第108話 独占欲(1)

 夕莉から生徒会の仕事が終わったと連絡が来たのは、19時を過ぎた頃だった。


 例によって図書室で時間を潰していた私は、昇降口に向かおうと立ち上がる。

 しかしその直後、『生徒会室に来て』と追加でメッセージが届いた。


 生徒はほとんど下校していて、校内は閑散としている。

 この時間帯はすでに日が沈んでおり、空が暗い。

 夜の校舎は、昼間とは一味違う雰囲気があった。


 生徒会室に到着し、ドアをノックしてから入室する。

 最奥のデスクで帰り支度をしている夕莉がいた。


 今日のように、時々生徒会室までお迎えさせることがあるけれど、それは決まって下校時刻が遅くなる時、そしてこの部屋に彼女だけが残っている時だった。


「遅くまでお疲れさま。やっぱこの時期だと忙しかったりする?」

「……そうね。でも、想定していた作業量が超過するほどの事態には陥っていないし、皆もしっかり役割を全うするように動いてくれているから。私自身は特段忙しいと感じることはないわ」

「おお、さすが」


 生徒会の業務に加えて文化祭実行委員のサポートと、やることがたくさんあって多忙なのかと思っていたけれど。

 涼しい顔で言ってのける様子を見ると、そこまで大変な状況ではないのだろう。


 とりあえず中央にあるソファーに座り、帰り支度が終わるのを待つ。


「出し物の準備はどう? 順調に進んでる?」


 筆記用具や書類を鞄にしまいながら問いかける夕莉の声は、どこか淡白で。

 しかし、彼女の些細な異変に気付くこともなく、振られた話題を広げることしか頭になかった。


「そうそう、聞いてよ」


 いろんな意味で賑わった今日の準備時間。

 あの後、再び私から刷毛を奪った雪平と攻防を繰り広げ、木崎さんの説得とクラスメイトたちのフォローにより、最高傑作のウサギだけは塗り潰されることなく死守できた。


 その記念に撮ったウサギの絵を夕莉に見せたくて、ブレザーのポケットからスマホを取り出す。


「うちのクラス、トリックアートやるんだけどさ。こっちはちゃんと真面目に作ろうとしてんのに、雪平が私の絵に難癖つけてくんのよ。"下手だから描かせるわけにはいかない"とか言って、刷毛奪おうとしてくるんだけどあの子、全然筋力ないから――」

「奏向」


 突き刺すような強い声音が、話を遮る。


「部屋の鍵、閉めて」

「……? うん」


 これから帰るのにどうして鍵なんか閉めるんだろうと疑問に思いつつ、久しぶりに聞いた夕莉の有無を言わせない命令口調に体が反射的に反応する。

 話を強制的に遮られたことよりも、抑揚のない冷めた口調が何となく気になった。


 そういえば、生徒会室に入ってからまだ一度も夕莉と目が合っていないような……。


 言う通りに鍵を閉めて、踵を返そうとした時。

 不意に夕莉の腕が私の腰に回され、後ろから抱き締められた。

 足音も気配もなく、唐突に背後をとられたことに一瞬ヒヤリとする。


「……夕莉?」


 急に甘えてきたのかと思って気が緩んだのも束の間、次の一声でその可能性はないのだと悟る。


「雪平さんと仲がいいのね」

「……まぁ、中学の頃から付き合いあったし」


 何事もないかのように装いながら、内心では違和感と焦燥感でいっぱいだった。


 夕莉の声が、いつもと違うから。

 怒っている時の声よりも落ち着きはあるものの、不満や不信を抱いているような暗さを感じる。


 彼女の様子を確認したいけれど、背中に密着されているせいで振り向くことができない。


「私は……後ろから抱き締められたことない」


 恨めしげに吐き出された小さな呟きとともに、お腹に回されていた夕莉の腕に力がこもる。

 何のこと? と聞き返そうとして、私のネクタイに手がかけられた。

 あっという間にするりと解かれる。


「これ、貰ってもいい?」

「えっと……いくら夕莉のお願いでもそれはちょっと困るんだけど」


 ブラウスの一番下のボタンとかならあげてもいい……って、そういう問題じゃない。

 これは、特待生制度のおかげで学費以外に諸々の費用も全額負担してもらい与えられた制服だ。


 聞くところによると、この制服には生粋のお金持ちが愛用するような超高級生地が使われているらしい。

 ネクタイ一本でも失くせば、そのとんでもない購入費が我が家の家計にとって大打撃となるのは確実。

 というわけでお断りしたはずが、夕莉には私の声を聞く気がさらさらないようだ。


「今、奏向に逆らう権利はないから。私が主人で、あなたは付き人。どちらが"上"か――わかっているわよね」


 明らかに不機嫌な口調。

 私が怒らせた、というか、何か気に障るようなことをしてしまったのかもしれない。

 ただ、思い当たる節がないせいでどう宥めるべきかわからず、率直に理由を訊くことしかできない。


「……いきなりどうしたの? 私、何かした?」


 今朝は全然普通だったのに。

 ということは、朝に別れてから今に至るまでの間で、何かやらかしてしまったということになる。


 メッセージは三十秒以内に返しているし、連絡が来てから生徒会室に迎えに行くまで五分もかかっていないから、待たせるようなこともしていない。


 そもそも、文化祭の準備期間も相俟って日中はほとんど顔を合わせることがないのに。

 夕莉を不機嫌にさせるきっかけなんて一体どこに――


「あなたが私以外の人に抱き付いているところを目の前で見せられて、私が何も感じないと思う?」


 夕莉以外の人に抱き付くって……まさか、廊下で雪平と戯れていた時のこと?

 そうか……偶然通りかかった夕莉に無視された原因と、今こんな状態になっている理由がわかったような気がする。


 これは怒りではなく、嫉妬――。

 そう気付いた時には、遅かった。


 すっかり意識が別のことに向いていた間に、奪われたネクタイで素早く後ろ手に縛られる。


「ちょっと、何すんの――」


 背後に振り返った瞬間、夕莉の手が顔のすぐ真横を突いた。

 逃がさないと言わんばかりに。


「あなたが誰のものなのか、わからせるためのお仕置き」

「…………」


 冷や汗が出る。

 逃げ場がない。背後は壁。両手は縛られて。

 目の前には瞬き一つせず、静かな狂気を宿した鋭い視線で、真っ向から射抜くように私を見据える夕莉がいる。


 目が本気だ。

 焦ったく煽るような甘い誘惑なんかじゃない。

 絶対的な主従関係を植え付けようとする、脅迫。

 逆らうことは一切許さないという圧力が、放たれる空気からひしひしと伝わってくる。


 これはもう……土下座して謝るしかない。

 友達同士のただのスキンシップだから、なんて言い訳でもしようものなら、今度はきっと口を塞がれる。


 これがもし逆の立場だったら、私も嫉妬すると思うから。

 だからといって、ここまで態度が豹変することはないかもしれないけど……。


 意を決して、膝を曲げて前屈みになった直後、まるでその行動を見越していたかのように、肩を壁に押さえつけられた。

 跪こうとしていた勢いと体を押された反動で尻餅をつく。

 壁にもたれる私の上に、夕莉が馬乗りになり覆い被さってきた。


「土下座でもするつもりだった?」

「うっ……」


 完全に手の内を読まれている。

 肩を押さえつけたままだった夕莉の手が、おもむろに私のブラウスのボタンに触れた。


「形だけの謝罪なら必要ないのだけど。それとも、咄嗟に謝ろうとするほど後ろめたいことをした自覚があるのかしら」

「ゆ、夕莉……落ち着こう? ね?」


 至近距離で顔を覗き込んでくる彼女の視線が、これまでにないほど痛い。

 というより、もはや怖い。

 宥めるように声をかけても、当然ながら聞く耳を持たず、淡々とブラウスのボタンを外していく。


 頭の中は盛大な混乱状態で、抵抗する術はなく、されるがまま胸元があらわになった。


「奏向――何をされても耐え抜いてね」


 聞き取れるか怪しいほどの声量で呟いた直後。


「……っ!?」


 胸元に顔を埋めた夕莉が、肌に舌を這わせた。

 湿り気のある肉厚なものが、ねっとりと蠢く。

 胸元から鎖骨にかけて、舌全体を押し付けるように密着させては、じっくりと舐められる。


 唇の柔らかい感触と、舌のぬめり気のある弾力と、吹きかけられる吐息が、敏感な部分を容赦なく刺激する。


 次第に、呼吸が不規則になっていく。

 抵抗できない状況で犯されているような感覚に、不覚にも体中が熱を帯び始めた。


 ……これは、やばい。

 いろんな意味でやばい。


 やめさせたいけれど、今の夕莉には言葉では到底聞き入れてもらえない。

 かと言って、力づくで押し退けようにも、後ろ手に縛られている体勢がかなりキツくて思うように動けない。


 この状況を打開する方法を何とか考えてみるも、徐々に快感が頭の中を侵食していき、思考力がどんどん奪われていく。

 こんな時に気持ち良さを感じている場合じゃない……のに、夕莉の舌使いがあまりにも達者で、いやでも感じさせられてしまう。


 時折響くキスのリップ音と、唾液の溜まった口内で舌が動く時の水音。

 触覚だけでなく、聴覚までも犯されていく。


 流し目に夕莉へ視線を向けると、私を見上げる彼女と目が合った。

 胸元にべっとりと舌を這わせながら、冷たい眼差しで見据えてくる姿に、興奮で心臓が止まりそうになる。


 間違いなく、胸の鼓動が夕莉に伝わっている。

 快楽と羞恥で上気する表情を見られたくなくて、細やかな抵抗の意味も含め顔を逸らしたのも一瞬。

 すぐさま顎を掴まれ、無理やり正面を向かされた。


「逃がさない」


 眼前に夕莉の顔が迫る。

 唇にキスされるかと思いきや、首筋にかぶりつかれた。

 声が出そうになるのを、間一髪で抑え込む。


 まだ……まだ、耐えられる。


 どこでこんなやり方覚えたんだと思うほどの的確すぎる攻めに、何度も歯を食いしばって快感を我慢する。

 これは"お仕置き"だと、夕莉は言っていた。

 だから、一人で気持ち良くなってはいけない――そう強く誓っていたのに。


 首筋を蹂躙していた舌が、少しずつ舐める場所を変えていく。

 その行き先がどこに向かっているかを察して、思わず戦慄が走った。


 必死に身を捩ろうとするよりも早く、夕莉の口が私の耳を咥えて舌を這わせた瞬間。

 一気に力が抜けて、一際大きく体が震えた。


「……ッ」


 火照る、なんて可愛いもんじゃない。

 噴火する勢いで、指先まで体が猛烈に熱くなる。


「――耳、弱いのね」


 頬を撫でながら耳元で囁かれた妖艶な声に、ゾクっと背筋に冷たいものが走る。


 弱みにつけ込む悪魔のように。

 美しくも怪しげな微笑みが夕莉の顔に浮かんだ。

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