第96話 恩返し(1)

 指を絡め合って、手をにぎにぎする。

 肌の感触や弾力を確かめるように。


 時折、指の間や手のひらを摩ったり、深く握り直したりして、ひたすら手を触れ合わせているこの至福の時間を存分に味わっていた。


 主に弄くり回しているのは私の方で、夕莉はされるがままじっとしているだけではあるが。


 広場のベンチで手を握ったまま――俗に言う恋人繋ぎをしながらただ居続けること数十分。

 夕日が差す空は、すっかり黄昏色に染まっていた。


 触り心地が堪らなく良い手をひたすらにぎにぎしていたら、大人しくしていた夕莉が痺れを切らして、気まずそうに音を上げた。


「……いい加減、止めてほしいのだけど」


 そう訴える彼女の頬は赤い。

 空いている方の手を口元に当てながら、恥ずかしげに視線を逸らしている。

 照れ臭そうにしつつも、私の手はしっかり握ってくれていた。


 セリフと行動が矛盾している。

 素直じゃない夕莉の態度が微笑ましく思えて、ついイジワルをしたくなった。


「何を?」

「……手、くすぐったいわ」

「そのわりに全然嫌そうじゃないけど」


 顔を覗き込んでも、なかなか目を合わせてくれない。

 気を引こうとして手のひらをゆっくり擦ると、夕莉の眉間がピクリと動いた。

 が、それ以上の反応はない。


 拒絶しないのをいいことに、指に少し力を入れてみたり、弱めてみたり、マッサージをするような刺激を与えてみる。


 再び夕莉の顔を確認すると、目を細めながら、何かを耐えるように下唇を噛んでいた。


「我慢してる仕草も可愛い」

「っ……」


 まるで自重することなく、心の声がそのまま脊髄反射で漏れ出る。

 すると、夕莉の顔が耳まで赤くなった。


 さっきはあれほど感情的な告白をしてくれたのに、落ち着いてからは反応がいちいちウブで困る。

 その様子を見るたびに、私の心臓が痛いほど締めつけられてしまうから。


 これ以上攻めたら、今度は顔から火が出るのではないだろうか。

 そんな姿も見てみたいけれど、あまりしつこいとさすがに嫌がられるかもしれない。


 それにこのまま彼女を弄っていたら、何時間でも居座ってしまいそうだ。


「ごめんごめん、そろそろ離そうか」


 名残惜しくも、繋いでいる手をさりげなく離そうとしたら、夕莉の手が僅かに力んだ。

 まるで、行かないでと繋ぎ止めるように。


 縋るような眼差しで私を見ながら、ぼそっと呟く。


「……離してほしいとは、言ってない」


 とんでもない破壊力に、奇声が喉まで出かかった。


 まったく……何でこういう時に限ってちゃんと目合わせてくんの?

 くすぐったいとか言ってたくせに、上目遣いで引き止めるってどういうこと?


 はぁ……。

 もう可愛いすぎてため息しか出てこない。


 悶えそうになるのを何とか堪えるため、繋いでいない方の手で握り拳を震わせていたら、隣から小さな苦笑が聞こえた。


「……ずっと笑っているわね」


 ニヤニヤは隠し切れていなかったらしい。

 昔からそうだけど、表情筋だけは思い通りに動いてくれない。

 不機嫌なことがあればすぐ顔が険しくなるし、嬉しいことがあれば綻びる。


 ずっと笑っているということは、ずっと上機嫌だということ。

 そりゃあ、笑顔が止まらなくなるようなことが起こったのだから、感情を抑えろという方が無理な話だ。


 きっとだらしなく口元が緩んでいるのだろうけど、この際何と思われようが構わない。


「だって、めちゃくちゃ嬉しいんだもん。両思いなんだなーって改めて考えたら……無理、にやけちゃう。こんなに浮かれるなんて人生で初めてだよ」


 聖煌学院に合格して特待生になった時ですら、ここまで喜ばなかったのに。


「だからって……別に、手を繋ぐのは初めてではないでしょ」

「夕莉から繋ぐのと私から繋ぐのとじゃ、感じ方が全然違うし」

「……同じだと思う」

「違うって。私が主導権握ってるみたいでワクワクすんの」

「奏向にはいつも振り回されているから、主導権なんて今さらな気もするけど」

「そうだっけ?」

「もう少し厳しく躾けた方がよかったかしら……」


 諦めたようにため息を吐いて、そっと微笑んだ。


 ――うん。やっぱり、笑った顔が一番可愛い。

 この笑顔をこれからもっと見せてくれたらいいな。


 不意に、繋いでいる手に視線を落とす。

 夕莉の指が私の手の甲を擦るように動き始めた。

 どうしたんだろうと思い、彼女の顔を窺う。


「……どうして、ここに来たの」


 少し躊躇うような様子で、下を向いていた。


 ……確かに、その疑問は尤もだと思う。

 告白なら学校でもできたし、夕莉からしてみれば、まさかわざわざ休日に私が会いに来るとは思わなかっただろう。


「杏華さんに教えてもらった。休日はよくここに来るって。それに、すぐにでも会って伝えたかったから」


 月曜日まで待てなかった。

 一刻も早く、夕莉に会いたくて。

 この広場がお互いにとって特別な場所なら、なおさら。ここで、話をしたかった。


「杏華からどこまで聞いたの。……私の、過去のこと」


 恐る恐る尋ねる声からは、不安が感じ取れた。


 どこまで、と言われても……正直に答えるべきだろうか。

 杏華さんから諸々教えてもらったとはいえ、具体的な過去の出来事までは聞いていない。


 ただ、話の内容からして相当辛いことがあったのは何となく察することができた。

 私が聞いたのは、あくまでその程度だ。


「……付き人のルールができた経緯と背景については、大まかに。ごめん、あんまり触れてほしくないよね――」

「謝らないで。話を振ったのは私の方。……奏向には、いずれ話そうと思っていたことだから」


 そう言って、ゆっくりまぶたを閉じる。

 静かに深呼吸してから、悠然と口を開いた。


「今でも、時々悪夢を見ることがあるけれど……過去のことはあくまで記憶の一部として割り切るようにしているから。日常生活にそこまで支障はないし、こうして話せるくらいには精神的に回復している。――だから、安心して」


 夕莉の表情や口ぶりからも窺える通り、過去に囚われているような雰囲気は感じられない。

 彼女なりに前を向いているのだろう。


 しかし、だからといって素直に安心できるとは正直言えなかった。

 少なからず心配は残るし、過去を知ってしまった以上、ふとした時にその事実が頭を過ってしまうことがあるかもしれない。


 それでも、彼女が"安心して"と言うのなら、その言葉を信じたい。

 何があっても傍で支えていくと決めたから。


「これからは一人で抱え込まないでよ」

「大丈夫。今は、奏向がいるから」


 嬉しいことをさらっと言ってくれる……。

 しかも穏やかな表情で。

 頼りにしてくれているのだと思うと、何だかむず痒い気持ちになる。


 思わぬ時にドキッとするような言動を平然とやってのけるから、すごく心臓に悪い。

 私にいつも振り回されていると言っていたけれど、こっちだって充分夕莉に翻弄されている。


 高揚する感情を抑え切れず、夕莉の頭をわしゃわしゃと撫でた。


「……子ども扱いしてる?」


 前髪を崩されて、若干不機嫌そうにジト目を向けてくる。

 申し訳ないけど、そんな冷ややかな視線も今はただのご褒美にしか思えない。


 満面の笑みを浮かべながら、不貞腐れたように眉をしかめる夕莉の前髪を直してあげる。


「急に素直になったから、つい。普段のクールな雰囲気とギャップがあるところも好きだなーと思って」

「奏向の"好き"って、そういう意味……?」

「いやいや。私が伝えたのはちゃんと恋愛の方の"好き"、なんだけど」

「……本当に?」

「信じられない?」

「別に……そういうわけでは……」


 ばつが悪そうに私から視線を逸らす。


 この期に及んで疑われるのは心外だけれど、不安だと言うのなら、満足するまでいくらでも証明してあげよう。


 俯き気味な夕莉の顔をこちらに向かせるため、そっと頬に手を添える。

 瞳が一瞬だけ戸惑いがちに揺れたが、すぐに落ち着いた様子でじっと私を見つめ始めた。


 改めて見ると、彼女の双眸は光をたくさん閉じ込めたかのように透き通っている。

 一片の濁りもない、色のついたガラスのような鮮やかさ。

 飽きることなく、いつまででも見入ってしまいそうになるほど綺麗だった。


 もうしばらく見つめ合いたい気持ちを我慢し、目線を少しだけ下に落とす。


 顔を傾けて、そのまま夕莉の唇に自分のそれを重ねた。


 私からキスをするのは、二回目。

 初めての時は、背徳感と切ない気持ちがしたけれど。今は違う。

 堂々と自分の想いを伝えていいのだと思うと、この上ない喜びを感じられた。


 繋いでいる夕莉の手がピクリと反応する。


 この甘い感触をもっと堪能していたいけれど、歯止めが効かなくなりそうで、密かに惜しみながらゆっくり唇を離した。


「――これって、夕莉の"好き"と同じだよね」


 いつの間に引いていた夕莉の頬の赤みが再燃する。

 いかにも動揺した様子で目を見開いてから、顔を隠すように俯いてしまった。


「夕莉?」


 ……しまった。

 キスはまだ早かったか……?


 いやでも、手っ取り早く恋愛感情を証明するには、唇にした方が確実だし。

 今まで唇以外の接吻や際どい行為は何度かしてきた……って、何を平然と言い訳してんだ私は。


 彼女が嫌がることはしたくないと心に決めておいて、すぐに破るこの体たらく。


 浮かれすぎた自分を今すぐ殴りたい衝動に駆られた時。

 俯いている夕莉が、寄り掛かるように私の肩にコツンとおでこを当てて、消え入りそうな声を発した。


「今、すごく……幸せだと思って」


 ……ああ、本当にずるい。


 素直になれないところも、こうしてストレートな気持ちを伝えてくれるところも、彼女の全てが私の心を虜にしていく。


 今この瞬間が幸せなのは、私も同じだよ。


「奏向」


 しばらく身を預けていた夕莉が、ふと顔を上げて私を見つめる。

 少しでも首を伸ばせばキスできてしまうほどの近さで、彼女は柔らかく微笑んだ。


「今から少しだけ、付き合ってもらえる?」

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