平の両頬を片手でむぎゅっと挟む。
写真を撮りまくる陽生をよそに、雪平とちょっとした攻防を繰り広げて、当然のごとく私が制した。
大人しくなった雪平が悪あがきで舌打ちする。
ちなみに、E組の教室内は撮影OKだ。
「何でこれが初見でウサギだってわかんだよ」
「逆になんでわかんないの?」
言っている意味がわからないと心底思っていそうな顔で、陽生は雪平に憐れみの目を向けている。
これに関しては全面的に陽生に賛同する。
私の絵を理解できない雪平の感性がおかしい。
「ホーム画面の待ち受けにする。いい?」
「……好きにして」
嬉々としてスマホを操作している陽生を見て、なんだか無性に照れ臭くなる。
ここまでストレートに絵を褒めてくれる人はなかなかいないから。
トリックアートの館で散々写真を撮って撮らされたあと、4階のフロアにあるお化け屋敷に行った。
中から盛大な悲鳴が漏れ聞こえる。
相当怖いらしい。
「きゃー、こわーい」
陰湿な雰囲気をぶち壊すような甘ったるい声をあげながら、陽生が私の腕にしがみついてくる。
悲鳴をあげて怯えたり、恐怖で足を竦ませながら、それでも勇気を出して歩いたり。
お化け屋敷の醍醐味はそういうところにあるはずなのに、私たちの足取りは場違いなほど軽かった。
「棒読みだな……あんた怖いの平気でしょ。猫被ってないで離れて。歩きづらい」
「カナ、わかってない。お化け屋敷って怖がるものなんだよ? たとえ怖くなかったとしても全力でビビるのが礼儀なの。一生懸命脅してくれてるのに無反応なんて失礼でしょ」
「その話をここでしてる陽生の方が失礼だから。そんな御託並べて、本当はどさくさに紛れてただくっつきたいだけじゃん」
不気味なラップ音も、突然飛んでくる生首も、背後から追いかけてくる貞子も。
あらゆる仕掛けをものともせずに悉くすり抜けながら、お化け屋敷でするような話ではない日常会話を淡々と繰り広げる。
これじゃあただの散歩だ。
でも、なんだかんだで楽しんでるみたいだし……まぁ、いいか。
約束の一時間はあっという間に過ぎた。
最後にデザートが食べたいと言って、ワッフルとドーナツを買わされた。
甘いものばかり食べて大丈夫なのかと、少し心配になる。
「なんであんたの食べるもの全部私が奢んなきゃなんないのよ……」
結局、料金が発生するものは全て私が払った。
おかげで財布の中身は空っぽだ。
「ごちそうさまでした」
「もう二度と一緒に買い物しない」
「やだ」
終始わがままに付き合わされ、体力よりも精神力がかなり削られた。
当の陽生は、養分を蓄えて一時間前よりも元気に潤っている。
遊園地にでも連れて行こうものなら、一日中ジェットコースターに乗り回されるに違いない。
想像してめまいがしてきた。
「ね、どうだった? 舞台にいる時のわたし」
サングラスを下にずらして、上目遣いを向ける。
いちいち顔を合わせる気力もなくて、視線だけを横目に素っ気なく答えた。
「……かっこよかったんじゃない」
「惚れ直した?」
「端から惚れてないし」
自惚れるのも大概にしてほしい。
……でも、かっこいいと思ったのは本当だ。
素直に褒めたらつけ上がるから。
私は"陽生"しか知らない。
だから"Haru"でいるときの彼女が、日頃から子どものように甘えてくるあの陽生と同一人物とは思えないほど生き生きと輝いていて、不覚にも釘付けになった。
「嫉妬した?」
「は? なんで」
「わたしがたくさんの女の子から黄色い歓声と熱い視線を向けられて」
「そんなんで嫉妬するわけないでしょ」
あの舞台にいたのは、"陽生"ではなく"Haru"。
人にはいろんな顔あって。
けれど、いくら親しい間柄でもその全てを知る必要はないと思ってる。
私の知らない陽生の一面は少なからずあるだろうし、その逆も然り。
どんな顔を持っていても、陽生に向ける感情は変わらない。
「それでいい。カナは"
私の回答が満足のいくものだったのか、陽生は嬉しそうにニカッと笑った。
普段は単純なくせに、時々何もかも見透かしたような言動をとるから調子が狂う。
鼓動が速くなっていることを自覚しつつ、目的の正門前に到着した。
近くに黒い車が停まっている。
陽生は私に向き直ると、いつものように別れ際のハグをした。
「送ってくれてありがと。これ、たくさん食べ物奢ってくれたお礼」
離れる瞬間、ブレザーのポケットに何かを入れられる。
確認しようとしたら「あとで見て」と遮るように手を掴まれた。
「今日はすっごく楽しかった! またデートしよ。今度は――わたしのお家で」
名残惜しげに私の手をゆっくりと離し、振り返ることなく車の方へ歩いて行った。
無事に乗り込み、車が発進していくまで見送る。
踵を返し、大きく息を吐いた。
疲労感は半端ないけれど、悪い気はしない。
陽生がはしゃいでいる姿を見られたから。
「……私も、楽しかった」
◇
夜の九時になっても、メッセージに既読がつかない。
文化祭一日目が終わって、生徒たちがとっくに下校したあとも、私は本校舎のエントランスで夕莉が来るのを待っていた。
外はすっかり真っ暗で、校内は昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。
仕事がまだ残っていて忙しいのかなとか、もしかして先に帰っちゃったのかなとか。
いろんな事態を考えながら心配で頭がいっぱいになる。
ひとまず言えるのは、私が送ったメッセージを故意に無視している可能性が高いということ。
間違いなく機嫌を損ねている。
早く夕莉に話したいことがあるのに。
一向に連絡が返ってこない不安で、気がおかしくなりそうだ。
何度目かの電話をかけようとしたとき、不意に廊下を歩く足音が聞こえてくる。
音のする方を振り向くと、待ち焦がれていた人がそこにいた。
「夕莉……!」
しかし、予想通りいつもと様子が違う。
私と目が合わない。
無表情だけれど、怒りも悲しみも苦しみも含まれたような目をしている。
そんな彼女の姿に胸が痛くなるのを感じながら、もう一度名前を呼ぼうとするより先に。
夕莉が静かに口を開いた。
「――ずっと、待ってたのに」
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