第97話 恩返し(2)
二つ返事で夕莉について行った先は、彼女の自宅だった。
一等地の高級住宅街に聳え立つ、超高層マンションの最上階。
エントランスにはコンシェルジュが常駐しており、オートロックが何重にも施されている。
また、エレベーターは住んでいる階のボタンしか押せない仕様になっていて、安易に他の階へ降りることはできない。
セキュリティは申し分ないほど強固だ。
オートロックのエントランスを通り、エレベーターホールに入るための開錠をカードキーで行い、さらにエレベーターのボタンを操作するためにカードキーをかざす。
防犯対策が厳重であるほど、その分手間が増える。
当たり前だけど、次々と鍵を開錠していく夕莉の手つきは慣れたものだった。
そんな彼女の姿を見るのも、すっかり慣れた。
何しろ、平日はほぼ毎日この家にお邪魔しているのだから。
付き人の業務の一環として、家事をお手伝いするために。
初めはマンションの複雑な構造や見慣れない内装にかなり戸惑ったりもしたけど、今では学校に通うような感覚で出入りできる。
こんな高級マンションに足を踏み入れること自体、庶民には一生無縁だと思っていたのに。
エレベーターに乗り、最上階のボタンを押す。
壁に寄り掛かりながら、操作盤の前で姿勢良く立っている夕莉の横顔を眺めていた。
数秒も経たないうちに、私の視線に気付いた夕莉が顔を向ける。
「……どうしたの?」
「家まで呼ぶくらいだから、もしかして夕飯ご馳走してくれんのかなーって考えてた」
「奏向が食べたいと言うなら、用意させるわ」
「あ……まじか」
半分冗談で言ったのに、快く受け入れてくれた。
ただ、その口ぶりからして食事をもてなしてくれるわけではないようだ。
厚かましい要求をしたみたいで、軽く発言してしまったことを少し後悔する。
"付き合って"と言うくらいだから、何かしてほしいことでもあるのだろうか。
あまり詳しく聞き出すのは野暮だと思って、詮索するのは避けていた。
どんな用件だろうが、夕莉のお願いなら何でも付き合ってあげたいし。
最上階に到着し、エレベーターから降りる。
このフロアは全て神坂家が所有しているが、実際に生活で使っている部屋は片手で数えられる程度らしい。
この広い空間にたった二人しか住んでいないのかと思うと、何だかもったいないような気もする……。
そんで、めちゃくちゃ掃除が大変。
そんなことを思いながら、夕莉の後に続いて玄関へ入る。
同じタイミングで偶然近くの部屋から出てきた杏華さんがお出迎えしてくれた。
「おかえりなさいませ……あら、奏向さんもご一緒でしたか」
「はい、お邪魔します」
杏華さんは驚いたように私たちを凝視すると、すぐに顔を綻ばせた。
いつも以上にニコニコしていて、とにかく喜んでいるのが伝わってくる。
諸々の事情を知っていたから、今の状況を見て問題が解決したと察したのだろう。
今まで何も言わずにただ見守ってくれていたけど、内心では心配していたと思う。
私が本心を打ち明けるきっかけも作ってくれたし、後でちゃんとお礼をしよう。
「……杏華。口元が緩んでる」
つられて笑顔になる私とは対照的に、夕莉は無表情で突っ込んでいた。
相変わらず、杏華さんに対しては容赦ない。
というより、信頼関係が築けているからこそ、遠慮なく接することができているように見える。
それに、本気で冷たく当たっているわけではないことは知っている。
その証拠に、杏華さんは夕莉の辛辣な態度をまるで意に介さず微笑んでいた。
「申し訳ありません。最近のぎこちなかった雰囲気が嘘のような、とても仲睦まじいご様子だったので。……もう心配する必要はなさそうですね」
「心配も何も、初めから問題はなかったわ」
「問題なくはなかったでしょ。明らかに私のこと避けてたし。さすがに傷付いたなー」
「それはっ……避けざるを得なかったというか――」
「好きだからこそ、みたいな?」
「……っ……そもそも、奏向が私への想いを正直に話してくれていたら、あそこまで思い悩むこともなかったのよ」
「むー……だって、あの時はクビにされるかもしれないって思ったら踏み出せなくて」
「つまり、その程度の好意だったということ?」
「それは絶対に違う――」
「はい。お二人とも、これ以上
「なっ……!」
夕莉が反論しかけて、赤面しながら言い淀んだ。
よく噛み付くわりには、呆気なく返り討ちに遭っている。
杏華さんが仲裁に入ってくれたおかげで、口論が強制的に収まった。
"戯れ合う"という表現はなんか違う気もするけれど……。
「何はともあれおめでたいことですから、今夜はとっておきのお食事をご用意いたしますね」
「じゃあ、私も手伝います」
「奏向さん。お気持ちは嬉しいのですが、今回は全て私にお任せください。それに、今はお仕事の時間ではありませんよね?」
「あれ……そっか」
いつもの癖で料理のお手伝いをしようとして、はたと思い留まる。
学校のない休日は勤務時間外で、当然付き人としての職責を果たす必要はない。
てことは、私は今どういう立場でここにいるんだ……?
「お食事ができ上がるまで、じっくり親睦を深めていてください。――お嬢様のお部屋で」
「杏華……!」
またもや頬を赤らめて、責めるような視線を向けている。
からかわれるのはやっぱり気に食わないらしい。
でも、イジりたくなる気持ちはわかる。
冷静沈着な子が稀に焦っている姿を見ると、無性に微笑ましく思ってしまう。
まさに今の夕莉みたいに。
ぷいと顔を背けた夕莉は、私の手首を掴んで足早に廊下を歩いていった。
そういや、私も一緒に夕食をご馳走になる流れだったけど……まぁ、いっか。
終業時刻を過ぎてしまうからと、今まで誘われるたびに断っていたし、潔く厚意を受け取るのも悪くない。
なんて考えているうちに、ある部屋の前で夕莉の足が止まった。
ここは確か……。
急に心拍数が上がって、緊張感に襲われる。
ついさっき言っていた杏華さんの言葉を思い出し、顔が熱くなった。
まさか……まさか、ね。
"付き合って"ってそういうこと?
我ながら思考が厭らしすぎる。
好き合っているとわかってからまだ一日経っていないどころか、一時間ほどしか経っていない。
関係を進めるにはあまりに早すぎるというか、もう少しお互いの気持ちを噛み締め合ってから、徐々に段階を踏んで……。
「……奏向?」
「覚悟は、できて……ますッ」
「何のこと?」
手を引かれて、気付いたら夕莉の部屋に入っていた。
挙動不審と思われても仕方ないくらい目が泳いでいる私に向かって、夕莉は不思議そうに小首を傾げる。
その様子だと、どうやら早とちりをしてしまったようだ。
一人で勝手に妄想するとか恥ずかしすぎる……。
「適当な場所に座って」
声をかけられ、座れそうな場所を探す。
前に来た時と全く変わらない内装。
そして、ほのかに香る甘い柑橘系の匂い。
夕莉はこの匂いが好きなのかな。
確かに、リラックスできるというか、すごく落ち着く。
あと、私だけかもしれないけれど無性に情欲を掻き立てられる。
……やばい、この部屋に長時間いたら気がおかしくなりそう。
夕莉を襲ってしまうかもしれないという危ない意味で。
そんなことより、どこでもいいからさっさと座らないと……。
咄嗟に視界に入ったのは、一人で使うには余りあるほど大きなベッドだった。
ダブル……いや、クイーンサイズ? くらいの大きさはある。でかすぎでしょ。
毎日あそこで夕莉が寝てるんだ……て、おい。
「失礼しまーす……」
結局座る場所に選んだのは、部屋の真ん中に鎮座するこれまた大きなグレーの布張りソファ。
高級ホテルのスイートルームにでも置かれていそうな、横たわれる座面があるやつ。
この家には来慣れているはずなのに、夕莉の部屋だけは変に
「あなたに、返したいものがあるの」
「返したいもの?」
私の前まで歩み寄ってきた夕莉が、改まった口調でこちらを見下ろす。
何か貸したっけ? と考える暇もなく手を差し出された。
視線を移すと、そこにあったのは100円玉だった。
「これ渡すために、私を家まで連れてきたの?」
「普段硬貨は持ち歩かなくて……」
なるほど。
ご令嬢ってのは小銭を持たない人種なのか。
そういえば、学食もカードとか電子マネーで買ってたし。
にしても、なぜ100円? 臨時ボーナスか何か?
だとしたらめちゃくちゃ嬉しい。
「奏向は私のことを覚えていなかったでしょう。だから、今まで返せなかった。でも、何のきっかけがあったのかは知らないけれど、思い出してくれたから。……これは、私にアイスを買い与えてくれた時のもの」
……ああ、中学の時の。
別に返さなくていいのに。
泣き止ませたくて半ば無理やりあげたものだし、完全にこっちの自己満でやったことだから。
口に出そうとしたけれど、夕莉の嬉しそうな顔を見たら全部吹き飛んだ。
「あの時も、救われた。……奏向が私に話しかけてきた時、最初は馴れ馴れしくて遠慮のない人だと思ったわ。だけど、本当は居心地が良かったの。あなただけが、私を対等に見てくれたから」
そんな風に思っていたとは。
大体、私が夕莉に話しかけた動機は、夏休みの自由研究で猫を追いかけていたついで、みたいなもので。
正直、大層な理由なんて欠片もなかった。
……と、私の主観では大したことないきっかけだったけれど、夕莉にとっては違うみたいだ。
いい思い出に浸っているような、とても柔和な表情をしている。
「多分、自覚していなかっただけで……私を救ってくれたあの時から、あなたに心奪われていたのだと思う」
突然の告白に、心臓が跳ね上がった。
何で面と向かってそんなこと言えちゃうかな……。
バカみたいにまたニヤけちゃうでしょ。
いや、それ以上に照れる。
嬉しいやら恥ずかしいやらで感情がぐちゃぐちゃになりながら、差し出された100円玉を素直に受け取った。
……あ、今年製造された新しいやつだ。
「これ、家宝にする――」
意気揚々と宣言していた途中で、思わず声が引っ込む。
何の前触れもなく、夕莉の手が私の前髪を掻き上げたから。
訳もわからずおでこをあらわにされたせいで、眉間にシワが寄ってしまう。
私がさっき夕莉の髪をわしゃわしゃしたことに対するお返しだろうか。
にしては、手つきが優しすぎる。
「……この傷跡、痛くない?」
傷跡? ……って、あれか。
以前にも同じこと聞かれたな。
私にとってこの傷跡はもはやないようなものだから、言及されないと気付かない。
痛みもなければ違和感もなく、体に全く影響はない。
ただ、適切に処置できなかったから跡は一生残ると思う。
「全然痛くないよ。デコピンしてみる?」
「しない」
即答だった。
傷跡然々よりもデコピンそのものが痛くね? と、発言してから気付く。
夕莉はそういうの手加減しないから……断ってくれてよかった。
「あの時、どうして急にいなくなったの」
穏やかな雰囲気から一変し、真剣な表情で私を見据える。
文脈からして"あの時"というのは、誘拐された夕莉を助けた時かな。
この傷跡は他でもなく、その時に負った怪我のものだから。
確か、意識が飛びそうになって、無我夢中でその場から離れようとした気がする。
「あー……警察の世話になりたくなかったっていうか、早く帰りたかったっていうか……」
「…………」
要は、後始末に付き合わされたくなかっただけ。
当時は喧嘩に自信があったから、後先考えず首を突っ込んでしまったけれど、思いの外怪我を負わされたのは誤算だった。
それにあの時、予定があって急いでいた。
その用事をすっぽかしたくなくて、警察が来る前にこっそり逃げたんだ。
納得したのかしていないのか。
おそらく後者であろうと思われる視線を向けながら、夕莉は私の額の傷跡をなぞるように触れる。
執拗に、労るように。
その手つきがあまりにも優しく……たまにいやらしくて。
何だか変な気分になってくる。
「ちょ……くすぐったいって」
「……奏向はいつも、自分が犠牲になる道ばかり選ぶわね」
顔を近付けてきたかと思えば、額の傷跡にそっと唇を押し当ててきた。
肌が少し触れる程度の軽いキスだけれど、感触ははっきり伝わってくる。
唇を離してはまた触れて、優しいキスを何度か繰り返す。
不意に、口の中で舌が動くような音が微かに聞こえると、湿り気のあるものが傷跡をチロリと舐めた。
「夕莉……!?」
「せめて今くらいは……誰かのためではなくて自分のために、貪欲になってほしい」
額から唇を離し、今度は私の頬に手を添える。
顔の輪郭をなぞるように撫でたあと、ゆっくり顎を持ち上げた。
自然と、夕莉の唇に目が行ってしまう。
吐息が触れ合う距離まで接近し、お互いの唇が重なり合う寸前。
淫欲を煽り立てるような、色香のある声で囁いた。
「奏向に――求められたい」
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