第95話 幸せになれる場所
時が止まったかのような静寂が流れる。
ほのかに吹く風の音が、時間は確かに進んでいるのだと教えてくれる。
夕莉の目がこれ以上にないほど見開かれて、澄んだ瞳は大きく揺れていた。
いきなり告白されて、すんなり状況を受け入れられる人なんてそうそういないだろうし、当然の反応だと思う。
ロマンチックな雰囲気の作り方なんてわかるわけないし、咄嗟に気の利いた言葉をかけてあげられるほど口上手でもない。
私はただ思ったことを率直に、ありのまま伝えることしかできないから。
硬直したまま言葉を発する気配のない夕莉に、堪らず苦笑する。
驚いたり、困ったり、泣きそうになったり。
最近は無表情ばかりだったから、いろんな表情を見せてくれて嬉しい。
でも、本当は笑った顔が一番見たいんだけどな……。
ひとまず今は、自分の想いを出し切ろう。
「いろいろ、気持ちの整理がついたんだ。これからはやりたいことをするし、言いたいことも隠さずに言う。たとえそれがルールを破ることになるとしても。私は――」
付き人をクビになって、以前のようにバイト三昧の空っぽな日常に戻るか。
本当の気持ちを押し殺してまでルールを守って、笑顔が消えた夕莉の隣に居続けるか。
その二つを天秤にかけて、やっぱり後者の方が嫌だと感じた。ただそれだけ。
自分の気持ちに正直でいたい。
人を好きになって初めて抱いたこの尊い感情を、なかったことにはしたくない。
その意志を貫き通す価値はあると、信じている。
ただ、だからといって何もかも諦めたわけではない。
今も変わらない、私の願いは――
「何があってもずっと、夕莉の傍にいたい。主従だけの繋がりじゃなくて、本当の意味で心を許し合える関係になりたい」
端的に言えば、"特別な関係"。
私にとって夕莉は唯一無二の大切な人で、彼女にとっても、かけがえのない存在が私であってほしいと思う。
もし雇用関係が解消されたとしても、それ以上の特別な繋がりがあれば、いつでも夕莉の隣に戻ってきていいのだと思えるから。
「……でもね。もし、私の気持ちが重荷に感じるなら、遠慮なく突き放していい。もうこれ以上苦しんでほしくないし、私は夕莉の意志を尊重したいから。あんたにとって幸せになれる場所が他にあるなら、そこにいるべきだと思う」
好意は相手に押し付けるものではない。
いくら夕莉のことが好きでも、その気持ちを受け入れてほしいと強要するようなことまでしたくない。
彼女はこれまで、対人関係のせいで辛い思いをしてきただろうから。
私自身の気持ちを打ち明けることは大事だけれど。
それ以上に、何よりも夕莉の幸せを願っている。
彼女が嫌がることはしたくないし、拒絶したいなら無理に近付いたりしない。
それでも――
「それでも、私の隣にいることを選んでくれるなら──今までの辛かったこと全部上書きできるくらい、夕莉がもっと笑顔になれるような楽しい思い出を、私がこれからいっぱい作るよ」
わがままが許されるのなら。
夕莉が幸せだと感じる瞬間を彼女の傍で、私が作ってあげたい。
これが、私の本心。
夕莉に向ける感情のすべて。
そして最後に、もう一度だけ訊こう。
「夕莉は私のこと、どう思ってる?」
自分の気持ちは全て伝えた。
正直な想いを吐露することがこんなにも勇気のいる行為なのかと痛感したけれど、一切悔いはない。
あとは、夕莉の答えを待つだけ。
私が本心を隠して"いつも通り"を装っていた間、夕莉もきっと同じようにたくさん悩んでいたはずだから。
そんな彼女が出す決断なら、どんなことでも受け止める覚悟はできている。
「…………」
苦しげな表情で唇を引き結んだ夕莉は、私の視線から逃れるように顔を俯かせて、
「……どうして、そんなに真っ直ぐなの」
ぽつりと、囁いた。
微かに震えている声は、抑えている不満や怒りが滲み出てしまっているようにも聞こえるし、泣き出しそうになるのを必死に堪えているようにも聞こえる。
その一声だけでは、どんな感情を抱いているのか判断がつかなかった。
今はただ、黙って夕莉の言葉に耳を傾ける。
「あなたは本当に何も、変わってない……その誠実さが眩しくて……だからこそ、苦しくなる」
痛みを堪えるように紡いだその言葉に、胸が締め付けられた。
彼女は感情が表に出ない分、人一倍繊細な心を持っているのだと思う。
これまで、私には想像もできないような痛みや苦しみを味わってきたはずだ。
その感情をわかってあげられなかったことが悔しい。
「心を開くつもりは、なかった」
そっと拳を握り締めて、幾分か落ち着いた口調で語り始める。
「私が今まで、奏向に気を許したような言動をとっていたのは……あなたが本当にルールを破るような人ではないことを確かめるためなのだと、そう言い聞かせていたけれど……その行為は紛れもなく、私情に塗れたものだった」
自らの罪を告白するような慎重さで、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「……矛盾していることは、わかっていた。雇用関係で結ばれている以上ルールを守ってほしい一方で、心のどこかで期待していたの……奏向の私に向ける想いが、特別なものだったらいいのにと。だから……奏向に"大切な雇用主"だと言われた時、今まで私があなたに向けてきた感情の全てが、無意味なものに思えてしまった」
初めて知る。
夕莉の抱えていた苦悩を。
「……あなたに抱いていた感情が何なのか、ずっとわからなくて……でも、あの時突きつけられた言葉で、ようやくわかった。私に気がないのなら、この気持ちはきっと足枷になってしまうから……あなたを想い続けるのは諦めようと、そう思っていたのに…………だめなの」
ルールを破るまいと、苦渋の思いで口にした私の言葉が、夕莉をここまで苦しめていたことを改めて思い知る。
私の中で夕莉への気持ちの変化があったように、彼女もまた心が揺れていた。
私たちはずっと一人で、迷って、悩んで、すれ違っていたのかもしれない。
「本当は、諦めたくない……手放したくないっ……私が幸せになれる場所があるとするなら、
平坦だった夕莉の声に、感情がこもる。
俯いていた顔を上げると、真っ向から私を見据えた。
大粒の涙を流しながら。
縋るような眼差しで、嗚咽を我慢して。
震える声で、精一杯に。
「好き――私も、奏向が好き」
その言葉を聞いた瞬間、私は無意識に夕莉の体を抱き寄せていた。
背中に腕を回し、慈しむように優しく抱き締める。
嬉しくて――愛おしかった。
ここまで感情を剥き出しにして伝えてくれたものが、私への想いだったこと。
その想いを伝えるまでに、どれほどの葛藤や苦悩を抱えてきたのか。
私がもっと早く告白を決断していれば、この子は苦しまずに済んだのかもしれない。
それでも今、夕莉が自分の気持ちと向き合って、涙を流してまで本音を打ち明けてくれたことに何よりも喜びを感じ、心を揺さぶられた。
私の肩に顔を埋めた夕莉が、ぎゅっと抱きしめ返す。
とうとう堪え切れなくなったのか、静かに泣き声を溢した。
「奏向が、私の前からいなくなる方が耐えられない……だからずっと、傍にいて……」
「うん」
子どもをあやすように、ぽんぽんと頭を撫でる。
泣きながら懇願する様子に、これまでにないほど必死な思いが伝わって、庇護欲が掻き立てられた。
思えば、あの頃から彼女の泣き顔を見ていた。
名前も素性もわからない女の子に対して、笑ったらもっと可愛いのに、なんて思ったことが当時はあったかもしれない。
ほんとに……泣き虫だなぁ、夕莉は。
あんただって変わってないじゃん。
でも、確かに変わったことがあるとするなら──
「好きになってくれて、ありがとう」
それは心だと思う。
人を信じられなくなって、誰かを好きになるという感情もわからなかった子が、勇気を出して胸の内を曝け出してくれたのだから。
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