第104話 来訪者
「
畳の上に正座させ、私も彼女の正面に座る。
どうして怒られているのかわからないと言わんばかりのぽかんとした表情で、陽生はじっと私を見つめていた。
まん丸の目をパチパチと瞬かせながら。
ただ、体裁だけは反省しているようで、手足の長い体をうんと小さく縮こめている。
いくら大人しい態度を見せていようが、ここはちゃんと叱らなければならない。
破壊しそうな乱暴さでドアを開けたことも、力加減を考えずに押し倒してきたことも。
これらは今日に限ったことではなく、常習的にやらかしている行為なのだから。
けれど、そんな危なっかしさを注意するよりも、真っ先に口をついて出たのは他のことだった。
「ちゃんと鍵閉めないと危ないでしょ。家に入ってきたのが私じゃなかったら? その可能性もあったんだよ。今ここにいるのが泥棒だったらどうすんの」
「カナが助けてくれる」
「いつでもどこでも駆けつけられると思うな」
何よりも問題なのは、この子には危機意識というものが欠落していること。
何かあっても私がどうにかしてくれると思っているようで、自衛する気が一切ないのだ。
誰かの助けありきで行動するなんて、怠惰以外の何ものでもない。とは言え、
「心配してくれてる?」
「……どうでもよかったらこんな風に怒ったりしないでしょ」
性懲りもなく自由気ままに振る舞う陽生を、心のどこかで許してしまっている自分がいる。
でなければ、毎度飽きもせず叱ったりしない。
本当にどうしようもないほど呆れているなら、とうに見限って今頃相手にすらしないはずだ。
私の心情を見抜いているのか、陽生は全く叱られている自覚のない様子で嬉しそうに破顔している。
あー……イライラする。
陽生にではなくて、何だかんだ言いながら結局非情になりきれない自分自身に。
陽生もそれがわかっていて、舐めたような態度とってんだろうな……。
これではいけない。
注意することをやめたら、それこそやりたい放題暴れてしまう。
口酸っぱく説教をして、ようやくマシな状態まで直してくれたのだから。
「いくら合鍵持ってるからって、無断で来ないで」
「カナママ公認だけど」
「私は許してない」
「どして?」
「どーもこーも……勝手に来られて、陽生に何かあったら取り返しつかないでしょ。あんた、いつも夜に来るし。ここら辺危ないから」
ほらもう……怒ろうとしても、なぜか遠回しに心配するような言い方になってしまう。
しかし、この子が毎回夜に突撃してくるのは確かだ。
今年に入ってからは忙しいとかで、訪れる頻度は低かったけれど。
去年は特に酷かった。
アルバイト三昧で夜遅くに疲れて帰宅した私を、タックルのようなハグで出迎えてくる遠慮のなさ…………待てよ。そんな力があるなら不審者が来ても撃退できるのでは……? って、そういう問題じゃない。
「何で連絡もなしにいきなり来たの」
「会いたくなった」
「この前会ったばかりでしょ。電話だって毎日してるし」
「声だけじゃ足りないの。それに"この前"って二ヶ月も前だよ? ちょー昔じゃん。今日まで長かったぁ……。長すぎてその間に身長1センチ伸びたよ」
「感覚おかしいって」
「おかしいのはカナの方。あー、ほら。時間が経ちすぎて頭のてっぺん黒くなってる。ブリーチしてるからカラーは一ヶ月に一度って言ってるのに。もう、わたしがいないと美容院にも行けないんだから」
「黙って」
正座に耐えられなくなったのか、足を崩した陽生はすぐ目の前まで近付いてくると、私の髪を弄り始めた。
首を思い切り振って陽生の手から逃れる。
懲りもせず再び動き出した彼女を大人しくさせるため、今度は両手首を掴んだまま座らせた。
不服そうに口を尖らせながら、拗ねた目を向けている。
が、その数秒後には何かを期待するようなキラキラとした眼差しに変わった。
「もしかして、遊んでくれるの?」
「この状況でよくそんな発想ができんな」
「わたしは縛りプレイも大歓迎だよ」
「変なこと言わないで――」
「だいじょーぶ。いつでもできるように勝負下着は身につけてるから」
「勝手に話進めないでくれる?」
いよいよ頭がおかしくなりそう……。
聞き分けが悪いだけでなく、話も通じない。
体は成熟しきっているものの、精神年齢は全く成長していない、まさにヤンチャな子どものようだ。いつものことだけど。
電話だけなら適当に受け流せたものが、対面になるとそうもいかない。
さっきみたいに押し倒してくるわ、髪を弄ってくるわで、手に負えなくなる。
そわそわしている陽生を押さえつけながら、私自身もなんとか心を落ち着かせる。
そして、最も気になっている彼女の格好について言及した。
「で、その服は?」
今日がオフの日――というわけではなさそうだ。
メイクはしっかりしているし、胸下まである薄茶色の長い髪は相変わらず艶やかで、セットも崩れていない。
私と同じ癖毛ではあるが、彼女は髪質が柔らかいから全体的にふんわりとした印象になる。
年は私より一つ下だけれど、顔だけ見れば成人に間違えられるほど大人びている。……そう、顔だけ見れば。
首より上は申し分ないのに、その容姿とそぐわない服装をしているのだ。
スウェットという野暮ったい服装を。
「んー……ちょっと小さい」
「そういうこと聞いてんじゃないのよ。何で私の服勝手に着てんのって」
「だって、部屋着持ってきてないから」
「泊まるつもり? ていうか、ここに来るまでに着てた服のままでいいじゃん」
「ない」
「なんだって?」
「その服、今ない」
「……まさか全裸で来た?」
「違うって。今洗濯中なの」
「は?」
言われてからようやく気付く。
部屋の外で何やら音がすることに。
慌ててベランダに置いてある古びた洗濯機を見ると、ガタゴトと左右に大きく揺れながら一生懸命稼働していた。
「勝手に人ん家の洗濯機回すなっ」
とっくに寿命は過ぎているため、すでに壊れていると言っても過言ではないにしても、あの揺れ方は異常だ。
洗濯機に何を入れたらああなる?
……やばい、眩暈がしてきた。
頭を押さえながら横目で陽生に視線をやると、苦々しく笑う彼女の顔が見えた。
「カナにあったかいコーヒー飲ませてあげようと思って……溢しちゃった。あっ、床は汚してないよ」
しゅんとしているのに、無理やり作ったような笑顔。
テーブルの上に紙コップが置かれているのに今気付いた。
耐え切れずに、大きなため息を吐く。
わかっている。
私に嫌がらせをしたくて奔放に振る舞っているわけではなく、陽生の行動は全て心を許しているからこそのものだと。
いつまでも子どもみたいに甘えてくる彼女の性格を直したいと思う一方で、こんな風にしてしまったのは私のせいでもあるのかなと罪悪感も感じる。
だからこそ、本気で叱ることができない。
「火傷はしてない?」
「うん、へーき」
「そっか……ご飯は食べた?」
「ううん、まだ」
「何か作るけど」
「じゃあチャーハン食べたい」
無邪気に笑う陽生に「わかった」と頷いて、キッチンの前に立つ。
六畳一間の狭い部屋の中にあるキッチンは、コンロ一口とシンク分のスペースしかない。
シンクの上にまな板を置いて、具材を切っていく。
そういえば、陽生に食事を振る舞うのはかなり久しぶりかもしれない。
最後に作ってあげたのは、去年の春頃か……。
料理中、ずっと引っ付いてきて大変だった。
今回も包丁を扱っている時に後ろから抱きつかれないかとヒヤヒヤしていたけれど、意外にも静かに座っていた。
ニコニコと上機嫌な様子で、私をガン見している。
「やっぱりカナの家は落ち着くなぁ」
「こんな古臭くてボロい部屋が落ち着くなんて物好き、陽生くらいだけどね」
「キレイとかボロいとか関係ないよ。わたしにとってはカナのいるここが、帰る場所だったから。もちろん今も」
穏やかに目を細める陽生の表情は、安心しきったように緩んでいた。
小学生の頃からここに足繁く通っていたから、半分自分の家だと思っているのかもしれない。
"住めば都"という言葉があるように、どれほど劣悪な住処でも慣れたら心地良さを覚えるものなのだろう。
……さすがにそれは人に寄るかな。
リクエストのチャーハンがそろそろ出来上がりそうなところで、スマホが鳴った。
私――ではなく、陽生のスマホだ。
電話に出て二言ほど話したかと思えばすぐに切って、突然くつくつと笑いだした。
「マヤさんから連絡きた。めちゃくちゃ焦ってる。『家にいないみたいだけど、どこにいるんですか』だって」
さながら、イタズラが成功して面白がっている悪ガキのようだ。
この子の担当だといろんなことで振り回されて、さぞ気苦労が絶えないに違いない。
今まさに迷惑をかけているし。
「あんた、仕事抜け出してきたでしょ」
「忘れ物取りに一回家戻るって言っただけ」
「……で、なぜかここにいると」
「カナに会いに行くための口実だよ」
「それを"抜け出してきた"って言うんじゃないの」
薄々そうだろうなとは思っていた。
そこまでして私に会いに来る行動力が恐ろしい。
段々エスカレートして、いつかは昼間の学校にまで押しかけてくるのでは……? 陽生なら本気でやりかねない。
「真野さん心配させたらダメでしょ。もう行きな」
「えー。まだここにいたい」
「わがまま言わないの」
「ご飯……」
「おにぎりにしてあげるから」
「服、どうしよう」
「そのまま着てていいよ。洗濯中のあんたの服は乾かしてから返す。上着は?」
「ない」
「まったく……」
上着なしでここまで歩いて……いや、車か。
真野さんに最初は自分の家まで送ってもらったはず。
そこからこっそり私の家まで歩いて来たとして、それでも10分以上はかかる。
秋の夜は肌寒い。風邪でも引いたら仕事に支障が出てしまう。
ため息を吐きながら、タンスの中から厚手のパーカーを取り出す。
私が着ると少し大きいけれど、陽生ならちょうどいいかもしれない。
「外冷えるから、これ着て」
差し出されたパーカーを見て一瞬だけ固まった陽生は、すぐに屈託のない笑みを浮かべて嬉しそうに受け取った。
大事そうにぎゅっと腕に抱え、顔を埋めてスリスリし始める。
「カナの匂いがする」
「洗剤の匂いでしょ」
「……あったかい。ありがと」
あまりに幸せそうな顔で笑うもんだから、不本意ながら釣られて微笑がこぼれた。
こっちの心労もお構いなしに本能のまま動くし、年齢と不釣り合いなほど手のかかる子だけど。
素直に感情表現をしてくれるところは、正直に可愛いなと思う。
もう少し節度を保ってくれるとありがたいけれど。
私もこんなだから、なかなか自立してくれないんだろうな……。
チャーハンもといおにぎりを受け取り、パーカーを肩に羽織った陽生は、腰を上げて私の前に立つ。
頭半分ほど背の高い彼女を見上げた直後、脇の下に腕を回してそっと抱き締めてきた。
甘えるように、私の首に顔を押し付ける。
吐息が当たってかなりくすぐったい。
「カナ、今日も世界で一番好き」
「はいはい」
「体に気をつけて、絶対に無理はしないでね」
「……心配しすぎ」
こうして気持ちを伝えてくるのは、別れ際のルーティンみたいなものだ。
会えるのは今日が最後かのような大袈裟感は否めないけれど。
以前、毎回言っていて飽きないのかと溢したら、「カナが好きだから」と率直すぎる理由を返された。
これが一度だけなら照れるのだろうが、何度も言われると挨拶の一部として慣れてしまう。
今日もほどほどに受け流して、最後に陽生の背中をポンポンと優しく叩く。
陽生はゆっくり首から顔を離――さずに、そのまま私の耳元までスライドさせた。
首筋を辿るように彼女の唇が肌に擦れて、こそばゆさに堪らず身震いする。
私の耳に口をつけると、先程までとはまるで別人のような
「近々サプライズするから、楽しみにしてて」
吐息混じりの声が、耳の中を撫でる。
その瞬間、背筋にゾクゾクとした刺激が走った。
耳を押さえながら、咄嗟に陽生から離れる。
何事もなかったかのように、当の本人はニコリと微笑んでいた。
こいつ……絶対わざとやったな……。
怒られそうな雰囲気を察したのか、陽生は楽しげに手を振って颯爽とこの場を後にする。
ちょうど外で車の停車する音がした。
……はぁ。疲れた。
嵐が去った後のような疲労がドッと押し寄せる。
あの子の忘れ物はないかと、念のため部屋の中を確認しようとして、紙コップが視界に入った。
私のために持ってきたというコーヒー。
溢したのは本当のようで、中身が半分以上減っていた。
おもむろに手に取り、口をつける。
「…………温い」
時間の経ったコーヒーは酸味が強く、すっかり風味が変わっていた。
後で温め直そうと思い、ひとまず冷蔵庫に入れようとした時、スマホの振動する音が聞こえた。
別れたばっかりなのに早速電話か……。
何度目かのため息を盛大に吐いて、渋々リュックの中からスマホを取り出す。
画面に表示されている発信元の名前を見て、思わず目を見開いた。
まさかこの時間に電話をしてくるとは思わない相手――夕莉からの着信だった。
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