第105話 宵のひと時

 何でだろう。

 電話が苦手なわけでも、ましてや夕莉と通話するのが初めてというわけでもない。

 にもかかわらず、今とてつもなく心臓がバクバクと脈打っている。


 夜にかけてきたから?

 予想外すぎて心の準備ができていない。

 昼間の業務連絡は何とも思わないのに。


 そういえば、最近はほとんどメッセージで連絡を取り合っていたから、電話は久しぶりな気がする。


 陽生の相手ですっかり疲弊していた体が、一気に活力を取り戻す。

 さっさと出ればいいものを、振動し続けるスマホを握り締めて、その場で右往左往しながら一向に応答ボタンを押せずにいた。

 早く出ないと切られてしまう。


 硬直すること数秒。

 緊張が解けないまま、どうにか意を決してボタンを押した。


「もしもし」

『……奏向。今、大丈夫?』

「うん」

『いきなり電話してごめんなさい。なかなか出なかったから、もしかして取り込み中だったのかと思って……』


 不思議なことに、ためらいがちな夕莉の声を聞いたら、段々と気持ちが落ち着いていった。


 当然だけど、電話越しの声はリアルの声とは違う。

 それでも、いつも話している時のような心地よさを感じる。


「全然。ちょっと……夜ご飯作ってたから、すぐに出られなかっただけ」


 というのは建前で。

 今さら緊張してあたふたしていたなんて恥ずかしくて言えない。


『やっぱり後でかけ直すわね』

「遠慮しないでよ。いつもは一方的に連絡してきてんじゃん」

『それは……業務時間内だからで、今はプライベートな時間だから』


 控えめにそう話す夕莉の声は小さい。


 昼間はあれこれと遠慮なく命令してくるくせに、いざ気を遣われると何だか変な感じがする。

 でも、そういう線引きをしっかりしているところは彼女らしいというか。

 平気でド深夜に電話してくるどこかの誰かさんも見習ってほしい。


「私のプライベートなんて、あってないようなもんだから。夕莉からの連絡ならいつでも大丈夫だよ。どうかした?」

『その……特に用があるわけではなくて。ただ――』


 少しの間、沈黙が流れる。

 何か深刻な相談でもされるのかと思い、自然と眉間にシワが寄り始めた時。


『奏向の声が聞きたくなったの』


 普段の淡々とした口調とは想像もつかないような、照れくさそうに恥じらう声が電話越しに届いた。

 頬を染めている夕莉の顔が容易に思い浮かぶ。


 愛おしい感情が一気に込み上げてくると同時に、つい失笑してしまった。だって。


「別れてからまだ二時間も経ってないけど」

『それは、そうだけど……最近、家にいると奏向のことを考えてしまって……物寂しくなる』

「夕莉、そんなに寂しがり屋だったっけ」

『それだけあなたのことを恋い慕っているから、だと思う』

「すっごいストレートに言うじゃん」


 さっきまでの恥じらいはどこいった? と突っ込みたくなるほどの率直な心情の吐露に面食らう。

 ためらうのは最初だけで、一度スイッチが入れば枷が外れるのだと思う。


 夕莉の一直線な愛情表現に感情が乱されないよう、必死に理性を保つのがどれだけ大変か……。


「声だけで満足できる?」

『そうね……欲を言えば、顔が見たい。……声もそうだけど、奏向の顔も好きだから』

「顔?」


 いきなりの告白に、体が瞬時に火照る。

 ベタ褒めされているようで、かなりこそばゆい。

 まさか顔も好きだと思われていたなんて。


『特に目が……瞳の色が綺麗で、ずっと見ていたくなる』

「そんなの人生で初めて言われた。でも、それを言うなら夕莉の目だって綺麗だよ」

『本当?』

「嘘はつかない。私が夕莉と話す時、じっと目見てるでしょ? あれ、見惚れてる証拠」

『そうだったのね……嬉しい。こういう話なら、電話ではなくて奏向の顔を見ながら直接話したかったわ』

「直接だったら、恥ずかしがって言えないんじゃない?」

『……どうかしら』


 図星だ。きっと、電話だからこそ話せたことなのだと思う。

 対面もいいけれど、離れた場所で、相手の顔を想像しながら話すのもまた、違った高揚感を味わえる。


「でも意外だなー。夕莉が面食いだったとは」

『……そう思われるのは心外ね。顔しか魅力がなければ、一生あなたに気を許していなかったと思うけれど』

「一生って……」


 私に心を開いてくれたのは、顔以外にも魅力があったから、ということだろうか。

 そこは素直に"内面も好き"って言ってくれないのね。

 ここにきて急にいつも通りの冷静な態度で返されるとは、さすがに予想外だった。


『奏向は、私のどこを好きになったの?』

「私? 知りたい?」

『教えて』


 今度は私が夕莉に伝える番だ。


「んー……顔」

『…………』

「――は、言われ慣れてますよねぇ」


 沈黙が怖くて、すぐさま戯けて誤魔化す。


 もちろん、夕莉の顔が好きなのは嘘ではない。

 "顔も好き"と言ってくれたお返しに、私も同じ答えを出したらどんな反応をするのか、試してみたかっただけ。


 期待するような声音で訊いた彼女には申し訳ないけれど……自分で勿体ぶっておきながら、正直言って"どこを好きになった"という明確な部分は、ない。

 それは決して悪い意味ではなくて。

 本能で惹かれた、なんて言っても信じてくれるかな……。


「そうだなぁ……気付いたら、ふとした時に夕莉のことが頭に浮かぶようになって……一緒にいるだけで楽しいし、不意に見せてくれる笑顔もめちゃくちゃ可愛いし、声を聞くと安心するし、隣にいることがすごく幸せだなって思う。それって全部、夕莉だからこそ感じられることで――」


 言葉では上手く表現できないけれど。

 "好き"の気持ちは彼女に負けていないと思う。


「夕莉が好き、じゃだめかな」


 "どこが"という具体的な部分ではなくて、全部ひっくるめて彼女の存在そのものが好き、という結論に至った。


 しかし、なぜか返事が一向に返ってこない。

 答え方を間違えたのかと思い、冷や汗が溢れてくる。


 ……やばいな。私のせいで空気変わった?

 それなら、別の話題を出さなければ。


「そういや、夜は眠れてる?」

『ええ』


 良かった。反応はしてくれる。

 不機嫌になっている雰囲気もない。

 ただ、返事までにほんの少しだけ間があったことに違和感を覚えた。


「ほんとに?」

『……どうして?』

「なんとなく」

『…………』


 そして、またしても沈黙。


 私は基本的に、お互いが何も話さず黙ったままの空気を気まずいとは思わない。相手が誰であろうと。

 ただ、例外はある。それがまさに今だ。

 好きな子の機嫌が気になって仕方ない時。


 何か失言した……のかもしれないが、心当たりが何一つない。

 どうしようかと目が泳ぎ始めて、ようやく夕莉から反応がきた。


『奏向……私の家に、泊まりに来ない……?』


 ……あれ、話の流れがおかしいな。

 お泊まりに誘われるような雰囲気の話題じゃなかったと思うけれど。


 いや、今はそんなことを気にしている場合ではない。

 せっかく繋げてくれた話を広げなければ。


「えっと……泊まり込みの雑用を任せたいとか?」

『……一緒に、寝てほしい』

「……!?」


 心臓が止まるかと思った。


 寝る……ねる……練る……ネル?


 よく考えろ。

 恋人からの"寝てほしい"は、もしやの意味が含まれているのでは――いやいや、さすがに想像力が逞しすぎる。

 意味深な発言を何でもかんでも卑猥な方に結びつけるのは、本当によろしくない……


『奏向がいてくれたら、いつもよりよく眠れると思うの』

「……あー! うんうん、やっぱそーだよねッ!」


 ほら、結局そういう健全な意味なのよ……。

 一人だけ別のこと想像しちゃって恥ずかしい。

 よく眠れないから、添い寝してほしくてお泊まりに誘う。

 会話の流れとして、どこもおかしなところはない。


 しかし、かなり動揺したせいか思わずポロッと本音を口にしてしまった。


「あんな言い方されたら、襲ってもいいって勘違いしちゃうでしょ」

『…………』

「なんて、冗だ――」

『どんな風に襲ってくれるの?』

「……ん?!」


 聞き間違い、じゃないよね……。

 まるでそうしてくれるのを期待しているかのような言い方で、また勘違いしそうになる。

 ここでお茶でも飲んでいたら、間違いなく吹き出していた。


 動揺がさらに酷くなって、頭の中が冷静ではいられなくなる。


「いやっ、これは……ふざけて言っただけで……」

『……してくれないの?』


 求めるような、甘い誘惑の声。


『この前の、続き』


 妙に色っぽいその響きが、あの時の記憶を一瞬で思い起こさせる。

 夕莉の部屋に漂う柑橘系の香りまで、鮮明に。


 純粋な胸の高鳴りとは違う、色情に塗れた興奮が体中を駆け巡って、居ても立っても居られなくなる。

 抑えきれなくなりそうないやらしい欲望を何とか押し殺して、平静を装った。


「そんなに煽んないで……」

『わざと煽っているの――気付いてよ』


 弱々しく訴える声が、情欲に拍車をかける。

 おそらく夕莉には、その覚悟があるのだろう。

 でなければ、ここまで露骨に誘ってきたりしない。


 彼女の誘惑に全く気付いていないわけではない。

 もちろん私だってしたいし、夕莉の同意があるなら尚更ためらう必要もない。

 けれどそれ以上に、大事にしたい気持ちの方が勝って、いざやっていい雰囲気になってもその先に踏み込めずにいる。


 あの時は……お互いにすごく興奮していたから、流れでいけるかもと思った。

 それでも、今冷静に考えるとやっぱり怖くて――夕莉を壊してしまうのではないかと。


 これ以上この話を続けたら、いよいよ理性がどうにかなってしまう。

 夕莉の声が段々柔らかくなっていることに気付いて、強引に話題を変えることにした。


「……夕莉、眠くなった?」

『…………少しだけ。奏向と話していたら、安心したのかも』

「そろそろ寝る準備する?」

『……そうする。明日が待ち遠しい……早く、奏向の顔が見たい』

「明日なんてすぐ来るよ」


 そんなに私の顔が好きなのか……と、若干複雑な感情が生まれた。

 いつでも見られるように、写真とか撮っておいた方がいいのかな。


 夕莉の口調がいつもより砕けている。

 相当気が緩んでいるのか、眠くて意識がおぼつかないのか。

 とにかく、今すぐにでも眠りについてしまいそうな、吐息の多い舌足らずな夕莉の声音が可愛くて仕方ない。

 今日のところは早く休ませてあげよう。


「今夜はよく眠れるといいね」

『うん……おやすみなさい』

「おやすみ」


 電話は夕莉の方から切れた。


 有耶無耶にしてしまったお泊まりの話は……昼間の正常な思考の時に改めてした方がいいか。


 未だ収まらない胸の鼓動。

 今さらになって、顔がとんでもなく熱くなってきた。

 やっぱり夕莉と話すのは楽しくて、たまに刺激的でドキドキする。


 しばらく余韻に浸っていると、すっかり忘れていた洗濯機の終了音が鳴った。

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