第107話 準備(2)
* * *
文化祭の準備で賑わう午後。
夕莉は詩恩と共に、校内の見回りを行っていた。
スケジュール通りに進行しているか、安全面や衛生面に配慮した設営ができているか、実際の準備段階でトラブルがないか等の確認をするために。
最も大きな会場となる講堂と多目的ホールの点検を一通り終えて、二人は本校舎へ向かう。
「現時点で支障となる問題は、特になさそうですわね。リハーサルに向けての準備も予定通り進んでおります」
「前日に担当者が機材や装飾の最終確認を行うはずだから、それまで現状維持で。他の進捗状況については適宜、突発的に起こった事案は速やかに本部へ報告してもらうように」
「はい、改めて周知しておきますわ」
事務連絡を交わしながら点検時のチェックリストをタブレットで確認していると、何かを期待するような弾んだ声で、詩恩が尋ねてきた。
「ところで夕莉さん。先日届いたお召し物ですが、本当に衣装合わせをされなくてもいいのですか?」
「ええ。発注前の試着で大体の確認はとれているから」
咄嗟に言い訳を述べる。
二日ほど前にクラスの出し物で使用する衣装が届いたが、全体準備の進行と管理で忙しく、衣装の確認まで手が回らない――というわけでもなかった。
あの衣装をどうしても着ざるを得ない状況以外では、極力着たくない。
それが夕莉の本音だった。
「しかし、発注前の試着品と実物では寸法に差異がある可能性も完全には否定できませんの。普段お召しにならないような特殊な衣装ですし、今のうちに違和感がないかを確認したり実際に着用して着心地に慣れていただくことで、本番では滞りなく慌てずにお召し替えできるかと」
「……メイド服の構造は熟知しているから問題ないわ。サイズも二回り以上違っていなければ着られないことはないでしょう。それより、今は各クラスの点検が先よ」
熱い眼差しで見つめてくる詩恩を軽く流すようにあしらい、衣装の話題を終わらせるべく強制的に切り替えた。
しかし意見を曲げる気はないようで、頑なに食い下がってくる。
「そうはいきませんわ。もちろん点検も大事ですが、仮に万が一衣装の不備が原因で夕莉さんの身に何かが起こってしまえば――」
「……どうしてそんなに着せたがるの?」
頬を赤らめて恥ずかしげに両手で顔を隠す詩恩に、夕莉は怪訝な視線を向ける。
彼女の考えることだから、本番で衣装が破れたりしたら困る、とか何とか適当な口実をつけて、個人的な願望を叶えようとしている下心が透けて見える。
「私的な都合で大変恐縮ではございますが、当日は夕莉さんが入られているシフトの時間に立ち会うことが難しく……今のうちにその見目麗しい貴重な御姿をこの目に焼き付けあわよくば写真に収めたいと――ああっ、夕莉さん!」
うっとりと快感に浸るような気持ちで語りながら横を見ると夕莉の姿はなく、いつの間に置いていかれていたことに気付いた。
遥か前方を歩く夕莉の後ろを、慌てて追いかける。
本校舎のエントランスホールに入ったところで、ふと夕莉の視界にある人物が映った。
一瞬とはいえ、何となく学院の関係者とは思えないような風貌だったことに違和感を覚える。
大階段を登ろうとしている詩恩は、少し離れた場所にいるその人物に気付いていないようだ。
彼女を呼び止めても良かったが、不審者の様子を遠目で確認するだけなら一人で事足りる。
何かあれば、詩恩ならすぐ駆けつけてくるだろう。
「私は一旦職員室に寄るから、加賀宮さんは先に点検を進めていてくれる?」
「承知しましたわ」
聞き分けよく頷いた詩恩をそのまま先に行かせ、夕莉は職員室へ向かうことなく踵を返す。
エントランスホールの一画にある大きな電子案内板。
そのディスプレイを穴の開くほど凝視しながら、何やらぶつぶつと呟いている女がいた。
「……本校舎がここで……二年生の階は確か……」
背格好は未成年というより大人の体躯に近く、手足がすらりと伸びており身長も高い。
大きめのパーカーにスキニーパンツを合わせた、カジュアルな格好をしている。
着崩しが自由とはいえ、基本的には制服着用を定めている学院内で、私服を着てくる生徒はかなり珍しい。
彼女が学院の生徒、もしくは教員ではないことは、服装の他に首から下げている入校許可を示すカードが証明していた。
入校証を持っているということは、きちんと正規の手続きを踏んで校内にいるのだろう。
しかし、怪しい。服装のみなら至って普通だが、サングラスをかけているだけで怪しさが増す。
とはいえ、目を付けてしまった以上、案内板を見て首を捻っている女をこのまま素通りするわけにはいかない。
夕莉は彼女に話しかけることにした。
「何かお困りですか」
「……ありゃ」
声をかけられた女は、驚いたように夕莉の方へ振り向く。
薄茶色の長髪がふわりと靡いた。
その瞬間ほんの僅かに香った匂いに、夕莉は既視感を覚える。
何の匂いだったかを思い出す前に、女がサングラスを少しだけ下にずらして、恐る恐る覗き込むような視線を向けた。
覗く瞳は、くりくりとして大きい。
「えーっと……おねーさん、わたしのことご存知ないですか?」
「……これまで一度もお会いしたことはないと思いますが」
「……なるほど」
暫し黙考した後、女は納得したように頷いてサングラスの位置を直した。
そして気を取り直したように、陽気な調子で会話を続ける。
「あ、この案内板すごいですね。お嬢様学校ってどこもこんな感じなのかな」
「……他校の設備について詳しくは知りませんが、デジタルサイネージを設置している学校は私立以外にもあると思いますよ」
「でじ……?」
聞き慣れない単語に、女が首を捻った。
エントランスホールに設置している電子案内板はタッチパネル型で、スマホのような直感的な操作で取得したい情報にアクセスできるようになっている。
学院の生徒や教員が利用する機会は少ない、来客向けの設備である。
女は興味本位でただ案内板を見ていただけかもしれないが、念のため助け舟を出してみる。
「何かお探しのようでしたが、差し支えなければ目的の場所までご案内しましょうか」
「わー、ありがとうございます。じゃあ…………っと、ごめんなさい。やっぱり大丈夫です。今日はあくまで下見に来ただけなので。特にここへ行きたいってわけじゃないんです」
夕莉の言葉に喜んだのも束の間、女はすぐさま首を横に振った。
無理やり軌道修正した感は否めないが、困っているわけではないのなら、これ以上構うのはお節介になるかもしれない。
会話を交わした限りでは、彼女が変質者である可能性は低く、必要以上に懸念するほどではない。
この場を去るため一声かけようとしたが、先に女が口火を切った。
「もうすぐ文化祭なんですよね。SNSで告知されているの見ました」
ポケットからスマホを取り出し、にこりと笑う。
「この学院にわたしの知り合いがいるんですけど、その人から招待券をもらっていなくて。文化祭行けると思って、すごく楽しみにしてたんですけどね……」
聖煌学院の文化祭は招待制のため、部外者が入場するには学院関係者から招待券をもらわなければならない。
朗らかに笑っていた女が、残念そうに苦笑する。
わかりやすく落ち込む彼女の姿を前にしても、夕莉の淡々とした態度は変わらなかった。
「そうですか。お知り合いの方のお名前を教えていただければ、あなたが招待可能な方であるかをこちらで確認して、私から招待券をお送りすることもできますが」
「え、そんなことできるんですか?」
「……一応、被招待者の選定に関わる権限は持っているので」
サングラス越しでも女がキラキラとした眼差しを向けているのが伝わってくる。
嬉しそうに口角をあげていたが、不意に陽気だった雰囲気が一変する。
顎に手を当てて暫く考える素振りをした後、ずいっと夕莉に顔を近付けた。
「もしかして生徒会長さん、だったりします?」
声のトーンが変わった、ような気がした。
一瞬にして警戒心が芽生える。
いきなり核心を突いたような問いに、夕莉は返答に窮した。
素直に肯定するのは何だか気に障る。
かと言って、生徒会長である本人が違うと嘘をつくのは、仮にも学院の来訪者に向けて失礼な返答になる。
今まで眉一つ動かさなかった夕莉の無表情に、注視してようやく気付くほどの歪みが生じた。
至極簡潔に答えを返す。
「……はい」
「そうでしたか。道理で貫禄のある方だと思いました。所作が綺麗で、佇まいも凛としていて、なんだか――本物のお嬢様みたいですね」
先ほどまでの物々しい雰囲気が一切なくなり、元の朗らかな調子に戻っていた。
けれど、含みのある発言がどうも引っ掛かる。
無言になる夕莉のただならぬ気配を察したのか、そうでないのか。
女はあっけらかんとした態度で話を戻した。
「すみません、知り合いの情報をお伝えしないと。えっと、彼女の所属は二年E組で、名前が――」
肝心の情報を口にする直前、女の声が止まる。
微動だにしない彼女を夕莉が怪訝に思っていると、再び苦笑いを浮かべた。
「んー……配慮していただいたのに何度もごめんなさい。やっぱりこれも大丈夫です」
「……いいんですか?」
「はい。……迷惑かけたら怒られちゃう」
楽しみにしていたというのに、なぜかすんなり身を引く姿勢に疑心が募っていく。
女に対する不信感を覚えつつ、表向きでは可能な限りの助力はする。
「受験をお考えの中学生とその保護者、当校の卒業生、もしくは当校生徒のご家族でしたら、招待券なしでもご入場いただけます。あなたは……」
「どれにも当てはまらないですね」
「それでは申し訳ありませんが、安全面での関係上、招待券をお持ちでない方はご参加いただけないことになります」
「仕方ないです。招待券とかって、自分からねだるものでもないと思いますし。それに、彼女がわたしを誘わないってことは……まぁ、そういうことでしょうから」
あっさり諦める潔さと、案外まともな動機だったことに、夕莉は拍子抜けする。
しかし、だからといって警戒心が消えたわけではない。
彼女は夕莉からの提案を受け入れようとして断った。それも二回。
理由があったのだろうが、それが正当なものかは当然わからない。
もし、彼女が良からぬ何かを企んでここに来ているのだとしたら――。
「……これはあくまで確認ですが、当校にお知り合いがいらっしゃるというのは本当なんですよね」
「本当ですよ。……多分、おねーさんがよく知っている人だと思います」
口角を上げて笑みを浮かべる。
またしても含みのある物言いに、夕莉はいよいよ眉をひそめた。
その発言すら、決して信憑性が高いとは言えない。
何より、初対面のはずなのに、まるで夕莉の交友関係を知っているかのような口ぶりが警戒心に拍車をかける。
彼女の身元を聞き出すべきか迷っていた時、どこからか悲鳴のような声が響いた。
「いたぁ!」
何事かと思い、声のした方に目を向けると、大階段の踊り場から身を乗り出すようにしてこちらを見ている、スーツ姿の女性がいた。
「あー、見つかっちゃった」
女がぼそっと呟く。
かくれんぼで鬼に見つかった時のような、まるで遊び感覚の軽い口調だった。
大階段を猛スピードで駆け下りてきた女性に向けて、くつくつと喉を鳴らして笑う。
「マヤさん必死すぎ」
「必死にもなりますよ! もしハルさんに何かあったら私の首が飛んじゃいます! この前も自宅まで送ったはずなのになぜか家にいなくてヒヤヒヤしたんですからっ」
ハルと呼ばれた女は、相変わらず笑いを堪えきれずにいる。
懸命に事の重大さを伝えようと、顔を真っ赤にしながら訴えるも、スーツの女性――
反省の色が見えない彼女の態度に、真野がさらに怒るという悪循環が生まれる。
「ただでさえ目立つんですから、勝手な行動は慎んでくださいっ」
「校内を見学してただけだよ。バレないようにちゃんとサングラスもかけてるし」
「校内でサングラスをかける人がどこにいるんですか! 余計に注目浴びちゃいますよ!」
真野の言っていることは尤もだった。
エントランスホールに来るまでにもサングラスをかけていたのだとしたら、長身も相俟ってさぞかし目立っていたに違いない。
「大体、打ち合わせの出席は私だけの予定だったのに、ハルさんがどうしてもと言うから条件付きで同行させたんですよ。ちゃんと約束を守ってもらわないと困りますっ」
「だって……カナの通ってる学校、一度でいいから見てみたかったんだもん」
「来週お邪魔するんですから、別に今日じゃなくても――」
「……だめ?」
「うぅ…………仕方ないですね」
「ちょろ」
「今なんて言いました!?」
完全に遊ばれている。
悪いことをしている自覚がまるでないようなハルの振る舞いが、悪戯を楽しむ子どものように見えた。
真野に対しては幾分か砕けた態度で接している様子を見ると、所々に幼さを感じる瞬間がある。
第一印象では年上かと思っていたが、もしかしたら同世代かもしれないという推測がふと生まれた。
二人のやりとりを観察していた夕莉の存在にようやく気付いた真野が、心底申し訳なさそうに深々と頭を下げる。
「ご迷惑をおかけしてすみません」
「いえ、大丈夫です」
その後、何度か夕莉に頭を下げた真野は「帰りますよっ」と言ってハルの手を引き、エントランスを去っていく。
咄嗟に振り返ったハルが、サングラスをずらして笑顔を向けた。
「またお会いできたらいいですね。おねーさん」
最後の笑みは、他意が感じられない純真無垢なものだった。
ひとまず事態が落ち着き、夕莉は小さくため息を吐く。
いくらか疑念が残るものの、彼女が本当に悪い人ではないということは何となく感じた。
「"ハル"……?」
しかし、彼女の名前はどこかで聞き覚えがあった。
同一人物である可能性はないとは言い切れず、手に持っているタブレットを起動し、確認のため文化祭関連の資料に目を通す。
企画書のページ内。
目玉となるイベントのシークレットゲストの欄に、"Haru"という名前があった。
二階で待っていた詩恩と合流する。
先に進めていた分の点検の結果を共有し、作業を再開した。
二年生のフロアである三階へ到着すると、賑やかな雰囲気が漂っていた。
文化祭当日よりは大人しいものの、準備期間中も活気が溢れる。
廊下を歩いていると、詩恩が突然不機嫌そうに顔をしかめながら、独り言のように呟いた。
「騒がしいですわね……またあの蛮人ですか」
彼女の視線の先を辿る。
盛大に戯れて一際注目を浴びている二人と、それを見守る生徒たちの姿があった。
一目でわかる奏向の容姿に夕莉は目を奪われたが、胸を焦がす感情は一瞬でひっくり返る。
傍から見れば、友達とただ戯れ合っているように映る。
しかし、友達同士だとわかっていても、そうとは思えないほどの二人の距離の近さに、夕莉の中で黒い感情が渦巻く。
夕莉に気付いた奏向が、笑顔で手を振った。
その柔らかな笑顔は、周りに向けていたものと同じで――気に食わない。
「夕莉さん、どうかされましたか?」
「……いえ、何でもないわ」
奏向へ反応することなく、夕莉は無表情のままその場を後にする。
放課後、彼女を呼び出さなければ。
飼い主以外に懐かないよう、躾を施すために。
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