第113話 お忍び巡り(2)
陽生は私の首に腕を回したまま、かなりの至近距離で顔を覗き込んでくる。
ハグされているから近いのは当たり前だけど、それにしても密着具合がおかしい。
少しでも顔を向けたら、頬に唇が当たってしまうくらいに。
引き止めるにしても何で抱きついちゃうかな……よりによって夕莉の目の前で……!
「なかなか戻ってこないから来ちゃった。席、そっちじゃないよ?」
「陽生っ、一旦離れて――」
とにもかくにも、一刻も早く陽生を引き剥がさなければならない。
頬を擦り寄せようとしてくるのを間一髪で阻止し、抱擁から抜け出そうと身を捩った拍子。
視界が捉えた様子に、血の気が引く。
夕莉の顔から一切の表情が消えていた。
ついさっきまで私に向けていた優しい笑顔が、悪寒を感じさせるほどの無表情に変わっている。
――怒ってる。
じっと陽生を凝視する目には、光がない。
息の根を止めてしまいかねないほどの怒気を含んだ視線に陽生は全く気付かず、硬直する私に「どうしたの?」と呑気に声をかけた。
体中から尋常じゃない冷や汗がぶわっと吹き出る。
あれこれ考えている暇はない。離れなきゃ。
でも、なぜか思うように陽生を引き剥がせない。
動揺で頭が酷く混乱しているせいか、いつの間にかお腹に腕を回されていることに気付かなかった。
背中に胸を押しつけられている感触が伝わる。
わざとなのか、そうでないのか。
いつものスキンシップより過激なのはきっと気のせい……だと思いたい。
心臓が激しく脈打って、体が熱くなっていく。
抵抗する私の顎に、陽生の指が触れた時。
目の前まで来た夕莉に突然、思い切り腕を引っ張られた。
陽生の腕から解放され前のめりになった私は、夕莉の体に抱き止められる。
まさか、あまりの怒りでこのまま締め上げてくるのでは……と、肝を冷やしたのはどうやら杞憂だったようだ。
身が竦むような恐ろしい雰囲気とは裏腹に、私を抱き締める力は驚くほど優しく、弱々しかった。
それでも、背中の服をぎゅっと掴んでいる手から、絶対に離さないという意志が伝わってくる。
お気に入りのぬいぐるみを取られまいと、大事そうに必死に抱きかかえるような……。
未だ動悸が治らず、この状況をどう対処すべきか考えあぐねる私の耳に、夕莉が口を近付ける。
「羽目を外しすぎないようにと言ったはずだけれど。お仕置きが足りなかったのかしら」
「これは、違くて……」
私にしか聞こえないよう耳元で囁く夕莉の声は、寒気がするほど無機質で。
反論の余地を与えない威圧感に言葉が詰まる。
夕莉が心配するようなことは何も起きてないと宥めたところで、目の前でいかにもな場面を見せられたら、潔く信じてはくれない。
さながら猛獣の檻に放り込まれたような気分だ。
恐怖と緊張感で重圧に押し潰されそうになる中、追い討ちをかけるように。
夕莉の口が私の耳朶を咥えた。
いくら怒っているとはいえ、こんなところでやるのはさすがにまずい……。
耳朶にゆっくりと歯を立てられ、痛みを感じる直前、
「……人のもの勝手に取られたら困るなぁ」
背後から、ため息混じりに低い声が不機嫌そうに呟いた。
滅多に聞かない陽生の強圧的な声音に、またしても背筋が凍る。
夕莉に抱き締められているせいで、二人の顔は見えない。
けれど、見えなくて良かったと今なら心の底から思える。
ただでさえ前からも後ろからも険悪な雰囲気に気圧されて、心身ともに震え上がっているのだから。
その場しのぎでいい。
どうにか二人の怒りを鎮められないかと、狼狽しまくる頭で方法を絞り出した結果、ある一つの結論に辿り着く。
ここからずらかってしまおうと。
追い込まれて思考がおかしくなっているのは自分でもわかる。
けれど、話し合いで解決できそうな状況ではないし、私自身が混乱している状態で二人を落ち着かせられる自信がない。
そうと決まれば、とりあえずトイレに行きたいとか適当な口実を作って……と思った矢先。
場の空気を覆すように、陽生が口火を切った。
「あれ……またお会いしましたね。生徒会長のおねーさん」
さっき発した不機嫌な呟きが嘘のような、明らかに愛想を取り繕ったよそ行きの声。
まるで自分は無害だとアピールしているかのような豹変ぶりが、逆に不気味さを煽る。
穏便に済ませたいのは陽生も同じなのか。
それより、"また"という言葉が気になった。
夕莉が生徒会長であることも知っているみたいだし、二人は面識がある……?
「そんな怖い顔しないでください。不法侵入じゃないですよ。招待券は持ってないですけど、ちゃんと学院の許可はいただいてますから」
違う、そうじゃない。
夕莉が怒っているのは、あんたが軽率に抱きついてきたからなんだってば。
「見回り中ですか? でも彼女、わたしのためにクレープ買ってくれただけで何も悪いことしてないです。――なので、そろそろ離してあげてください」
形だけでも寄り添おうとする陽生からの要求に対し、終始無言を貫きじっとしていた夕莉がピクリと反応した。
彼女の腕が、私の体を強く抱き締める。
簡単には従わないと反抗しているようだった。
再び耳元に口を近付け、不安げな声音で問いかける。
「奏向は……私から離れたいの?」
「…………」
離れたいと思ったことなんて一度もない。
下心を隠さずに言えば、今すぐ抱き締め返したいくらいだ。
けれど、ずっとこのままというわけにはいかない。
平静を保っている陽生の気が変わらないうちに、なんとかこの場を収めないと……。
心苦しい気持ちを無理やり押し殺して、夕莉の肩に手を置いた時。
「夕莉さん。講堂で機材トラブルが起こったとの報告があり、至急ご対応を……」
加賀宮さんが何やら急いだ様子でやって来た。
生徒たちの往来の場で、夕莉が私を抱き締めているという異様な光景を前に、彼女の体が硬直したのは一瞬。
すぐさまわなわなと怒りに身を震わせ、これでもかと不快感をあらわにしながら鋭く睨みつける。
「二色奏向……公衆の面前で堂々とわいせつな行為を働くとは一体どういう神経をされているのです。文化祭だからといって何をしても許されるとお思いで? 大体、会長に対して何たる無礼な狼藉」
「加賀宮さん、ありがとう。この恩は絶対に忘れない」
「……はい?」
まったくの冤罪だけれど。
今は罵倒されようが変態扱いされようが、何だっていい。
加賀宮さんの介入のおかげで、ひとまず解放されそうだ。
意味がわからないと言いたげに加賀宮さんが怪訝そうに眉根を寄せている間、夕莉がそっと腕を下ろした。
右手は私の服の裾を掴んだまま。
何かを訴えかけるような眼差しで真っ向から私を見つめる瞳は、僅かに潤んでいる。
唇を引き結び、視線を逸らすように俯いて、
「……離れたくないって、言ってほしかった」
悔しさが滲む声で、そう吐き出した。
名残惜しそうに手を離して踵を返した夕莉を、咄嗟に呼び止めようとしたけれど、彼女の名前が口から出ることはなかった。
加賀宮さんと一緒にこの場を後にする背中を、ただ見送ることしかできず。
そんな放心状態の私に、陽生は何食わぬ顔で笑みを向けた。
「クレープ、潰れなかった?」
……そうだった。
私、ずっと片手にクレープ持ってたんだ。
中庭に戻るとテラス席が全て埋まっていたため、ベンチに座ることにした。
抜け殻のように脱力して背もたれに寄り掛かる。
陽生にあげたクレープは幸いちゃんと原型を留めていて、中身も溢れたりしていなかった。
どうせ誰も見てないよと余裕ぶって、陽生はサングラスを外している。
一口食べるごとに幸せそうな顔をする彼女を横目に、天を仰いだ。
先の件ですっかり気力を失った私は、戻るついでに買った冷たいお茶をやけ飲みしていた。
また夕莉を不安にさせちゃったなとか、でもあれはさすがに不可抗力だよねとか。
傷つけてしまったことを責めたり、あんな展開になるなんて思わなかったと弁解したり。
反省と同じくらい言い訳も浮かんで、もうとにかく自分が嫌になる。
スマホの画面をじっと凝視しながら、今すぐ夕莉に謝罪の連絡を入れるべきか悩んでいたら。
「あの人でしょ。例のお嬢様」
「ゴホッ!」
唐突に突かれた核心に、ちょうど含んでいたお茶を吹き出しそうになった。
"例のお嬢様"というのは、言わずもがな夕莉のことだ。
私がアルバイトで同級生の付き人をやっていることを、陽生は知っている。
始めたばかりの当時は、かなり反対されたけれど……今もか。
ただ、私を雇っているお金持ちのお嬢様がどこの誰なのかまでは教えていなかった。
「なんで……」
「カナのこと、まるで自分の所有物みたいに抱き締めてたから。あとは今までカナから聞いたその人の特徴と合致してた」
確かに、外見の特徴とか生徒会に所属していることは話した。
陽生にしつこく聞かれて。
そこまでの情報が揃えば、特定されてもおかしくない、か。
夕莉と陽生が接点を持つことはないだろうから、今までお互いのことをほとんど話題に出すことはなかった。
夕莉にいたっては、陽生の存在すら話したことがない。
だから、今日初めて陽生を前にしていろいろ驚いたと思う。
……そうか。
そう考えたら、事前にこの子について話してこなかった私に非がある気がしてきた。
いや、絶対私のせいだ。
責任を感じてますます気落ちする。
「さっきの……"また会った"ってどういうこと?」
「この前下見で学院に来たんだけど、案内板見てたら話しかけられたんだよね」
「来てたの?」
「うん。バレないようにこっそり」
文化祭のゲストに関してもそうだけど、陽生が本当に学院に来るとは思わなかった。
ましてや、そこで二人が二回も会うなんて。
今さら起こったことを悔いても仕方がない。
まずは陽生に話さないと。
私と夕莉の今の関係を。
幼馴染みに私の恋愛事情まで
「……陽生。まだ言ってなかったんだけど……私と夕莉は――」
「今はその話聞きたくないかな」
意を決して打ち明けようとしたところを、食い気味に遮られる。
その口調は、抑圧するような強さがあって。
私が話そうとしていた内容を察しているかのようだった。
クレープを食べて上機嫌だった陽生の様子が一変する。
私の方へ向き直ると、笑顔が消えた真剣な表情で、顔を近付けてきた。
「今、カナといるのはわたしだから。二人きりの時くらいは、わたしのことだけ考えてほしい」
顎に指を添えられ、親指が唇の上をなぞる。
射抜くように私を見つめる陽生の眼差しの奥には、悲しみが隠れているように見えた。
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